第17話 兄に彼女が?
「お帰りなさい」
由美は戸惑った。明らかに若い女性の声だったからだ。正樹なら、おかえり~としか言わないのに。誰?
「由美、今朝は悪かったな。置き去りにして…。こちらは、俺の大学の軽音楽サークルの後輩、石橋咲江さん」
「由美さん、はじめまして」
由美は玄関で固まっていたが、とりあえず挨拶した。
「どっ、どうも…。由美です」
「由美がビックリするのも仕方ないよな。兄貴が突然女の人をアパートに連れ込んでたら」
「センパーイ!連れ込むってなんですか!アタシは由美さんに挨拶したいって言っただけですよ!」
「挨拶…?」
「まあ由美、上がれよ。お前のアパートなんだから」
「あっ、そうですね、アタシが由美さんの場所を奪ってたのかも」
由美は頭の中がグチャグチャのまま、とりあえず靴を脱ぎ、部屋に上がった。
「改めて由美さん、こんにちは。石橋咲江って言います。お兄さんには、大学のサークルでサックスを教えてもらってる、1年生です。学部は文学部の英文学科。よろしくね」
由美はいきなり現れた、正樹の彼女と思しき女性に対して、どう接してよいか分からず、差し出された右手に、とりあえず握手で応じた。
「あのっ、あのー…。石橋さん!お兄ちゃんとは、どんな関係なんですか?」
「ハハッ、そうよね。肝心なこと言ってなかったね。詳しく言うと長くなるけど、今日アタシが伊藤先輩に告白して、彼女にならせてもらった…?日本語合ってるかな?」
「由美、石橋さんは、今日から俺の彼女になったってことなんだ。それで2人暮らししてて妹がいるって話したら、ちゃんと挨拶したいって言ってくれて、アパートまで来てくれたんだ」
「……」
由美はすぐにでも正樹に渡そうとしていたチョコを、カバンの奥底へと少しずつ仕舞っていた。
なんとなく咲江は、由美の表情が険しくなっていることに、女子ならではの直感で気が付いた。もし可能なら、3人で夕飯でもと思って、カレーライスを作っておいたのだが、今日は一旦退散したほうがよさそうだ。
「じゃあセンパイ、由美さんも驚いてるし、少しずつ由美さんとは仲良くなりたいと思います!今日はこれで帰りますね!じゃあまた…。由美さん、バイバイ」
咲江は、ニコニコとしながら手を振って、玄関へ向かった。
正樹と玄関先で何か会話していたので、正樹がいずみ野駅まで送るのか?と思って見ていたら、そのまま玄関先でお別れしていた。
再びアパートの中は正樹と由美の2人になった。
しばらく沈黙が2人を襲う。
「…由美さ、あの石橋さんとは仲良く…」
俺がそこまで言ったら、鬼の形相をした由美がいた。その由美の表情に俺が驚き固まっていると…
「お兄ちゃん、夕べアタシがチョコ上げないって言ったら物凄い落ち込んでさ、今朝なんかアタシを無視してとっとと大学に行って…」
「…うん」
「なのに、あの石橋さんって女の人、何なのよ。今日から付き合うとか軽いこと言ってたけどさ、それってことは、かなり前からお兄ちゃんと石橋さんは親しかったってことでしょ?」
「ま、まあ…」
「じゃあ、なんで昨日、アタシからチョコがもらえないとか言って、あんなに不貞腐れたのよ」
「え…」
「お兄ちゃんは昨日、家庭教師先の可愛い中3の女の子からもチョコをもらえたし、今日、石橋さんからもらえるのも分かってたんでしょ?」
「まあな…」
「何よ、2つもチョコもらって、1つは超大本命の後輩さんからじゃない!しかも事前にもらえることが分かってる…」
「……」
俺はこんなに激怒する由美を初めて見た。何処かで俺は由美への対応を間違えたのだろうか。
「なのになによ!アタシのチョコなんて最初から要らないんじゃん!アタシの…チョコなんて…」
突然由美は涙を浮かべると、高校のカバンの中から、ラッピングされたチョコを取り出した。
「あっ、由美…。もしかして…そのチョコ…」
「用意してたの!お兄ちゃんのために!頑張ってお兄ちゃんがいない時とか、先にお兄ちゃんが寝た後とかに作ってたんだよ!でも、もう要らないもんね?アタシのチョコなんか!」
由美はそう怒鳴ると、ラッピングをビリビリと引き裂き、箱からチョコを取り出して、幾重にも割り続け、ゴミ箱へ捨てた。
「おい、由美!いくら俺のことが嫌いになっても、食べ物をそんな粗末にする奴がいるか!」
俺も思わず怒鳴った。しかし由美は引かなかった。
「何よ!親みたいなこと言わないでよ!」
「親みたいってなんだよ!俺はお前がちゃんと高校を卒業出来るようにする義務があるんだ!」
「そんなの、知らないわよ!お兄ちゃんなんかいなくたって、アタシはちゃんと高校卒業出来るわよ!」
