中にキャミソール着ているなら別によくない?

「やあやあ、御津代みつしろちゃん。今日も暑いね」


 昨日、俺は御津代から初めて帰りの挨拶をしてもらった。


 人間というのは卑しいものだ。

 なにも持っていないゼロの状態でも問題なかったはずなのに、ほんの一度だけでもイチを知ってしまうともう元には戻れなくなってしまう。

 果てない欲望は身を滅ぼすとわかっていても、止めどなく溢れてきて抑えられない。


 そんなわけで、俺は来たときの挨拶も獲得すべく、部室に入ってきた御津代にフランクに声を掛けた。

 いや、いままでも挨拶はしていたのだが。

 返ってくるのが無視か舌打ちか睨みつけのいずれかだったから、こんな前向きな気持ちで声を掛けるのは久しぶりだ。


 部室の入り口で、御津代は無表情のまま突っ立っている。

 いきなりフランク作戦……はたして、成功か否か。


 突然だが、“鬼が出るか蛇が出るか”ということわざで“鬼”とは災いで良からぬこと、“蛇”とは仏で良いことを表しているらしい。

 次に起こる事態がどうなるかはわからないよ、といった意味だ。

 しかし御津代の場合、“蛇”が出てもその蛇は毒舌を持つ毒蛇だということを、俺は忘れていた。


「あんた、ほんの22時間前のことも覚えてられないの? それとも『暑い』って言わないと死ぬ呪いでもかかってる? そうだとしたらごめんなさい。可愛そうだからあたしが楽にしてあげるけど?」


 向かいのいつもの場所ではなく、俺の方に向かってゆっくりと歩み寄りながら、御津代は言葉を羅列していく。

 ちょっと楽しげに見えることが、逆に恐ろしい。

 いつものゴミを見るような目をしていてくれた方が、幾分か心臓も落ち着いていただろう。


「あんたが黙っていてくれれば、この部屋でも快適に過ごせるの。どう? 自分でお口チャックできる、できない?」


 座っている俺の横に立った御津代は、腕を組みながら問いただしてくる。

 平均よりも低い身長のくせに、凄まじい威圧感だ。

 あと、シャンプーなのか柔軟剤なのかわからないが、鼻からエントリーしてきた良い匂いが俺の思考回路を鎮圧させる。


「できまちゅ……」


 御津代に気圧されたことで、俺は強制的に3歳児にまで退行させられてしまう。

 俺の赤ちゃん言葉を聞いても、御津代はキモいと言わなかった。

 しかし、汚らわしいものを見るような視線が、いつもの数倍は深く俺の心に突き刺さる。


 このパイプ椅子、針のむしろだったっけ?


 俺がいたたまれない思いにさいなまれている間に、御津代は机を回って自分の場所に戻っていた。

 くそぅ、まさか御津代にバブみを感じさせられてしまうとは屈辱だ。

 それにしても、口が悪すぎるせいで思いも寄らなかったが、御津代は意外と良いお母さんになるのかもしれないな。

 まあ、そのためには直さなければいけないところも育てなければいけないところも。


「なんかキモいこと考えてない?」


「考えてないでちゅ」


 御津代の詰問に対して、俺は脊髄反射で返答する。

 再びの赤ちゃん言葉に対して苦々しげな表情を浮かべた御津代だったが、けっきょくなにも言わずに自分の作業を開始した。

 ふぅ、危ない危ない、命拾いしたぜ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 まだ外は昼間のように明るいが、そろそろ下校時刻になろうとしていた。

 見た目に反して気温がぐっと下がっているため、帰るにはちょうどいい時間帯だ。


 今日も、文芸部の部室には俺と御津代以外の部員は訪れなかった。

 例えば部長なんかがいてくれれば御津代も少しは猫をかぶるので、話に花が咲いたりもするのだが。

 まあ、部長や他の三年は受験生だから、部室に来ないのはせん無いことだ。


 二年や一年の文芸部の諸君、仲間が孤独に苦しんでいるぞ?

 それを救わんとする気概があれば――どうか部室に来てください、お願いします。


 さっきまで部室の中に響くのは、御津代が原稿用紙に書きつける音と御津代がパイプ椅子に座り直す音、御津代がワイシャツの襟元をぱたぱたとあおぐ音だけであった。

 え? 俺はどこに行ったのかって?

 ちゃんと部室にいたぞ?

