“御津代みつは”は、アイの毒吐く。

 夏休みの初日、誰もいない廊下をかけ足で進む。


 上の階からは吹奏楽部のトランペットの音が降りてきて、窓越しにサッカー部の声がかすかに届く。

 夏の日差しが燦々さんさんと降り注ぐ外界と明りの落とされた校舎内、そのコントラストが強烈だ。

 昨日までと異なる世界の様相は、これが夢幻むげんのように不安を煽る。


 御津代みつしろが部室で待っている。

 はたして、それは現実か? 俺の願望が都合良く形成した絵空事なのではないか?

 わからない……だが、わからないからこそ、俺は部室に急がなければならなかった。

 ドアを開けた先に、ひねくれ毒舌文学少女がいることを願って。


「おっっっっっっそいんですけど!?」


 まさか、ずっとそこで待っていたのだろうか。

 部室のドアを開けた瞬間に、俺は至近距離で御津代の怒気に晒された。

 しかし、これほど仁王立ちの似合う女の子はいないだろう。

 ミス仁王立ちの栄冠は、御津代に授けられた! おめでとう、さすがは御津代だ!


「あたしが早く来ただけなのかしら? それにしても、お昼どころかおやつの時間も過ぎているけどね。あんた、あたしを被検体にして、お腹が空くと腹が立つかどうか実験してた? おめでとうっ、実験は成功よ! このマッドサイエンティストがっ!」


 御津代は赤く染めた頬をぴくぴくとさせながら、ひと息に憎まれ口を言いきる。

 そう、俺は遅刻していた。

 いや、別に時間の約束をしていたわけではないが、だからこそ待たせた時点で遅刻だ。

 なんの言い訳もしようがない。


 走ってきたことで乱れた息を整えてから、俺は御津代に声をかける。


「そうか、“hungry”と“angry”を合体させた“hangry”のスラングは実証されたか。よくやってくれた、助手っ――ぅぐっ!」


 鷹揚おうように頷く俺を見てもっと腹を立てたのか、御津代は俺の腹にグーパンチを叩き込んだ。

 あまりの衝撃に、俺は膝をついてうずくまる。

 もしお昼ご飯を食べていたら、大変なことになっていたかもしれない。


「帰る……」


 そうつぶやいて、御津代は部室の入り口に屈む俺の横を抜けようとした。

 思わず御津代の腕を掴んで、引き止める。


「いや、待て待てっ。悪かったよ、昨日遅くまでボタンについて考えてたら、ぜんぜん起きられなくて……」


 けっきょく言い訳をしているのが情けないが、御津代が足を止めてくれたから怪我の功名だ。

 それにしても、掴んだ御津代の腕がひたすらに熱い。

 この暑い部室に長時間いたからだろうか、それとも遅刻してきた俺への怒りが熱を持っているのだろうか。


「ねえ、手……」


「あっ、悪い」


 不思議な熱さについて考えていると、御津代が俺を見下ろしながら口をとがらせた。

 俺は慌てて、白くて細い熱源から手を離す。

 あまり強く握ってはいないと思うのだが、御津代は俺に掴まれていたところをゆっくりとさすった。


「悪い……」


 いたたまれなくなって、もう一度謝罪する。

 しかし、御津代は黙ったままだ。


 その間に、腹に受けていたダメージがいくぶんか和らいでいたので、俺はゆっくりと立ち上がった。

 沈黙に堪えかねて口を開こうとした瞬間、御津代が俺のシャツをがっと掴む。

 二発目を食らわせるつもりなのかと身構えたが、なにやら様子がおかしい。

 迷子のように、瞳をゆらゆらと揺らしながら。


「違う……あたし、逃げちゃうかもしれないから……」


 捕まえておきなさいよ、と御津代は怒った口調で言ってきた。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 文芸部の部室には、クーラーが設置されていない。

 梅雨が明けて本格的な夏が到来するこの時期に、窓を開けているだけでは暑くて敵わない。

 さらに、37℃近くの体温を持つ人間が寄り添っているとしたら、なおさらだ。


 入り口から少し進んだところで、俺と御津代は向かい合って立っていた。


「――それで? なにか用があるんでしょ。聞いてあげるから、さっさと言えばいいじゃない」


「お前……この状況でよく強気でいられるな。無敵か?」


 俺は御津代が逃げないように、その腕を掴んでいる。

 そして御津代は、俺の顔なんて見たくないとでも言わんばかりに、身体を横にして顔を背けていた。


「は? その言葉、そっくりそのままあんたに返すわ。女の子の肌に触れておいて、大したことのない用事だったら社会的に抹殺するわよ?」


 自分で捕まえとけと言っておきながら、俺を脅迫してくる御津代。

 というか、いまの状況自体、御津代が発端なのだが。


「はいはい、わかったよ。俺の話を聞いてから、職員室なり警察なりかけこめばいいさ」


 まあ、暴君であればあるだけ、より御津代らしくて嫌いじゃない。

 それに、少し振り返った御津代は、不安そうな視線を向けてきている。


 さすがに、もうわかっていた。

 目の前の女の子が、ただ口が悪くてひねくれているだけの性悪オンナではないということに。


「大丈夫だ、心配すんな」

 

