第九十話 守りたいもの

小戴しょうたい殿は右官うかんでいらっしゃいますね?」

「そうだが」

「国官──特に右官であられれば自明の理であると思われますが、尊きものを守るのがあなた方の使命なのではないのですか?」


 百人を救う為に一人を犠牲にする。千人を救う為に百人を犠牲にする。その判断を行うものが官吏なのではないか、と白瑛びゃくえいは指摘した。その通りだ。わかっている。少しでも多くの安寧の為に一部のものを犠牲にする。それは策として決して誤りではなく、その失われる犠牲が少なければ少ないに越したことはないが、最終的に最も大切なものを守り抜けるなら、どれだけ犠牲が出てもそれを呑むのが官吏という存在だ。

 そして。

 ときには数の利すら超越する存在があることを文輝もまた知っている。

 命は生まれた瞬間から、決して公平ではない。

 命には優先順位があり、守られるものと差し出されるものの別がある。

 何の力もない民を守る為に国主こくしゅが犠牲になることはあってはならないのだ。何故なら、国主が在る、ということが国を造っているのだから。

 白瑛の言い分は理解出来る。白帝はくていさえ在りさえすれば人の世はどうにか隆盛を繰り返しながら続いていく。反面、白帝が失われれば世界がどれだけ荒廃するか、想像も付かないほどだ。だから、白帝を護る。その言い分は実に正論で、大局的に見れば何の誤りもない理論だ。

 それでも。


「新しい時代を作るのにお前は不要だ、などと陛下がおっしゃるものか」

「おっしゃられずとも、それを汲むのが家臣の務め。言われたことしか出来ない愚図では陛下をお守りすることは出来ないのです」


 話がまるで噛み合わない。そうではない。それだけが忠節ではない。忠節には様々な姿があることを白瑛は既に失念している。


「その為にあなたは何を棄てようというのだ」

「陛下の御世が続かれるなら、あなたの愛した人間の国など滅んでも何の感慨もございません。そのぐらい、陛下というのは尊い存在であられるのですよ」

「あなたはきっとそう言うと思った」


 そうやって自らが選ばれた理由を高慢に作り上げて笑っているが、白瑛は本当に気付いていないのだろうか。幾ばくかの迷いが文輝ぶんきを揺らす。

 白瑛の理論を裾野まで広げていくと、最終的には白瑛自身すら失うほかない。神が全てだというのなら──神と共に滅ぶことを白瑛は受け入れるのだろうか。死、或いは無という状態が怖くないのだろうか。自らが失われるという恐怖を知らないで、人々を支配出来ると本当に思っているのだろうか。

 そうだとしたら。

 文輝は──人間はそれを諾々と受け入れるわけにはいかない。ここはもう神代の世界ではないのだから。

 白瑛が冷たく微笑んだまま、文輝に向けてじり、と進んでくる。


「理解出来ているのなら、悠長におしゃべりをしている時間はないのです。白喜はくきをこちらへ」

「断る」

「──理解出来ませんね。本当に」


 白喜、呼ばれた至蘭しらんが文輝の肩を降りる。雪栗鼠ゆきりすは雨水を弾きながら畔の上に立って──そうして人の姿へと変貌した。

 文輝を背に庇うようにして立った小さな背中は決意をたたえていて、そっと支えてやりたい気持ちにさせる。文輝からは見えないが、翡翠はきっと強い輝きを宿しているだろう。そのぐらい、強い声で至蘭が言う。


信梨しんり。わたしはあなたには従わない」

「あなたの意見など聞いていないのです。役目に戻りなさい」

「いやだ。あなたがわたしにくれなかったものを首夏しゅかがくれた。わたしは首夏の願いを優先すると決めたんだ」


 名前ひとつすら与えられないで、至蘭はこの城郭まちを守護し続けることを強いられた。そんな至蘭に向き合った存在は「信天翁あほうどり」と文輝の二人だけで、その二人の祈りの為になら応えてもいい、とやっと思えた。

 人の祈りを受けた天仙てんせんはその力を発揮出来る。この場にあって──忘却と失念に取り込まれた沢陽口たくようこうの城郭に限っては白瑛と至蘭の力関係は逆転していた。天仙は二人ともお互いにそれを認知している。白瑛が強硬な手段に出ないのがその証左だった。

 

「そんな子どもの遊びのような名を告げるものをどうして」

「首夏にとってこの名前は特別なの。それがわからないあなたにわたしの定めを決める権利なんてない」


 退いて、信梨。わたしは自分で自分の成すべきことを決める。

 言って至蘭は畔の上を白瑛に向けて進む。至蘭を捕らえようと逼迫していた筈の天仙はその勢いに呑まれて一歩退がる。二歩、三歩と退がって白瑛の足が畔を踏み外す。泥水の溜まっていた畑に足首まで浸かっても、それでもなお白瑛に汚れはない。汚れることを知らない白は西白国さいはくこくでは忌色とされる。白帝を象徴するその白色をしたかんはかつてその持ち主が流民るみんであることを示していた。忌避すべき流民に白の環を与えたのは人々が本能的に察していたからだろう。埒外の存在に関わることは自らに何の利もない、ということを。

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