螺旋おくり 夏のあさに姫おりて

たかき

7月20日(火)【01】きをつけい!

 あと数秒で、はじまる。


「こら! ランドセル背負わないの。もういちど《きをつけい》」


 わざとフライングしたいつもの男子を、今日だけは女子も責めない。


 一呼吸ぶんのくだらない日常もこれでお終いだと気付くと、あと二呼吸ぶんくらいは吸っておきたかったと思う。小さな毒も重ねると中毒症状がおきる。


 あのフライングマンは二度背負わない。これで本当の最後。


 吐く音にさえ目を光らせる教室の空気が、吸うことを躊躇させる。今学期一番の《きをつけい》だと確信した先生は、言った。


「礼! それではみなさん、よい夏休みを――」


「ヒャッホー! 先生さいなら」


 ランドセルのハネを右手で引っ掴んだフライングマンは、引き戸をソーラン節のように引いて教室を飛び出した。


 ヒャッホーの一言でクラスに溜まった熱を解放した彼は、冷たいコンクリート壁に奇声を反響させて、夏への階段を降りていった。


「マドモアゼル。今日のお昼......あいてるかい?」


 ぼくが顔を上げると、真面目な眉間をつくりだしたケイタが、左ひざを立て、右の手の平を突き出していた。


 「この子が変なことをしても触れないで。あきふみくんにバカ菌がうつっちゃうから」とケイタの母に言われていたので触れない。机の中に腕を突っ込み、奥でつぶれているプリントがゴミかどうかの選別作業を再開する。


 ケイタは立ち上がり爪先立ちになると、口調を変える。


「ゲームを1つ手に入れたのですけど、ご予定はいかがかしら? 名作、なの」

「あいてるけど。何時?」

「ランチをいただいてからだから......そうね。教会のお昼の鐘が2つ聞こえたら、わたしの家にいらして」

「わかった。聞こえたらな」

「――聞こえなかったら14時にいらして」


 用がすむと、やめ時をうしなった千鳥足のバレリーナも一足先に、夏への階段を降りていった。


 紙選別を再開する。


「よう、あき。今日俺んで野球しようぜ」


 声の主はためらいなく、ぼくのランドセルを放り投げる。一つ前の机にバコンと着地したランドセルは、そのままオーバーランして、背中から床に墜落した。


 力ずくで空けられたぼくの机に尻がのっかる。先ほどのバレリーナより細くて白い足が机から垂れ下がり、日サロタレントの歯みたいな色の上靴が2足、宙に浮いている。


「お前に野球のゲームやらしたるから」

 お腹にふくらんでいた高揚感が冷める。


「今日は無理。他に約束してるから」

「誰や?」

 他人のれんらく帳まで盗み見するタイプの人間だ。


「ケイタ」

「あの閉じてんじゃねえかってくらい目が細いゲームオタクか。あんなやつと遊ぶ方がええんか」

 当たり前だ、と良心は言わせてくれない。


「先にケイタと約束したから、仕方ない」

「ほー。じゃあ明日はどうや」

「明日も無理。約束してるから」


 嘘をついた。自己防衛の嘘も良心は見逃さない。お腹がへこみ汗が垂れる。


「じゃあ明後日」

 遠ざかるほどに追いかけてくる。


「明後日か。まあ用事が無ければ」

「用事なんてないやろ。じゃ、明後日な。絶対やぞ」


 嘘で痛んだ良心への追加攻撃。セールスマンに20万円ミシンを買わされた母に文句をいう資格は、いまのぼくには無い。


 公立小学校の生徒に与えられたおよそ40日ぶんの自由のうち、1日ぶんを割いて、耕地こうちキヨフミに捧げる罰を、ぼくは受け入れた。


「こら耕地こうちくん。初乃はつのくんの机から降りなさい」


 数人の女子生徒と話していた先生が、キヨの悪行に気付いた。


「すごい音がしたけど、もしかして人のランドセル投げたりしてないよね」


 している。そして知っている。だが先生はぼくに、目撃証言を求めない。


 「投げてませーん。置いただけでーす」と、から返事したキヨは、また電話するからなと言い残して教室から出て行った。


 帰る準備は終わった。が、帰り道でストーカー気質のあるキヨに見つかるおそれがあるため、もう一度だけ忘れ物をチェックをする。さらに用心をかさね、正門から学校を出た。


 いつもと違う帰り道。


 去年さんざん素手と網で捕獲してカゴがパンパンになるまで詰め込んでやったセミという虫にも、与えられた7日間、恋をする自由があることを思う。


 虫への関心と引き換えに大人の男へと近づいた今年のぼくは、木と間違えて手の届くコンクリート塀にとまっている愚かなセミを、まんまと見逃してやる。


 両手にアサガオ鉢を抱えて、突き出したプラスチック棒を右頬でねじ伏せながら、カリッカリにひび割れた砂混じりアスファルトの上を足裏で確かめるように歩く。


 すでにびちょびちょの黄帽子ともしばしの別れになるかと思い、家までかぶっておいてやることにした。

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