16 不運な少年と、あの日の女神

 




 翌日。

 夏休みの一日目。


 汰一は自室のベッドに寝転んだまま、カーテンの隙間から差し込む光に朝の訪れを悟る。



 また、眠れなかった。

 身体が睡眠を必要としていないのだろう、もう何週間も寝ていないというのに、眠気や怠さをまったく感じない。


 一昨夜は柴崎の指示で悪人に"罰"を与える死神の仕事をしてきた。

 赤の他人、それも悪事を働いた人間相手とは言え、誰かに不運を齎すのはあまり気分が良いものではなかった。



 ……いや、今さら何を言っているんだ。

 蝶梨を護るために、裏坂の想いを斬ったんだ。知らない人間の不運に胸を痛める資格なんて、もう持ち合わせてはいないだろう。

 それに……

 蝶梨の── の側にいられるというのなら、俺は何だってする。



 そう自分に言い聞かせ、汰一は徐ろにベッドから起き上がる。

 すると、その目に飛び込んでくるのは……



 壁一面に貼られた、無数の蝶梨の写真。



 それは中学時代、彼女がモデルとして雑誌に載っていた時のもの。

 当時の雑誌の切り抜きや、付録になっていたブロマイド写真やポスターが、所狭しと貼られている。


 汰一はその壁に近付き……写真の中の彼女に触れる。



 蝶梨は知らない。

 汰一が、三年前から彼女を想っていたことを──





 * * * *





 汰一が中学二年生になったばかりの、あの日。

 剣道部の先輩に折られた竹刀を新調すべく電車で出かけた汰一は、帰りの駅で階段から転がり落ちた。


 地下にあるホームへと続く長い階段。それを降りようとした瞬間、誰かが背中にぶつかってきたのだ。


 長い竹刀を持っていたこともあり、受け身など取れるはずもなく、無様に転がり……

 買ったばかりの竹刀を下敷きにして、腹から着地した。


 折れた竹刀がケース越しに腹を突き、汰一は堪らず嘔吐する。

 直後、ホームにいた客から悲鳴が上がる。派手に転がり落ちた上、吐いてしまったことが恥ずかしくて、汰一は急いで立ち上がろうとした。

 しかし、転がりながら頭を強く打っていたため、立った瞬間猛烈な眩暈に襲われる。



 そしてそのまま……

 汰一は、ホームから線路上に落下した。



 周囲の悲鳴が、遠くに聞こえる。

 朦朧とする意識の中、身体の下にある冷たい線路が、微かに振動していることに気が付いた。


 これは……恐らく、電車が近付いて来ているのだ。


 早く離れなければ。

 そう思うが、身体が動かない。

 辛うじて動く眼球でホームを見上げると、たくさんの人がこちらを覗き込んでいた。


 しかし誰一人として、手を差し伸べようとはしない。

 好奇を光らせ、こちらを見下ろす無数の相貌。中にはスマホのカメラで撮影している者もいる。



「なんだなんだ? 自殺か?」



 どこからか、そんな声が降って来る。




 ……あぁ、そうか。自殺。

 そうだな。いっそ、そういうことにしよう。

 こんな不運な人生、ほとほと嫌気が差した。


 先輩に竹刀を折られ、新しいのを買った帰りに階段から落ちて、竹刀を折った上に吐いて、挙句線路上に落下。そして、誰も助けようとしない。


 ずっとそうだった。

 降りかかる不運をわらわれ、不吉だと忌み嫌われ、努力も誠実も報われることなど一度もない人生だった。

 そして……恐らく、これからも。


 きっと、神さまに嫌われているんだ。

 生まれてきた時からずっと、誰かに『死ね』と囁かれているような気がしていた。

 なら、ここで終わらせよう。

 運命が自分を殺そうとしているなら、もう抵抗はしない。抗うのは疲れた。


 ここで寝ていれば……楽になれる。




 そう、朧げな頭で考え。

 汰一は、静かに瞼を閉じた。


 世界が、遠ざかって行く。

 何も見えない。何も感じない。

 ただ、"無"だけがそこに横たわっている。

 そんな真っ暗な世界に浸りかけた──その時、




「大丈夫ですか?! しっかりして!!」




 沈みかけた"無"に響く、澄んだ声。

 それと同時に、ジリリリというけたたましい音が鳴る。これは、駅の非常停止ボタンが押された音か。


 汰一は、微睡まどろみから叩き起こされるように、ゆっくりと目を開ける。

 すると……



 そこには、汰一に向かって伸ばされた一本の腕があった。



 白く、細い腕。

 その持ち主は、髪の長い少女だ。

 ホームの縁にうつ伏せになり、線路に横たわる汰一に手を差し伸べている。



「電車が来たら大変です! 早くこっちへ!!」



 自分を助けようとする者がいることに、汰一は驚いた。

 しかし、彼の心は既に、安らかな"無"への誘惑に侵蝕されていた。



「いいんだ、もう…… 生きていたって、良いことなんて一つもない。ここで、終わりにする」



 寝そべったまま呟くように言って、再び瞳を閉じる。

 独り言のような小さな声だった。少女の耳に届けるつもりがなかったから。

 だが、彼女はそれを聞き取ったらしく、



「そんなのだめぇっ!」



 と……

 汰一が思わず瞼を開けてしまうような大声を、線路上に響かせる。



「こんな死に方、絶対に駄目……人は皆いつか死ぬけど、あなたにはもっと違う終わり方があるはずだよ!」



 彼女は腕を必死に伸ばしながら、振り絞るように言う。



「本当は、死にたいだなんて思っていないでしょう? 死ぬのは怖いもん。少なくとも私は、怖くて堪らない。自分の死も、誰かの死も」



 自分と変わらない歳の少女が、見ず知らずの自分にそう語る。




「……本当に終わりでいいの? まだ行ったことのない場所が……会ったことのない人が、この世には数えきれないほどいるんだよ? その中に、君が生きる理由になるものが絶対にある。だからもう少しだけ……そのときのために、生きてみようよ」