「っ! だっ、誰が心配してるって? いいから、早く話しなさいよっ」


 どうやら、御津代様は俺の話が気になるらしい。

 あまりらして、本当に怒らせてしまったら面倒だ。


「まず聞きたいんだが、第五ボタンを外していたのはお前の意志なんだよな?」


 これを聞いておかないと、あとで言い逃れをされる可能性がある。

 ちゃんと逃げ道を断っておかなければならない。


「……ふしゅ、ふしゅしゅひょ~、ふひょ」


 俺の問いかけに、御津代は鳴らない口笛を返してくる。

 思わず、そのアホ面の頭を叩いてしまった。軽くな。


「っいたぁ……まあ、そうね。はい、あたしは、わざと五番目のボタンを外していました、ふんっ」


 しぶしぶといった感じで、御津代は認めた。

 これを毎回のやり取りでやっていたら日が暮れそうだけれど。

 まあ、素直になれないお年頃なのだろう。


「お前がわざと外していて、それを指摘したらメンヘラってぶち投げてきたボタンが、このボタンだ」


 俺はポケットから白いボタンを取り出して見せた。

 時間が経っても、ただのボタンのままツヤツヤと丸みを主張するだけ。

 御津代が憎々しげにボタンを睨んでも、ウンともスンとも言わない。


「見ての通り、なんの細工もされていない。愛の言葉でも書いてあれば、話は簡単だったんだけど――どうした?」

 

 俺の軽口に、御津代が見てわかるぐらいに動揺したから尋ねる。

 しかし、返ってきたのは腹パンだった。なぜぇ。


「ぅぐ……まあ、それで次に、五番目だったことに意味があるんじゃないかと考えた。ほら、卒業式で第二ボタンを贈呈する儀式があるだろ?」


 御津代は、恨めしさ120パーセントで俺を睨みながら頷いた。

 以前までだったら恐れおののいていたかもしれないが、いまはむしろ可愛く見える。


「第二ボタンには、一番大切な人って意味があるらしいな。第五ボタンにもそれに準ずる意味があるんじゃないか、えー御津代ちゃんそんな大胆な子だったのー、そう思いながら意味を調べたら――」


「他人! あんたなんか他人よ、身の程をわきまえなさいよってことを伝えたかったのよ!」


 俺の言葉を遮って、御津代は焦ったように早口を披露した。

 御津代の言うとおり、第五ボタンには他人を表すという意味がある。

 だが、その意味が込められていたとは考えられないし、考えたくない。


 うーむ……違うとわかっていても、面と向かって言われると心に刺さるものがあるな。


「……嘘だろ?」


「ぅっ、そんな瞳で見るのはずるくない……? わかったわかった、嘘だから、違うからね」


 御津代は良心の呵責かしゃくを感じたのか、根負けして嘘を認めた。

 まあ、部長の証言があるから、この『他人説』は真実ではないとわかっていたけれど。


「そうか、良かった……で、次だ。御津代、ボタンを英語で書くと、どんなスペルだ?」


 絶対に負けているだろうから、いままで俺は御津代と勉強の話をしたことはない。

 しかし、なんとなく伝え聞いたところによると、御津代は成績優秀らしい。


「……b、u、t、t、o、n。“button”」


 御津代は憮然としながら、ネイティブっぽい発音で言葉を発した。

 どうした? 元気がないんじゃないか?


