第七十二話 隔絶

 至蘭しらんの小さな手のひらが白く色が変わってしまうほど強く握られる。

 永遠をここに閉じ込めて二人の箱庭を願うぐらいなら、本心を聞かせてくれてもいいのじゃないか。眦の端に小さな雫が浮かび上がる。至蘭が怒りと羞恥と絶望に耐えているのを見れば、「ごめん、そうじゃないんだ」と彼女の小さな頭を抱きかかえていた。

 黒髪の下で残酷なほど強く煌めいていた翡翠が落涙する。


「――首夏しゅかには、ぜったいにわからないよ」

「聞かせてくれよ。もしかしたら、俺にだってわかるかもしれないだろ」

「無理だよ」


 だって、あなたはひとりぼっちになったことなんてないでしょ。

 言われて、文輝ぶんきは自らの罪悪感が抉られるのを感じる。ああ、そうだ。孤独と言うのは文輝の知らない概念だ。人の中にあって、区別と言う名の差別をされてきた。それでも、文輝の二十二年間は慈しみと思いやりのあった年月だった。

 恥ずべきことではない。それでも、孤独という概念を共有することが出来ないことに自らの不甲斐なさを感じた。人は神ではない。全知全能の存在ではない。だから、自らが経験したことしか理解出来ないし、その基準の上で言葉を発する。


「至蘭。俺がここにいて、ひとりぼっちじゃなくなったらお前はそれでいいのか」

「――そうしたら、ずっと誰かと話していられる」


 あなたと――文輝と、と至蘭は言わなかった。わかっているのだ。彼女の願望が満たされるなら相手は誰でもいい。文輝がこの世界から戻っても、至蘭は別の誰かを求めて再び永遠のときを巡るのだろう。

 ひとりぼっち、と至蘭は言う。郭安州かくあんしゅう修科しゅうかを受けたときですら、文輝はひとりぼっちではなかった。友人と呼べるかどうかは微妙だが、知人は出来た。共に演習を戦う、その為だけの合理的な協力者だったが、それでも文輝は一人ではなかった。

 至蘭がどれだけの間、一人だったのか。文輝はそれを知らない。それでも、そんな文輝にでも出来ることがある。今この瞬間から先――明日を共に生きる、ということなら文輝にでも出来るだろう。


「至蘭。ここじゃないとこで、俺と生きてみねえか?」


 例えば現実世界で、とか。とは最後まで言えなかった。

 至蘭の感情が前を向いていないことはもうわかっている。だのに無理やりに顔を上げさせることは出来ない。それを果たしたところで自己満足以上のものは得られないだろう。

 だから別の提案をした。至蘭が納得しないまま、自分たちの犠牲になれとはとても言えなかった。国官として甘いことをしているという自覚はある。誰かの犠牲を踏み付けにしてでも民の安寧を保つのが自分の役割だ。それでも。文輝には嗚咽する幼い天仙てんせんの感情を無視することがどうしても出来なかった。

 誰も傷付かない結末なんてどこにもない。

 誰かの利はすなわち誰かの不利を意味する。そのぐらいのことは流石にわかっていたが、どうしても願わずにはおれなかった。

 誰もが幸福に話を結べるのなら、自らのことは後回しでいい。そう思うことを悲しむものがいるのは知っている。なのに、文輝はいつだって自己犠牲を一番最初に軽んじる。

 自分を守れないで誰を守れるのだ、と子公なら説教をするだろう。

 相変わらず綺麗ごとがお好きなようだ、と華軍かぐんなら嘲笑するだろう。

 戦務長なら――きっと、止めても聞かんのなら最後まで思うようにやれ、と言ってくれるだろう。

 ああ、そうだ。文輝の時間はあの動乱の夜でずっと止まっている。文輝には何も守れない――無力を知った。だから文輝は生を望んだ。この命で守れるものを増やしたい。そうしていつの日か、この身を投げ出して大きなものを守りたい。自己犠牲なんて綺麗なものではない。ただの破滅願望だ。終わるときに大きな花を咲かせたい。命を軽んじている――その一点において、文輝は至蘭を軽く下回るだろう。

 それでも。

 文輝の友人である伶世れいせいが世を治めているのなら、この命で少しでも役に立ちたいと思ってしまうのだ。

 人である文輝に出来る提案は本当に少ない。

 その多くない提案の一つを放り投げてみると至蘭は文輝の衣の前身ごろをぎゅっと掴んで首を横に振った。


「――無理だよ。首夏はわたしとはちがう。ずっと一緒にはいられない」


 何か月ここにいるだろう。何年をここで過ごしただろう。

 朝と夜の交代の回数を数えきれないほど濃縮した時間を至蘭と共に過ごすうち、彼女は昏い笑顔から自然な朗らかな笑顔に変わった。人を呪っている節はまだ残っている。ただ、文輝については共に在ることを容れたように見えた。でなければ、こうして別離の瞬間を暗喩する文輝に縋りついてきたりなどしないだろう。

 文輝は人だ。怪異の眼を借りても人の身だ。

 だから、現実世界に戻ればあと六十年ほどで文輝は命の役割を終える。至蘭はそれを見届けてまた一人に戻る。文輝の子孫に至蘭との交流を受け継いでいくことは出来るだろう。ただ、それは至蘭に繰り返される別離を強いることになる。至蘭の精神は幼い。何度も何度も人の最期を見送らせるのはただただ、酷だった。

 発言をするときは最後まで考えてからにしろ、と守衛に諭されたあの日が昨日のように思い出せる。

 不用意な発言は相手も自分も不幸にする。その言葉の持つ意味を正しく理解してから口を開け、と言われたのに聡くない文輝はその忠告を未だに実行出来なかった。

 ここは現実世界ではない。

 ここにいる限り、文輝と至蘭は無限のときを生きている。

 ならば、焦ることもないだろう、ともう一度判じて文輝は至蘭の黒髪をそっと撫でた。旧友と同じ緑の黒髪はこの大陸で生まれたことを雄弁に物語る。

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