 ただ、御津代様のご機嫌を損ねないように静かにしていたから、俺の音は描写されなかっただけだ。

 部誌のページをめくるのにも細心の注意を払わなければならなくて大変だった。


 いまは、御津代が帰り支度をしている。

 といっても、机の上の原稿用紙と筆記用具を片付けるだけなのだが。


「じゃあ、また明日な」


 スクールバッグを手にして、御津代が立ち上がった。

 その隙を見計らって、俺は声を掛ける。

 しかし、声を掛けられるだろう雰囲気を感じ取っていたのか、御津代は慌てることもなく、むすっとした顔で見返してきただけだった。


 少しの間、俺と御津代の視線が交錯するが、ふいっと逸らされてしまう。

 ふむ、今日は無視バージョンのお帰りのようだ。

 罵倒されないのを喜ぶべきか、それともうれうべきか。


 そのとき、ふと昨日と同じように御津代のシャツのボタンが外れているのが見えた。

 一番上の首元から数えると五番目、ちょうどおへその辺り。

 たぶん、昨日と同じ場所だ。


「おい、シャツのボタン掛かってねえぞ」


 気付くのが二回目だから、今日はスッと言葉が出てくる。

 なんの他意もなく自然な指摘ができた、と我ながら満足した瞬間。


「ふぇっ!?」


 御津代が、素っ頓狂な声をあげた。

 驚いて御津代の顔を見上げると、さっきまでお澄ましフェイスだったはずなのに、いまでは頬を真っ赤に染めた恥ずかしフェイスだ。


「ぁう……ぇっと、あっ……」


 俺と目が合ったことがよくなかったのか、御津代はさらに取り乱していく。

 なんだ? 俺が知らないだけで、ボタンが外れていることは羞恥ランキングの上位なのか?

 そうだとしても、ボタンを掛け直そうともしないでおろおろしているのは不可解だ。


「いや、その腹のところ」


 ちょっと可愛そうなぐらいの慌てようだったので、俺は御津代を刺激しないように、なるべく平静を装いつつ指し示した。

 御津代は、俺の指から自分のお腹にゆっくりと視線を移す。


 やれやれ、別になんとも思ってなかったのに、なんだか俺もドキドキしちまったよ。

 そんなに恥ずかしいなら、ボタンが外れないように気をつけて座るんだな……ん? どうして俺は、座ったからボタンが外れたと思ったんだ?

 そういえば……御津代が部室に入ってきたとき、ボタンは外れてなんかいなかった。

 昨日の今日だったから、無意識に確認していたことを思い出す。


「ぇっ、あっ……うん……」


 いま御津代は、ちゃんと見たはずだった。

 自分のシャツのボタンが外れているのを。

 

 しかし、一向にボタンを掛け直そうとしない。

 いつもの強気すぎるほどに強気な態度はどこに行ってしまったのか、薄めの唇をもにょもにょと動かし煮え切らない。


「……掛けてやろうか?」


 これは信じてほしいのだが、俺には下心なんて一切なくて、純粋に御津代のことを心配していた。

 理由はよくわからないが、御津代の異変はボタンが外れていることに端を発したわけで、ちゃんと掛け直せばいいのではないかと思ったのだ。


 だから、こんな仕打ちはあんまりではないか?


「はっ!? うっさい! キモっ! 死ね!」


 三段活用の罵倒を俺に浴びせかけた――散弾、だったかもしれない――御津代は、その勢いのままにシャツのボタンを引きちぎった。

 糸が無理やりにちぎれる音が聞こえた次の瞬間、俺に向かってボタンが投げつけられる。


 学校指定のワイシャツのボタンは四つ穴のもので、安物というわけではないためちょっとした分厚さと重量を有する。

 まあ、そうは言ってもボタンだ。

 当たっても大して痛くはないだろう、と顔面に迫るボタンを眺めながら、俺は軽く考えていた。


 だが。

 清々しいぐらいに躊躇いの含まれない、御津代の投ボタンは、俺のボタンに対する認識を覆す。


「痛えっ!」


 おでこに当たったボタンに含まれた運動エネルギーが、俺の上半身を後ろに押しやっていく。

 うわわわっと情けない声をあげながら、俺はパイプ椅子ごとひっくり返り、床にしたたかに頭や背中を打ちつけた。


「帰る!」


 痛みに耐えられず汚い床でもんどり打つ俺の耳に、無情な御津代の声が届く。

 そして、乱暴に部室のドアを開け閉めする音と、パタパタと遠ざかっていく上履きの音。


 犯人は、現場から逃走したのだった。

 凶器はボタン! 間違いない!


「……あいつ、ついにバイオレンスにも手を出しやがったか」


 まだ痛むおでこを押さえながら、俺は独りごちた。

 それにしても、床に打った後頭部よりもボタンが当たったおでこが痛いっておかしくない?


 御津代の意外な腕力におののきつつ、倒れたパイプ椅子を元に戻し、そこに座って痛みが引くのを待つ。


「うーむ……」


 もちろん、いきなりなにしやがる俺がなにしたっていうんだ、という思いがないわけではない。

 しかし、あの御津代が、意味もなく暴力を振るうとも思え……なくもなかったわ。

 あいつなら、何人か殺ってしまって――被害者は全員、俺だが――いても驚きはしない。

 むしろ、いままで言葉だけで済んでいたのが不思議なぐらいだ。


 ふと机の上に目を向けると、そこにボタンがあった。

 俺のおでこに当たった後、跳ねて机に乗ったのだろう。


「……お前のご主人様、やべーヤツだな」


 なんとなく拾い上げて、話しかけてみる。


 せっかく御津代から解き放たれたのに、まだ俺に警戒心を抱いているのか。

 白いボタンはツヤツヤな丸みを主張するだけで、なにも言葉を発してはくれなかった。

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