トラブルゲッター
空草 うつを
1.犬も歩けば棒に当たる
土埃が舞い、熱がこもる汚らしい倉庫の真ん中で、椅子に
目出し帽を被ったいかにも怪しい三人の男に取り囲まれていても。その男達の手に鉄パイプや金槌という物騒な武器が握られていても、動じることなく椅子の背もたれに体を預けている。
普通ならば不安で泣きわめくか、恐れをなして命乞いをするか、心臓の弱い者ならば恐怖の限界を突破して失神するか。目出し帽の男達はそのどれかを期待していたのだろう。
しかし、今回はそう来たかと自身が置かれている状況を客観視し、以前見舞われたあれに比べたら大したことはないしあの時は本当に酷かったと思い出して笑みを浮かべる朔月に対して、目出し帽の男達の方が動揺している有様だ。
トラブルを起こして周囲に迷惑をかける者をトラブルメーカーと呼ぶが、朔月の場合は逆だ。犬も歩けば棒に当たる、朔月が歩けばトラブルに見舞われる。何かと不運なトラブルを被ることの多い朔月は、いわばトラブルゲッターだった。
——話は数時間前に遡る。
時計のアラームで無理矢理起こされた朔月は、寝ぼけ眼をぐりぐりと擦りながらベッドから半身を起こした。リビング奥に設置されたロフトが、朔月の寝室兼部屋だった。小窓からは春にも関わらず初夏にも似た朝日が容赦なく差し込み、色白の肌にちりちりと突き刺さる。大きすぎてこぼれ落ちそうな瞳は眩しさと眠さで細められ、不機嫌な童顔はまるで泣く直前の赤子のようだ。
二十二歳の男ならば、朝は無精髭で口周りが覆われるのだろうが体質からか髭が薄い。その顔貌と男性のわりに華奢な体格から、女性と見間違われることも多々あった。
朝の弱い朔月は、脳が起きたことを理解するまで時間を要する。暫し上半身を起こしたままでぼうっと白い壁を眺めていると、香ばしいバタートーストの匂いが鼻を掠めて、素直なお腹がぐぅ、とせがむ音を鳴らす。
ロフトに通じる階段が軋む音と共に視線を感じて見やれば、階段を半分まで登り、朝から眉間に皺を刻んだ銀縁眼鏡の男と目がかち合った。
漆黒の如し黒髪はワックスで整えられ、かっちりとアイロン掛けされたワイシャツの上にダークブルーのベストを羽織っていた。朔月の目線からは見えないが、恐らくダークブルーの細身のスラックスを履いているのだろう。三十路を過ぎた男からは清潔感と隙のない雰囲気が漂い、お硬い弁護士という職業がよく似合う。如何なる依頼にも対応する若手の敏腕弁護士、
「朝食ができています。降りてきてください」
望は仕事でもプライベートでも、どんな相手でも敬語を使った。それは、同居人兼法律事務所の事務員である朔月に対しても同じ。
まだ起ききっていない朔月は、欠伸をかましながら階段を降りていく。何度か足を踏み外しそうになって肝が冷え、床に足がつく頃にはようやく覚醒した。
「望さんは食べないの?」
左腕にスーツのジャケットをかけて玄関へ向かう望に、朔月の中性的な声がかかる。
「今日は朝一でアポイントがありますので私は先に頂きました」
「こんな朝早く? まだ六時半だよ」
「クライアントがその時間を指定してきましたので」
「ふぅん、そう」
バターがほんのり溶けたトーストを齧る軽い音が、やけに寂しげに部屋に響く。顔だけ振り向いた望は、表情を崩さぬままに口いっぱいに頬張る朔月と目を合わせた。
「一緒に食べたかったのですか?」
「へ? 俺そんなこと一言も言ってないけど」
「そのように感じましたので」
「もうガキじゃないからひとりでも食べられるし」
「私は一緒に食べたかったですよ」
冷静沈着な望の鉄仮面からは、その言葉が冗談なのか本気なのか分からない。ぷいと外した視線を冷たいココアが入ったカップに落とし、朔月は不服そうに頬を膨らませた。
「なら、『明日は早いのですが、一緒に朝食を食べたいので少し早めに起きてください』って言えばよかったでしょ? そうすればさ、俺も頑張って朝起きようって思う、かもしれないし……」
尻すぼみになっていったのは、朝の弱い自分が果たしてきちんと起きられるかどうか確証がなかったからだ。