「何だと?言ったな、じゃあ出てってやるよ、俺がな」
俺は売り言葉に買い言葉で、財布やカード類が入った大学用のカバンを持ち、そのままアパートを出た。
「何よ、お兄ちゃん!妹と喧嘩して勝てないからって出ていくんだね。分かったよ、お兄ちゃん。帰って来ないでもいいから」
「誰が帰ってくるか!永遠にサヨナラだ」
俺は慌ただしく靴を履き、アパートから出た。
由美は2人暮らしを始めてから、初めて正樹と真正面から衝突した。
まだ正樹と言い争った余韻で、由美は鼓動が早いままだった。
(お兄ちゃんが、悪いんだから…)
だが流石にやり過ぎたと思って、ゴミ箱に投げ付けた割れたチョコを拾っていたら、由美は不意に涙が溢れてきた。
(お兄ちゃんに一生懸命に作ったんだよね…)
一欠片ずつ拾い、元の形に戻してみた。
『お兄ちゃん これからもよろしくね』
一生懸命に頑張って書いた文字だ。粉々になり、辛うじて読める程度だった。
怒りに任せて由美はそのメッセージも粉砕してしまったのだった。
ふとここまでやってしまったことに、由美は一瞬心に込み上げるものがあったが、
(なによ、お、お兄ちゃんが悪いんだから…)
と気を取り直し、チョコをそのまま食べた。
食べながら、頭の中では正樹に対しての怒りが続いているのに、涙が出てきた。
(お兄ちゃんが悪いの、お兄ちゃんが…)
自分で作り、自分で割ったチョコを一欠片ずつ食べ、全部食べ終わると、由美は改めて今日起きた出来事を思い返しながら、風呂のガスを入れ、洗濯機を回した。
(お兄ちゃん…。言い過ぎたかな…。今日、帰ってくるかな…)
多少、冷静さを取り戻してきた由美は、なんであんなに正樹に対して怒ってしまったのだろうかと考えていた。
(やっぱり、石橋さんの存在を知らされてなかったことが大きいよね。いい人そうだけど…)
だが知らされるとしたら、どんなタイミングで知らされたら由美は満足したのだろうか。
結局何かのキッカケがないと、紹介など出来ない。
またさっきはイライラしていたが、よく思い出したら、今日から恋人関係になったと、正樹は言っていた。
付き合ってもない状態では、紹介出来る訳もない。
付き合うことになったからこそ、正樹は最初に由美に紹介しようとして、アパートに咲江を連れてきたのではないか?
そう考えると、由美が激怒したのは正樹に対して一方的だったような気がしてきた。
2つのチョコをもらえることが分かっていながら、妹からのチョコも欲しがる甘えた兄貴に愛想が尽きたのか?
しいて言えばその辺りが、由美の怒りの導火線の着火点だろうが、アパートから追い出すほどだったのか?
それより妹からのチョコがもらえないと信じて落ち込む正樹に、すぐ冗談よとでも言っておけば、こんなことにならなかったのではないか…。
由美は考えれば考えるほど、自分に非があるように感じられてならなかった。
気を取り直し、夕飯を作らないと…と台所に向かうと、既に鍋にカレーが作ってあった。
(お兄ちゃん!カレー、作ってくれてたの?)
結構な量だ。もしかしたら今日の夜、由美と正樹、そして咲江も交えて夕食会でも…と考えていたのだろうか。
収まっていた涙が、再び由美の両目に溢れてきた。
(お兄ちゃん…ごめん、ごめんね…。今、どこにいるの?アタシが悪かったから…帰ってきて…)
売り言葉に買い言葉で、勢いに任せてアパートから出てきた俺だが、何処に行く当てもなかった。
やっと両思いになったサキちゃんにしても、住所を覚えておらず、仮に住所を思い出せたところで彼女は実家住まいだから、転がり込む訳にはいかなかった。
(何処行くかなぁ…)
俺が思いついたのは、大学の軽音サークル室だった。
(サークル室なら、何人か分の布団か毛布があったはずだ!)
そう思って大学へ向かったら、既に真っ暗で、人の気配は全く感じられなかった。
(なんだよ、春休みだからもう閉まってんのか?)
入口の守衛さんに聞いたら、春休み中は夕方5時に閉まるそうだ。一部職員は入試対応や新年度対応で残業されているが、学生は5時までらしい。もう6時を回っていたので、入れないのも当たり前だ。
(行先候補一つ消えた~)
正樹は財布の中身を見た。ホテルに泊まれるほど、お金を持っているだろうか?
(千円札6枚か…。無理すればどこか泊まれるだろうけど、食費がなくなるな…)
由美に頭を下げてアパートに戻るか?
(あれだけの喧嘩をして数時間後に悪かったね、なんて戻れるかよ。大体、由美が一方的に喧嘩を吹っ掛けてきたんじゃないか!)