 どうしてそんなことを言えるのか、その時の汰一にはわからなかったが……




「お願い、この手を取って。あなたを……死なせたくない」




 ホームの明かりが、彼女を照らす後光のように見えて。

 汰一は、少女の中に──"神"を見た。



 "神"なんて、信じていなかった。

 いくら祈っても拝んでも、助けてはくれないから。

 しかしこの時、汰一は悟った。

 人が何故、"神"などという不確かなものに縋るのか。


 生きるのが怖いから。

 死ぬのが怖いから。

 人智を超えた存在に、生きる指標と死後の安寧を託し、その恐怖から少しでも逃れたくて。

 ただ無意味に生き、無意味に死んでいくことが怖くて、"神"なんて概念を生み出したのだ。


 そう。

 神は──人が創った。


 生きる希望と、死後の安らぎを求める存在さきを、"神"と呼ぶのなら。

 汰一にとって、今、目の前にいる少女こそ、そう呼ぶに相応しかった。



 暗闇の中、御手みてを差し伸べる、眩しい光。

 嗚呼、彼女がいる世界なら……

 もう少しだけ、生きてみたい。



 汰一は、自分の中に生まれた新しい感情に戸惑いながら……

 腕を伸ばし、その美しい手を、掴んだ。





 ──引き上げられたホームには、たくさんの野次馬が集まっていた。

 しかし皆、遠巻きに見ているだけだ。


 その中で、少女は鞄から取り出したハンカチで汰一の口元を拭う。

 そこで初めて、汰一は彼女の顔をはっきりと見た。


 美しい少女だった。

 黒く艶やかな長髪。長いまつ毛に縁取られた大きな瞳は極彩色に輝いている。


 そんな可憐な少女が、自分のハンカチで、吐瀉物まみれの口を拭いてくれている。

 よく見れば、彼女の服にも自分の吐いたものが付いてしまっていた。引き上げるため、ホームに腹這いになったからだろう。


 汰一は急に現実に引き戻され、罪悪感と羞恥心に押しつぶされそうになりながら謝罪の言葉を述べようとする……が、



「ちよりちゃん、大丈夫?! 駅員さん呼んできたよ!」



 そんな声と共に、スーツ姿の女性と、担架を持った数名の駅員が駆けて来た。

 女性は少女の手を取り、半ば強引に立ち上がらせ、



「電車はしばらく動かないだろうからタクシーを使いましょう! では、後のことはお願いします!」



 駅員たちにそう告げると、少女を連れて足早に去って行った。


 お礼も謝罪もできないまま、その少女は姿を消した。

 汰一は、朦朧とした意識のまま担架で運ばれ──



 次に目が覚めた時には、病院のベッドの上だった。

 そして、自分の手が何かを握っていることに気がつく。


 それは、あの少女が残したハンカチ。

 何気なく広げてみると、小さな紙がひらりと落ちた。

 汰一はそれを拾い、眺める。



「……『Rioリオ』…………モデル?」



 名刺だった。

 とある雑誌の、専属モデルと書かれている。

 あの少女のものだろうかと考えたが、彼女が『リオ』ではなく『ちより』と呼ばれていたことを思い出し、疑問に思う。


 諸々が落ち着き、無事家に帰った汰一は、早速『Rioリオ』について調べた。

 名刺に書かれた通り、ティーン向けのファッション誌のモデルだった。


 年齢は、汰一と同じ十三歳。

 ショートヘアの、ボーイッシュな雰囲気の美少女だ。