「そう、ボタンは英語で“button”で、上から五番目のアルファベットは“o”だ。つまり、『あたしは王よ、ひざまずきなさい愚民』ということを、御津代、お前は俺に伝えたかった――」


 俺がふざけて真似をしたら、いつもの御津代であれば瞬時に「キモい」が返ってくるはずだ。

 しかし、目の前の御津代は押し黙ったまま怒ってこない。

 それどころか。


「おい、どうして逃げようとする?」


 腕を掴まれているにも関わらず、部室の外へと向かおうとした。

 ただ、本気で逃走を図ったわけでもなさそうで、俺が掴んだ手に力をこめると、御津代はすぐに諦めて力をぬく。


 そして、御津代を引く勢いが余って、小さな頭がポスンと俺の胸にぶつかった。


「……あんた、“o”が王様だなんて、あたしをバカにしてるの?」


 胸元から離れずに、御津代は静かな声音で問いかけてくる。

 俯いているため、その表情はうかがえない。


「……まあ、お前らしいとは思ったが、さすがにおかしいだろうな」


 香水とも思えるぐらいの奔流にクラリとしながらも、俺は平静を装い言葉を紡ぐ。

 そう、『王様説』では、ボタンを返そうとしたときの御津代の悲しそうな表情に説明がつかない。


「じゃあ、わからなかったってことでいいかしら? 手、離してくれない?」


「……正直、これから示す答えが正しいのかはわからない」


 俺は御津代の要求を聞かずに、強引に話を進める。

 明らかに無視したのだが、御津代から文句は上がらなかった。


「もしミステリーだとしたら、読者に怒られちゃうかもな。俺が話すのは“推理”というより“こじつけ”だから」


 でも、ひねくれにひねくれている御津代が創った謎だということを考慮してほしい。

 絶対にわからないようなレベルじゃないと、こいつは俺に提示したりしなかったはずだ。


 ボタンを持っていた方の手をそっと御津代の背中に回して、逃げられないようにする。

 一瞬ビクッと身体を震わせたが、やはり文句は言われなかった。


「ボタンじゃなくて、牡丹ぼたんだろ? 花の」


 俺の答えを聞いて、御津代はぼそっとつぶやく。

 小さな頭のわりに、すごい力を俺の鳩尾にぐりぐりと押しつけながら。

 ちょっと、いや、かなり息が苦しいんですけど、御津代さん?


「死ね……」


 どうやら、俺は正しく“こじつけ”られていたようだ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 このまま“こじつけ”を披露し続けたら、御津代が恥ずかしさで俺を殺しかねない。


 俺がたどり着いた答えは、ここにだけ書き記しておこう。


 ボタンではなく花の牡丹、それは英語で“peony”だ。

 上から五番目のアルファベットは“y”になる。


 ただ、ボタンは七つある。

 複数あるんだから、複数形にして“peonies”。


 この方が、いい答えが得られるだろう?

 部活にまつわる青春活劇のオチとして……まあ、もちろん俺個人としても。


 上から五番目のアルファベットは“i”だ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「マジでキモいんですけど、死んでほしい」


 御津代は、俺の鳩尾に頭を押しつけ続けた。

 そして、その小柄な体躯のどこから、と新たな謎が生み出されるぐらいの力に、俺が耐えきれなくなって部室の床に背中から倒れても許してくれなかった。


 床に仰向けになった俺の腹にまたがり、身動きを封じる。

 さらに定期的に、グーにした拳を振り上げて俺の胸に振り下ろすのだ。

 罵るのとセットで。


「最悪、なんであたしはこんなやつ……あー、もう……」


 どすっ。

 手加減してくれているのだろうけど、いかんせん元々の力が強いからけっこう痛い。

 しばらく好きにやらせていたが、御津代に触れているところが燃えるように熱くてのぼせそうになってきた。


「なあ、御津代」


 見上げた御津代は、泣き出すのを我慢して怒ってるような表情を浮かべている。

 女の子に泣かれたら、どうすればいいかわからなくて困るな。

 しかし、御津代の怒りが止まずに馬乗りを続けられるのも困る。


「……なによ」


 口をとがらせた御津代は、最高に可愛い――いや、違う違う。

 茹だって思考能力の溶けた頭で、どうすればこの状況を抜け出せるのかを考えなければいけないのに。


「……言いたいことがあるなら、黙ってないで言えばいいじゃない」

 

「好きだ」


 あれ? 違う違う。

 いま俺は「“i”はどっちの“i”もくれるってことでいいんだよなぁ、ぐへぐへ」と言って、さらに怒らせることで脱出しようと思ったのだけれど。


 しかし、図らずも。


「ふぇっ!? ぁう、ぇっ、なん……ぇっと、えぇ……?」


 俺のたった三文字の言葉で、御津代がショートしてしまった。

 もしかしたら、御津代も暑さで限界だったのかもしれない。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 こうして、俺の高校生活最初の夏休みは、かなりセンセーショナルに始まった。

 “御津代みつは”というひねくれ毒舌文学少女に出会った時点でこうなる運命だった、と考えるのは、いささか都合が良すぎるだろうか。

 まあ、想像がつかない出来事に遭遇するときは、得てしてそういうものだ。

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