いっそ両親のいる金沢に行くか?いや、時間的に流石に新幹線が出来たとはいえ無理だろうし、6000円じゃ行けないだろう。
(万策尽きた…)
しばらく電車でも乗って時間を潰して、いずみ野線の最終で帰るしかないな。アパートの鍵は持ってきて…あれ?いつもジーンズのポケットに入れてあるのに、ない!
…そうか、玄関先の色んな鍵を保管してある箱から、持って出るのを忘れてたんだ、俺は。
アパートにすら帰れない…。
仕方ない、屈辱的だが、俺が頭を下げれば由美だってアパートには入れてくれるだろう。
こんな寒いのに、野宿なんて出来ない。
アパートに戻るか…。
結局アパートと大学を往復しただけの俺の家出は3時間で終わった。
アパートの下まで戻ってきたが、俺と由美の部屋の明かりは点いている。逆にホッとした。
ゆっくり音を殺して2階へ上がり、俺と由美の部屋のドアの前に立つ。
自分の借りているアパートなのに、ドアを開けようかどうしようかでこんなに迷うことになるとは思わなかった。
耳を澄ませると、部屋の中で家事をこなしているような音がする。
ええい、後は野となれ山となれ!
ガチャッ!
俺は玄関のドアを開けた。
すると中にいた由美が、すぐさまその音に反応し、玄関へと駆け寄ってきた。
「…た、ただいま…」
俺は恥ずかしそうにやや右斜め下を見ながら、家の中へ入った。
「おっ、お兄ちゃん。お兄ちゃーん!おにい…ちゃ…ん…」
由美は突然号泣すると、俺の胸倉を掴んできた。想定外の出来事に驚いていると、由美が泣きながら言った。
「ご、ごめんね、お兄ちゃん、アタシ、ダメな、妹で…」
戸惑いながらとりあえずカバンを置き、由美を抱き締めた。
「そんなことないよ。俺が変な行動するから悪かったんだ」
「ううん…、アタシ、アタシが、悪いの…。お兄ちゃんを、からかったり、するから、お兄ちゃん、悔しかった、よね。ごめんね、お兄ちゃん。ウワァァン!」
俺は由美の背中を昔と同じようにトントンと軽く叩きながら、大丈夫、大丈夫と言い、由美が落ち着くのを待った。
しばらく経って、号泣していた由美がやっと落ち着いてきた。
「お兄ちゃん…」
「ん?」
「アタシのこと、嫌いになってない?もう妹とは縁を切るとか、思ってない?」
「そんなことあるわけないだろ。由美は大切な妹だよ、これからも。嫌いになれるわけ、ないじゃないか…」
俺までウルウルしてしまった。
「よかった…。とりあえず寒かったでしょ?中に入って温まって」
玄関での抱擁は20分ほど続いただろうか。それまで玄関前で結構な時間躊躇していたのも含めると、かなり寒かったのは事実だ。俺はやっと靴を脱ぎ、いつもの通り、炬燵に両手両足を突っ込んだ。
「はぁ、やっと温かい場所に辿り着いた…」
「どこに行ってたの?」
「ま、まあそんなのはいいじゃんか。夕飯、カレーを作っておいたんだけど、食べてくれた?」
「えっとね…。まだ」
「え?食べりゃあいいのに」
「このカレーは、お兄ちゃんが帰ってきたら一緒に食べるって決めてたから」
「そっかぁ。じゃ、もし俺が帰って来なかったら?」
「えーっ。…分かんない」
「でも、家出するのも難しいってことが分かったよ」
「アタシも、あんな喧嘩は後味が悪いから、もうしたくない」
由美は台所のコンロに火を入れ、カレーを温め始めた。
「ねえお兄ちゃん…」
「ん?」
「お兄ちゃんに石橋さんって彼女が出来ても、アタシを守ってくれる?」
「何言ってんだよ。当たり前だろ」
玄関先でも由美は同じような不安を口にしていた。俺に彼女が出来たことで、由美と関わる時間が減ることを危惧しているのだろうか。
「はい、カレー温まったよ。お兄ちゃんと石橋さんの合作カレー」
「え?なんで分かった?」
「だって凄い沢山あるからさ。きっと石橋さんはアタシやお兄ちゃんと一緒に食べようと思って作ってくれたんだろうなぁって思って」
「……」
「お兄ちゃん、今度石橋さんに会う時、いつでもアパートに来て下さいって言っておいてね」
「由美…」
「さ、食べよっ!」
2人はカレーライスを食べ始めた。
「あっ、そうだ由美」
「ん?なに?」
「由美が作ってくれたけどバキバキにしちゃったチョコ、俺、ちゃんと食べさせてもらうよ」
「あーっ、あのチョコね、あのね…。アタシが食べちゃった。ごめんね」
俺はずっこけた。
「なんだ、結局今年は由美のチョコは食べれない運命だったのか…」
「ま、まあ、バレンタインは来年もあるし。ね、お兄ちゃん」
俺は由美とこんな会話を出来ることが幸せだった。アパートに戻って良かったと、心から思った。由美、俺に彼女ができたといっても、ちゃんと守ってやるからな。
【次回へ続く】
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