10 彼氏と彼女
その微笑みと目があった瞬間、汰一の全身を悪寒が駆け巡った。
和太鼓の演奏を眺める人々の群れ。
その向こうに……忠克がいる。
何故、どうして、ここにいる?
こんな隣町の祭りに一人で来るようなヤツじゃない。
なら、考えられる可能性は一つ。
忠克に憑依した"堕ちた神"が、
「……蝶梨、逃げるぞ」
後退りしながら、蝶梨の手を握る。
「え……?」と戸惑う彼女に説明する間もなく、汰一はその場から走り出した。
「ど、どうしたの汰一くん?」
「いいから走れ!!」
カラコロと響く蝶梨の下駄。
先ほど射的や金魚すくいを楽しんだ参道を戻るように、汰一はがむしゃらに駆ける。
が、足捌きの悪い浴衣ということもあり、蝶梨はそれほど速く走れない様子だ。
その上、夜を迎えた祭り会場にはますます人が増え、かき分けながら走るのはかなり困難だった。
まずい。こんな場所であの"黒い獣"を放たれたら、無関係の人間にまで危害が及ぶ。
柴崎は何をしているんだ? 標的がすぐ目の前にいるというのに、何故捕まえようとしない?
まさか、既に交戦して……柴崎が負けた、なんてことは……
最悪な状況を想像をし、汰一の胸に吐き気が込み上げる。
駄目だ。今は蝶梨を護ることだけを考えろ。
正面から応戦するのは得策とは言えない。とにかく少しでも人のいない場所へ退避し、近隣の神社を調べ、そこへ逃げ込もう。
そう自分に言い聞かせ、汰一は加速しようとするが……
「痛っ……」
そんな声と共に、蝶梨の手が離れた。
足を止め振り返ると、蝶梨がその場にしゃがみ込んでいる。
「ごめん、汰一くん……足が痛くて……」
そう言って辛そうな顔で足先を押さえる蝶梨に、汰一の胸が痛む。
やはり不慣れな下駄で走るのには限界がある。いっそ彼女を背負って走るか……いや、それも長くはもたないだろう。
「ごめんな、蝶梨。大丈夫か?」
頭で打開策を必死に模索しながら、汰一は彼女の側に駆け寄る。
そして、足の様子を見るためにしゃがみ込んだ──その時。
「おいおい。そんな逃げなくたっていいだろ?」
そんな声が、上から降ってくる。
緊張と恐怖で、心臓が
バッと顔を上げると、案の定……そこには忠克が立っていた。
呆れたように肩を竦める仕草は忠克そのものだが、見慣れない浴衣姿でこちらを見下ろしている。
やばい、もう追いつかれた。
どうする……どうする……?
汰一は立ち上がり、しゃがんだままの蝶梨を護るように忠克の前に立ち塞がる。
そして、胸の内でカマイタチに呼びかける。
「(相手が動く前に、蝶梨を抱えて逃げる。そのために、カマイタチの風の力を借りたい。少しでも速く逃げるため……風で俺の身体を押してくれないか?)」
それが、今考えられる最善の策だった。
汰一は忠克を睨みつけたまま、カマイタチが動き始めるのを待つ。
しかし……
先に動いたのは、忠克の方だった。
──ドンッ!
という鈍い音と共に、忠克が前方へよろける。
後ろから何かに押されたような動きだが、一体何が起きたのだろう?
汰一が緊張を最大限に高めると……次の瞬間、
「ちょっと! 可愛いカノジョ置いて急に走り出すとかどーゆーこと?! 迷子になるかと思ったじゃん! たぁくんのバカ!!」
……そんな声と共に。
忠克の背後から、浴衣姿の少女が現れた。
低めの身長に、愛らしい顔立ち。
茶色がかったショートヘアを頭の左上でちょんと結び、浴衣に合わせた花飾りを付けている。
今は怒り顔だが、明るく元気な雰囲気は隠し切れていない。
見覚えのありまくる顔に、聞き馴染みのある大きな声。
もしかしなくとも、彼女は……
「──結衣……? なんでこんなところに……?」
汰一の後ろから、蝶梨が驚いたように言う。
そう。忠克を突き飛ばしながら現れたのは、汰一や蝶梨のクラスメイトにして二年E組きっての元気娘、
思わぬ人物の乱入に汰一が混乱していると、蝶梨に名前を呼ばれた結衣も大いに驚いた様子で仰け反る。
「えっ、蝶梨ちゃん?! ていうか刈磨くんも?! え、なんで二人が一緒にいんの?!」
「それはこっちのセリフだ……なんで忠克と浪川さんが一緒にいるんだよ?」
忠克と結衣を交互に見つめ、汰一はいまだ緊張を保ったまま聞き返す。
それに、忠克はニヤリと笑って、
「そりゃあ……付き合ってるからな、俺たち」
……と。
結衣の肩を、ぐいっと抱き寄せた。
その瞬間、汰一の思考が疑問符に埋め尽くされ、停止する。
……え?
忠克に、カノジョ?
