第六十六話 直刀
紅の一つは
紅の灯かりはもう一つある。
細長い盾。
「翁。この二つをお借りしてもよいのですか」
「いや。ことが終われば
「――よいのですか」
「貴殿の眼に見えているものを否定しても何にもなるまい。使ってやってくだされ」
名が視えておられるのでしょう。
その問いに文輝は首肯する。紅の光を纏った二つの
その名が視える。後は音にするだけだ。そっと唇から息が漏れ出る。
刹那、文輝の両耳は歓喜の声で満ちる。倉庫の他の神器たちからの祝福だ。自分を使うべき相手と巡り会えた僥倖を祝う声だ。紅の光がぼう、と浮かび上がって気が付いたら直刀と盾は文輝の両手に収まっていた。まるで最初からそこにあったかのような顔をして文輝の手に馴染んでいる。
それを確かめて、文輝は後背を振り返った。
「翁。全てが終われば改めて御礼に伺います」
今は失礼する。その旨を伝えて足早に文輝は工房を飛び出した。
そうして駆けて、駆けて東山に続く山門へと辿り着く。相変わらず、土くれからすえた臭いがしていた。
衛士のいない山門をくぐる。
廟だったものは著しく傾き、柱は幾本も折れている。陶器漆器の残骸と思われるものが散見された正面が見える位置まで移動すると中には神像が一体も置かれていないのに気付く。空の廟だ。祀られるべき神の失したこの地を守護するものはいない。
いつからこうなのだろう。石華矢薙の出現で白帝廟が崩れたのか、神威を失った廟だから石華矢薙に呑み込まれたのか。その結論を知っているだろう「信天翁」は何も語らない。それを確かめるのが文輝の役割だと彼女は言った。
敬われない天仙と「信天翁」は言った。必要ならもっと敬え、と彼女は言った。
朽ち果て、荒れ放題のこの光景を
山林の中から暫し廟だったものを見上げていたが、文輝は感傷の沼から無理やりに足を引き上げる。
反省と後悔は今でなくとも出来る。今は――白喜を探さなければならない。
容貌も何も知らない。どんな姿で、どんな経緯で
それでも、多分。今の文輝の「眼」なら見つけられるだろう。そう信じて、文輝は「多雨が続く区画」へ向けて少しずつ移動を始めた。
帰る場所を失った天仙がそうする、という保証はどこにもない。
ただ、務めるべき義務を果たさずに雲隠れしているのなら「信天翁」や老いた刀匠は白喜を庇うような言葉を口にしなかっただろう、と推測出来た。白喜はこの
そんな予感があった。
先の動乱のことを度々文輝は思い出す。帰るべき場所に帰ることが出来なくなった悲しみ。自分だけが遠く隔絶される苦しみ。それでもときがくればいずれは――という切なる願い。
誰もが等しく平和で、誰もが等しく苦しんでいるのが文輝の生きている世界の真理だ。
たった一瞬の幸福とすら出会わない生はない。ほんの一瞬の苦しみを味わわない生もない。
だから、皆、今を――そしてその向こうの明日を生きている。
それでも、別離は人の心に傷を付けるし、傷は自らを臆病にする。怖じることのない生きものはいない。怖じてなお前に進んだものだけが残るときもあるし、怖じたことによる停滞が人を救うこともある。全ては巡り合わせで、最初から決まっているのかもしれない。
それでも。
文輝は生きているのだ。だから、祈りが足りないのなら文輝が祈ろう。文輝だけでは足りないのなら
それでもまだ足りないのなら、
数多の祈りが白喜に届くまで、祈り続けよう。
それが神に――天仙に愛されたことへの報恩なのだから。
獣道は足場が悪い。何度も体勢を崩して、盾など持って来なければよかったと後悔すら抱いて、文輝は山林の中を必死に歩いた。歩いて、歩いて、歩いているうちにようやく「それ」を見つけたときには心の底から歓喜した。獣のものではない足跡。文輝のものよりずっと小さいが間違いがない。人の足の形をした土の窪みを見つけたとき、文輝はやっと希望を得た。この山林は子どもが遊びまわるには峻嶮だ。となると足跡のあるじの正体は限られている。
白喜――だと判じられる根拠をやっと見つけた。
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