「ホウレンソウが足りませんでした。社会人失格です」
「ほうれん草食べないと社会人失格って、そんなの初耳。だったらさ、今日の帰りにたんまり買ってくるよ。そしたら社会人復帰できるでしょ?」
無邪気にほうれん草を使った料理が何があるかと指折り数えている朔月に、社会人に必須なのは報連相であることを訂正することは憚られた。僅かに口元を緩め「いってきます」という言葉を残して出て行った。
玄関の扉が閉まる音が静まると、部屋には朔月の咀嚼音だけが恥ずかしいほど大きく聞こえる。ひとりで住むにはあまりにも広すぎるリビングに、居心地が悪くなって早々に朝食を終えてキッチンで皿を洗い始めた。水がシンクの上で弾む音と泡を纏ったスポンジで皿を洗う生活音が、綺麗に整頓されて生活感など微塵も感じないキッチンに響いた。
望の住むマンションに朔月が居候を始めたのは去年の春のことだった。トラブルに巻き込まれていた所を助けた望は、一文なしの朔月に同居の話を持ちかけた。望の紹介で彼が勤めている法律事務所の事務員として働いて半年、給料も貯まってそろそろ一人暮らしをしても良い頃かという考えに至る。いつまでも望におんぶに抱っこでは、それこそ社会人として如何なものかと思うのだ。
「自立、か」
望は堅物だ。少々過保護な面もある。だから、ひとりでも生きていけると、どんなトラブルにも負けないという所を見せなければならない。
まずは朝、ひとりでもきちんと起きられるのだと見せつけようと心に決めた。
「あとは……身だしなみかな」
トラブルに見舞われる原因のひとつが、女性と見間違われる外見だと朔月は分析している。新調したスーツに袖を通して寝癖がはしゃぎまくっている栗色の猫っ毛を整える。だが、これだけでは一介の事務員の枠を抜け出すことはできない。仕事ができて部下や上司から信頼される男にならなければ。その理想を掲げると脳裏に望の姿がちらつく。
望のようになれたらトラブルに見舞われることもなくなるのかもしれない。そっと望の部屋に押し入って、眼鏡を置いているケースを開けた。
綺麗に並んだ銀縁眼鏡は全て同じデザイン。気に入ったものは未来永劫使い続ける彼らしいと、朔月は苦笑する。比較的古株そうな銀縁眼鏡を取り出して、中のレンズを取り外してかけてみた。鏡越しに見える自分が、眼鏡をかけるだけでがらりと印象が変わる。
ひとつ咳払いして、頭に望のイメージを叩き込む。人間観察が癖になったのは、前職のおかげでもある。自己を封印して他人の全てを演じる為に必要なことだった。インプットした望のイメージを持ったまま、目を開けた。
眉間に皺を寄せて大きな瞳を吊り上げ、クールに見えるように口は真一文字に閉じる。中指で眼鏡を押し上げる仕草が澱みのないように幾度となく練習してから、鞄を手に颯爽と部屋を後にした。
今日、事務所に行ったら同僚達に何と言われるだろうかと高揚感で満たされていた朔月だったが、マンションを出た瞬間に背筋に悪寒が走った。
刹那、エンジンを蒸して朔月の真横に停められた黒いワンボックスカーから、目出し帽の者達がわらわらと登場して朔月を羽交締めにした。
助けを呼ぼうにも口を塞がれて叫ぶこともできず、手足をばたつかせても相手は動じることなく朔月を車に押し込んだ。
「早く出せ!」
朔月の手足と口を縛りながら、荒々しい声で男が運転席にいた男に指示を出している。アクセルを踏み込んで急加速した車は、朝の通勤ラッシュの道を避けるように裏道を猛スピードで駆け抜けていく。
「こいつで間違いないよな」
左隣にいた男が朔月の顔を覗き込んでいる。
「間違うわけねぇよ。銀縁眼鏡をかけてんだからな」
犬も歩けば棒に当たる、その元々の意味は犬もふらふら出歩くと棒に当たるような不運に見舞われるから、余計な行動はすべきではないことをいうそうだ。
朔月にとって余計な行動とは、銀縁眼鏡をかけたことに他ならなかった。
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