9 乗り過ごしにご注意
それから、二人は
「──私、自転車だから」
駐輪場の前で足を止め、蝶梨が短く言う。
汰一は手を上げて、
「おう、気をつけて。また明日な」
と、名残惜しさを見せぬよう、さっぱりと返した。
彼女は小さく会釈をすると、長い黒髪を翻し去って行った。
その後ろ姿を見つめ、汰一は暫し呆然と立ち尽くし……
「……………………はぁ」
ずっと呼吸を忘れていたかのような、深いため息をついた。
間違いなく、人生史上最も幸せな一日だった。
彼女とあんなに会話をして、一緒に花壇の手入れをして、それから……
『これからも教えてね』と、微笑みかけられた。
「……………………っ」
うぉぉおおおおおおおおおお!!
と、胸の中で叫びながら、汰一は最寄りのバス停を目指し、校門を飛び出す。
まじか。いや、まじか。なんなんだ、あの包容力は。
彼女が女子からもモテている理由がわかった気がする。あんなの誰だって惚れるだろ。女神だもの。慈悲深き女神だもの。
俺の不運体質の話なんて、「ふーん、そうなんだ」で終わりにできるものだし、何ならたまたま起きた数回の不運を誇張して言っていると引かれたっておかしくなかったはずだ。
それを……彼女は疑うことすらなく受け入れ、慰めてくれた。
あぁ、もう……ただでさえ好きだったのに、もっと好きになってしまった。
一度は離れようと思ったのに……やっぱり駄目だ。側にいたい。
本当に庭いじりに興味があるみたいだし、今度花を植える約束もした。どうしよう。生きるのが楽しい。
昨日までは、不運な人生を呪うだけの日々だったのに。
「………………」
バス停に辿り着き、汰一はゆっくりと足を止める。
……浮かれている場合じゃない。
側にいる以上、今日みたいに彼女に"厄"が降りかかる可能性がある。
柴崎のヤツは『基本的には何もしなくて良い』と言っていたが……
先ほどのあれも、自分がボールに気付かなければあのまま彼女に当たっていたのか、それともカマイタチがちゃんと防いでくれていたのか、わかったものではない。
カマイタチの能力がどの程度発揮されているのか見えない以上、油断はできないのだ。
まったく、あの
また気絶しろと言うのなら
それに……聞きたいことは他にもある。
『あの娘ってちょっと変わった
柴崎が呟いた、あの言葉の真意である。
先ほどの、花の手入れを教えていた時の彼女の反応は、明らかに不自然だった。
体調不良でもなく、ああいう作業が苦手というわけでもなければ、あの反応にはどのような理由があるのだろう。
柴崎の言っていた『ちょっと変わった
花を植える約束をしたはいいが、今後もあんな風にハァハァされては身が持たない。
理由を解明し、対策を講じたいものだ。
汰一は自分の首に触れ、そこにいるかもしれないカマイタチに向けて、
「さっきはありがとうな、助かったよ。ところで、お前……
そう語りかけてみるが、当然返事はなく。
そうしている間にバスが到着したので、首から手を離し、乗り込んだ。
高校から自宅近くのバス停までは十五分程。
空いている車内を見渡し、汰一は出口付近の座席に座る。
そして、ふと窓の外に目を向けた、瞬間──
「──誰がチャラ神だって?」
そんな声が聞こえたかと思うと。
周囲の景色が、一変していた。
バスの車内にいたはずが……一瞬で真っ暗な空間に変わったのだ。
その場所に既視感を覚え、汰一は、
「……柴崎」
と、声の主の名を、低く呼ぶ。
すると、目の前で
昨日と変わらず、ド派手なピンク髪に
柴崎は汰一の前に立つと、小指で耳の穴を掻きながら、
「だからぁ。チャラ神とか呼び捨てとか、礼儀としてどうなの? ボクってば神だし、キミよりめちゃ年上なんだよ?」
「人の意識をいきなり切り替えるようなヤツに礼儀を説かれる筋合いはない」
「キミがボクに会いたがっていたんじゃん。せっかく会いに来てあげたのにつれないなぁ」
「ってことは、俺の疑問に答えるつもりがあるのか?」
真剣な眼差しを向ける汰一に、柴崎は相変わらず飄々とした態度で肩を竦める。
「もちろん。カマイタチがどれほどの働きをしてくれるのか、だよね?」
「それだけじゃない。お前に会う方法とか、彩岐の『
「えぇーそんなに? 汰一クンの欲張り。
「うるさい。いいから早く教えろ」
「まぁまぁ。物事には順序というものがあるから、そう焦らないで。とりあえず初日お疲れさま。ちゃんとあの"エンシ"の近くにいてくれたじゃん。その調子で頼むよ」
「ってお前、見ていたのか?」
「まぁさすがに初日だし? 丸投げするのもどうかと思って、ちょっとだけ見守ってたよ。汰一クンも不運な目に遭わず、ハッピーな一日だったでしょ?」
あぁ。むしろ幸せすぎて怖いくらいだった。
という本音は、なんとなく悔しいので言わないでおく。
代わりに、柴崎を睨み付けて、
「でも、飛んできたボールが彩岐に当たりそうになったんだ。あれも"厄"の一種なんじゃないのか? カマイタチだけに任せた状態で、本当に彼女を守り切れるのかよ?」
と、あらためて尋ねる。
すると柴崎は、腕を組むように左右の袖に腕を通し、
「大丈夫だよ。基本的には」
「……その『基本的には』って言い方が心配なんだが」
「うん。その辺りの細かい話は、
「じゃあ、また夜に会うってことか?」
「そ。
その言葉だけで、聞きたいことが山ほど浮かぶ。
丑三つ刻って、深夜の二時くらいだったか?
『彩岐道場』って……彩岐の家がやってる弓道場のことか?
何から聞くべきか迷っていると、柴崎はひらっと片手を上げて、
「んじゃ、そーゆーことだから。遅れないでね〜」
と言い残して、再び強い光を放ち始める。
汰一は慌てて手を伸ばし、
「あっ、おい待て! まだ話は──!!」
──と、叫んだところで。
汰一の意識は、バスの中へと戻っていた。
窓に頭を預けた状態で、気を失っていたらしい。
顔を上げ車内を見回すと……バスは、出口を開けたまま停車している。
そして、
「お客さーん、終点ですよー。降りてくださーい」
という、運転手のアナウンスが響いた。
車内には自分だけ。
窓の外を見ると、そこは……降りるべきバス停をとうに過ぎた、駅前のロータリーだった。
汰一は鞄を肩にかけ、すごすごとバスを降りながら、
「…………あのチャラ神め」
と、最後に見せた軽薄な笑みを思い出し、恨みたっぷりに呟いた。
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