いやいやいや。聞いてない聞いてない。
ていうか、"堕ちた神"に憑依されているんじゃないのか?
今までの不審な行動は、一体何だったんだよ?
急すぎる展開に理解が追いつかず、完全にパニックを起こす汰一の横で、
「そ、そうだったの? いつの間に……全然知らなかった」
汰一の気持ちを代弁するように、蝶梨が言う。
結衣は照れたように頭を掻いて、
「あはは……実は、球技大会のすぐ後くらいから付き合い始めたんだ」
「それって、もう一ヶ月以上前じゃない。急に恋愛漫画を読み始めたから、好きな人ができたのかなぁとは思っていたけど……あの時既に平野くんと付き合っていたのね」
「うん。ほら、あたしってこんなキャラだし、付き合ってるとか恥ずかしくてなかなか言い出せなくてさ。今日も隣町のお祭りなら知り合いに会わないだろうと思って来たんだけど……まさか、二人も付き合ってるの?」
「う、うん」
「きゃーっ! ついに蝶梨ちゃんにカレシがっ!! 刈磨くんていうのが意外だったけど……うん、こうして並んでいるとお似合いだね!」
「あ、ありがとう」
元気にはしゃぐ結衣に、蝶梨は嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような笑みを返す。
そんなやり取りを聞きながら、汰一は状況を整理するため頭をフル回転させる。
忠克と結衣。
これまで全く接点を見せなかった二人だが……まさか付き合っていたとは。
……いや、待てよ。今思うとアレは……そういうことだったのかもしれない。
と、汰一の中でバラバラになっていたパズルのピースが嵌り始める。
それは、あのゲームセンターに纏わる一件。
そもそもあの店に行ったのは、忠克が無料券を渡してきたからだ。
そして当日、友だちを連れた結衣が現れた。
あんな遠方の店で知り合いに遭遇するなんて、不運な偶然だと思っていたが……どうやら違ったらしい。
恐らく忠克と結衣は、あのゲーセンでデートをしたことがあるのだろう。
その時に余った無料券を、忠克は汰一に渡した。
結衣も、以前あの店に来たことがあるような口振りだった。きっとデートした時にプリクラ機の豊富さを知り、友だちを誘って再度来店した、ということだったのだろう。
しかしそうなると……忠克が放課後の校舎に残っていた不審な行動だけが疑問だ。
いまだ疑念のこもった目を向ける汰一に、忠克は笑みを浮かべて、
「俺はお前らが付き合ってるのを知ってたよ。放課後、毎日のように一緒にいただろ?」
「なっ……」
「結衣の部活が終わるまで涼しい教室で待っていたかったのに、二人がいつも居座ってんだもん。最近は特に暑かったから、避暑地を探すのに苦労したぜ」
なんて、ため息混じりに言うので……
汰一の疑問と疑念が、日に晒された氷のように溶けていく。
あの雨の日、屋上階から階段を降りて来たのも。
先に帰ったはずなのに、自転車が残っていたのも。
スマホを忘れたと言って教室に居たのも。
全部、
つまり、忠克は……
"堕ちた神"になど、憑依されていない。
ずっと忠克は、忠克のままだったのだ。
その事実に、汰一はようやく全身の緊張を解き、忠克を見つめる。
「……なんで、教えてくれなかったんだよ」
「言おうと思ったけど、お前入院してたし、完全にタイミング逃してたんだよ。だから今日、会えてよかったぜ。ようやく打ち明けられたな、お互い」
そう言って、いつものようにニシシと笑う忠克。
嗚呼、本当に……俺の知っている忠克だ。
安心した途端、身体から一気に力が抜け、涙が出そうになる。
しかし同時に……
「(なら、あの"黒い獣"を放ったのは、一体誰なんだ……?)」
……という疑問に、再び身体が強張り始める。
忠克の無事は喜ばしいことだが、問題が解決したわけではない。
柴崎はもう犯人の目星がついたと言っていたが……結局誰だったのだろう?
と、汰一が思考を巡らせていると、
「ていうか、ちより様はなんで汰一なんかと付き合ったの? 運は悪いし勉強もスポーツもそこそこだし、唯一の趣味がガーデニングなんだぜ? 好きになる要素ある?」
なんてことを忠克が口にするので。
汰一は思わず「はぁ?」と声を上げ、反論する。
「お前、人のこと言える立場かよ。浪川さんもこんな口先から生まれてきたような男のどこがいいんだ? 騙されていないか? 弱みを握られて無理矢理付き合わされたりしているんじゃないか?」
と、互いを指さしながらディスり合う二人。
それを見た蝶梨と結衣は……顔を見合わせクスリと笑い、
「なんで好きになったのか、聞きたいなら教えようか?」
「ふふーん。今まで
……などと、にっこり笑いながら言うので。
汰一と忠克は、「へ?」と顔を引き攣らせる。
そうして。
彼女たちによる『彼氏の好きなところ』プレゼン大会は、汰一と忠克が赤面して止めるまで続いたのだった。
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