 あの時の少女とは、名前も髪型も違う。メイクのせいで顔も違って見えるが……

 汰一は、極彩色に輝く瞳の美しさに、同一人物であることを確信していた。



 それから、汰一は剣道部を辞めた。

 身体を鍛えれば強くなれる気がしていたが、それだけでは駄目だと気付いたから。

『強さ』とは、誰かを負かし、力を誇示することではない。

 誰かのために、惜しみなく己の力を発揮できる意志のことを言うのだ。

 あの日、自分に手を差し伸べてくれた彼女のように。


 同時に、『Rioリオ』が載っている雑誌を片っ端から収集し始めた。

 誰にも知られないようこっそり買い、彼女が載っているページを切り取って、自室の壁に貼った。


 日に日に増えていく、彼女の写真。

 彼にとって、それは聖堂に描かれた壁画のように神聖で崇高なものだった。

 だから、親にバレて剥がされたりしないよう、自室の扉に鍵を付けた。



 転機が訪れたのは、それから一年後だった。

 突然、『Rioリオ』がモデル活動を辞め、雑誌に載らなくなったのだ。

 汰一は落胆した。彼女を応援することは、彼の生きがいになっていたから。


 失意のまま、高校受験のために塾に通い始めた汰一は……

 そこで、思いがけない名前を耳にする。



「ちよりちゃん、こないだの模試どうだった?」



 教室に向かう途中、廊下で聞こえたその名前。

『ちより』なんて、そうそういる名ではない。

 逸る鼓動を抑え、声の方に目を向けると……


 あの時の少女が、そこにいた。


 やはり『Rioリオ』として活動する時はショートヘアのウィッグを被っていたのだろう。一年前と同じ艶やかな黒の長髪を靡かせ、彼女は友人と廊下を歩いていた。


 こんなところで再会できると思ってもいなかった汰一は、驚きと喜びに立ち尽くし、声をかけることができなかった。

 後から知ったことだが、彼女が通う中学は汰一の学区のすぐ隣だった。だから、学区の中間に位置するその塾に通っていたのだ。


 不運な人生に訪れた、またとない幸運。

 しかし、その後も何度か廊下ですれ違ったが、彼女は汰一のことをすっかり忘れているようだった。

 というより、気付かなかったのかもしれない。何故なら汰一は、この一年で身長が十センチ以上伸びていたから。


 彼女は学力が高く、塾内のテストの上位者のみが選抜される特進クラスにいた。だから、同じ塾に通っていても接点は全くなかった。

 風の噂で、彼女の志望校が難関で有名な大鳳おおとり学院高校であることを知り、汰一は猛勉強を始めた。

 何としてでも、同じ高校に通いたい。

 その気持ちが、彼の生きる原動力となった。


 相変わらず不運な毎日を送る汰一だったが、塾での勉強だけは順調だった。

 今思えば、蝶梨の近くにいる間は神々が"厄"を祓っていたからだろう。入試当日も不運に見舞われることなく無事に終え……


 汰一は、晴れて彼女と同じ高校に合格した。





 * * * *





「…………」



 あの時、駅で助けた少年が自分だということを、蝶梨は知らない。

 そして、自分が三年前から蝶梨を想ってきた事実を知らない。


 その全てを話し、この部屋の壁を見せたら……

 蝶梨は、どんな反応をするだろうか?

 怖がられて、嫌われるだろうか?

