初めて舐めたけど、悪くはねえな。

 いつの間にか、御津代みつしろみつはが座る場所を移動している。


 もしかしたら、なんの意味も含まれていないのかもしれない。

 しかし、最初は正面に座っていたのにあとから移動していることと、俺に気付かれないようにこっそりと座る場所を変えていること。

 そして、夏休み前までこのような行動をしたことはなかったこと。


 いろいろな理屈を混ぜ合わせた結果、俺は御津代が故意に“謎”を創りだしていると判断した。


 ただ、まだ御津代自身に行動の理由を問いたりはしていない。

 人間というのは学習する生き物なので、今回の俺は慎重に行動している。

 なぜなら、前回は迂闊うかつにも指摘したら、ボタンを力いっぱい投げつけられたためだ。

 今でもおでこが凹んでいるような気がするし、御津代の第五ボタンを見ると強い動悸を感じるのだ。


 そんなわけで、俺はじっと息を潜めていた。

 今日、部室に来てから二時間ほどが経過した頃だろうか。


 部室にこもる熱やアブラゼミの狂騒など気にも留めずに、真剣に原稿用紙と向き合っている――フリをしながら、正面に座る御津代の様子をうかがう。


 犯人を捕まえるためには、現行犯で確保するのが一番だ。

 犯行の瞬間に取り押さえることで動機の究明も行いやすく、証拠を隠滅される心配も少なくなる。


 先ほどまで途切れることのなかった、御津代が原稿用紙に書きつける音。

 それが、いまは止んでいた。

 

 そろそろ、来るか?


 しかし、焦ってはいけない。

 ここで俺の意識が自分に向いていると御津代が気付いてしまったら、長時間の張り込みが無駄になってしまう。


 俺は、ラクレットチーズのホラーを書いているやつ。

 俺は、羊たちの逃げ惑うサスペンスを書いているやつ。

 俺は、焼け焦げてチリチリになった羊毛を書いているやつ。


 そう俺自身をも騙すように言い聞かせ続けること、幾星霜。

 ついに、犯人ホシが動いた。


 御津代の気配が、ゆっくりと正面から右の方に移っていく。

 向かいの椅子から、大机の短辺の椅子に移動したのだ。


 キィと微かな音を立てて、御津代がパイプ椅子に座った――その瞬間。


「確保っ――だぁぁああぁぁあぁあっ!」


「ぎゃぁぁぁああぁああっ!?」


 俺は、椅子ごと御津代にタックルをかましていた。

 見事としか言いようのない角度で、俺は両腕で抱きかかえるように御津代の腰に組みつく。

 

 いやぁ、ラグビーのワールドカップ、熱心に観ておいてよかったなぁ。


 御津代の悲鳴をBGMに、あのときの熱狂が想起される。


「なっ……ななななっ、なにすんのよっ! バカじゃないのバカじゃないの!?」


 頭上から御津代の罵声が降り注ぐが、そんなものを聞いている暇はない。

 暴れる御津代がひっくり返ってしまわないように、変な体勢のままバランスを取らなければならないのだ。


「御津代っ、お前は完全に包囲されている! おとなしくお縄につけっ!」


「はぁ!? マジで意味わかんない――きゃぁああっ、あんた、どこ触ってんのよっ!?」


 傍から見たら、女の子に不埒ふらちな真似を施そうとしている変態にしか見えないかもしれない。

 だが、これは事件を解決するための勇気ある行動だ。

 決してやましい気持ちなどないことを、ここに宣言しよう。


 俺は押しつけた顔で御津代の柔らかなお腹の感触を堪能しながら、刑事よろしく尋問を開始する。


「さあ、どうして座るぅぐっ……場所を、移動ぅげっ……していたのぉごっ――おいっ、喋れねえじゃねえか、止めっ、ぐはぁ……!」


 しかし、座った状態のまま御津代が振り上げる膝が俺の胸を打ち、喉から出ようとする言葉をリズミカルに詰まらせていく。

 そして、あんたの尋問には口を割らないという決意なのか、御津代は一言も発さない。


「いやっ、あのっ、ぅっ、ごめっ……ごめんなさいっ……! ぅぐっ!」


 餅つきもかくやというほどの力強さと、頭上からひしひしと感じる無言のプレッシャーによって、俺はわりとすぐに膝を突いたのだった。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ねえ、頭冷えたかしら?」


「……はい、床は冷とうございますゆえ」


 御津代様のご機嫌を損ねないように、俺はゆっくりと静かに言葉を紡ぐ。

 唇を動かすことで床とキスすることになるが、命には代えられない。


「そう、それは良かった。でも、床におでこを擦りつけるような汚らわしい人間の顔なんて見たくないから、私が帰るまでそのままでいてね」


 いまの時刻は、おそらく午後四時を過ぎた辺りだ。

 御津代がいつも通りに文化部の下校時刻に帰るとすると、まだ一時間以上あることになる。

 このまま――御津代の前で土下座をしたまま、そんなに長い時間を過ごさなければならないのか?


「なんか不満がありそうだけど」


「っ! いえ、滅相もないことです」


 頭上から、御津代の剣呑とした言葉が降り注ぐ。

 俺は床に顔を向けているのに、なぜか反抗心を見破られた。

 正直、御津代の姿が見えないことも相まって、めちゃくちゃ恐ろしい。


「別にいいのよ? あたしが警察に行って、あんたに性犯罪者の烙印を押しても」


 そんなことするはずがない、と言い切れないぐらいに御津代は怒っていた。


 しかし、そこまで怒るほどか?

 むしろ、俺は御津代が後ろに倒れたりしないように気をつけていたし、触ったのだって腰とか腹とか脚とかだけだし。


「あんた、ホントに反省してんの? 刑務所まっしぐらにさせるわよ? それにお腹とかだけじゃなくて、む……むむ、胸も触ってたし。頭で、ぐりぐりーって。マジで信じらんない」


「あれ? 俺、声に出してた?」


 思わず出てしまった問いかけに、「うん」と怒りを抑えるかのような静かな声音が返ってくる。

 マズいな、御津代火山が噴火する前に、対話を試みた方が良いかもしれない。

 俺は土下座したまま、言葉を紡ぐ。


「なあ、悪かったって。お前がこっそり席を移してるのが気になっただけなんだ。いやらしい気持ちとか……いや、ちょっとは、あったかもしれない。でも、胸に関しては冤罪だ。なんの感触もなかったし」


 この謝罪に対して、御津代は俺の頭をゲシゲシと2回ほど踏みつけることで応えた。痛い。


「ふぅ……それで? あたしの行動の理由はわかったの、変態さん?」


 俺が痛みにうめく姿で溜飲が下がったのか、御津代は意外に優しい声をかけてくる。

 なにかに目覚めそうだが、いまはそれに気付いている余裕はない。


 それにしても、やはりなんらかの意味が込められていたようだ。

 しかし、まだ俺は取っ掛かりすら掴んでいない。


「……もし、お前の“謎”を解くことができたら、許してくれるか?」


 俺の懇願に対して、御津代が「んー」と考えこむ小さな声が聞こえる。

 判決を待つ被告人の気分で、次の言葉が発せられるまでを過ごした。


 そして、ひねくれた口の悪い裁判官が、判決を下す。


「あたしも鬼じゃないから、解けたら許してあげてもいいかな。でも、解けなかったら死刑ね」


「し、死刑……?」


 どうやら、ここは日本ではなく、御津代様による人治国家だったようだ。

 まあ、どちらにしても、俺が助かるためには“謎”を解くしかないみたいだけどな。

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