 それとも、喜んでくれたりして。



 そんなことを考えながら、汰一は壁に貼った一枚の写真を眺める。

 それは、先日の夏祭りで撮ったばかりの写真。

 蝶梨と自分、そして忠克と結衣の四人が写った、浴衣姿の自撮り写真だ。


 これからはこんな風に、二人で写る写真でこの部屋を満たせるのだろうか。

 そう思うと、やはりまだ信じられないような、畏れ多いような気持ちが湧いてくる。

 汰一にとって、蝶梨は……神と同等の存在だったから。



 いつか彼女は、本物の神になる。

 一方で自分は、人間と死神、どちらとも言えない中途半端な存在になってしまった。

 だが、後悔はない。

 あの日、蝶梨に助けられた命……それを使って彼女を護ることができるのなら、これ以上に嬉しいことはなかった。


 蝶梨は知らなくていい。

 これは勝手な恩返しで、崇拝で、そして……


 どうしようもないくらいに、"恋"だから。




 汰一はもう一度、写真の中の彼女に触れ……

 部屋を後にし、扉に鍵を閉めた。








「──あ。おはよう、汰一くん」



 眩しい日差しの中、自転車に乗った蝶梨が手を振る。


 夏休み初日の今日、汰一と蝶梨は海に行く約束をしていた。

 また待ち合わせ時間よりだいぶ早くに集合してしまったなと、汰一は小さく笑いながら手を振り返す。


 一度は諦めた夏休みをこうして蝶梨と過ごせると思うと、胸が躍らずにはいられなかった。

 こちらに向かって自転車を走らせる蝶梨。白いワンピースの裾がひらひらとはためき、まるでモンシロチョウのようだった。


 その姿に見惚れながら、汰一が手を振っていると……



 蝶梨の背後から、大型のトラックが猛スピードで迫って来た。



 狭い住宅街の道路に響くエンジン音。そのまま、自転車を漕ぐ蝶梨の背後へと近付いて来る。

 音で気付いたらしい蝶梨は、慌てて自転車を道の端に寄せた。


 が、その瞬間。

 自転車の前輪が側溝の段差に擦れ、バランスを崩した。


 そのまま、トラックが迫り来る車道の方へと倒れそうになり……



「……鼬月無イヅナ!!」



 考えるより速く叫び、汰一は式神を呼び出す。

 刹那、駆ける汰一の身体が、爆風で加速する。


 彼の目には此岸しがんと"境界"、二つの世界が見えていた。

 此岸ではただのトラックだが、"亡者たちの境界"で見るそれには巨大な"厄"がへばり付き、運転の操作に干渉しているようだった。


 呼びかけに応じ大鎌に姿を変えた鼬月無イヅナを、汰一は握る。

 そして、蝶梨に衝突する直前で"厄"を斬り捨て……

 その勢いのまま彼女を抱き留め、歩道へと退避した。


 間一髪。トラックは操作が戻ったのか、急ブレーキをかけ停車した。

 自転車は倒れたが、蝶梨に怪我はなかった。



「た、汰一くん……ありがとう」



 声を震わせ、腕の中で汰一を見上げる蝶梨。

 彼女には、"厄"も鼬月無イヅナも見えてはいない。ただトラックにぶつかりそうになったところを、汰一に助けられた、という認識だろう。


 これは……浮かれそうになっていた自分への釘だと、汰一は思う。

 これからも、こうした場面はきっと少なくない。ましてや、柴崎のいるこの町から離れる時は、より一層気を引き締めなければならないのだ。

 亡者の羨望を集める"エンシ"は"厄"に狙われやすい。

 そして自分は……生きているだけで"厄"を呼び寄せる"贄の器"の持ち主なのだから。


 これが……この緊張感が、一生続く。

 常人なら気が触れそうな事実を前に、しかし汰一は不敵に笑う。

 何故なら……彼女のために生きられることに、最上の喜びを感じているから。



 汰一は安堵の息を吐き、言う。




「よかった……もう、気を付けないとダメだろ? 蝶梨は…………俺が殺すんだから」




 低く、熱を孕んだ囁き。

 それに、蝶梨は頬を赤らめると……

 汰一の腕を、きゅっと掴んで、




「ごめんなさい。ちゃんと気を付けるから…………私のことは、汰一くんが殺してね」




 そう、恍惚の表情で微笑んだ。






 彼女が神になれる条件を満たしたら。

 そして、いつか寿命を迎えたら。

 その時はそっと、首に手をかけ、口づけをしよう。

 望み通り、俺の手で送ってやろう。


 神になった彼女とは、もう会えなくなるけれど。

 人間でも神でもない紛い物として、どれだけ続くかわからない人生を孤独に生きることになったとしても。

 彼女と過ごした思い出があれば、きっと生きていける。


 だって、俺は……






 彩岐蝶梨に、どうしようもなく恋をしているから。





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