第二十七話 前例

「なるほど、貴様の中では既に結論が出ている、と?」

子公しこう……お前も概念の話がしたいのかよ」

「貴様が今、自ら口にしたのではないのか。『やってみなければわからん』実に道理だ」


 人間が人間である以上、誰にでも限界はある。それ以上を望めば足元が危うくなり、いつかは転落する未来しか待っていないだろう。それでも、願わなければ叶う筈もないし、願った以上最善を尽くしてこそ叶ったときに喜びが生まれる。

 子公が言っているのはそういうことだ。

 やってみなければわからない、だなんて当然だ。その当然のことを認知したのならやっと勝負の出発地点に辿り着いたのだとも言える。

 困難の前で何もせずに膝を折るのか、苦痛に耐えて顔を上げるのか。そこに人としての美徳が映し出される。文輝ならより良い色の景色が見えると子公が信じているのが感触として伝わってきた。


「不安のない愚かな指揮官など私は要らん。だが、不安に押し潰されて戦いもせずに撤退を選ぶ臆病な指揮官もまた不要だ。貴様は将官を目指すのだろう。人の命を背負って、それらを守って戦う道を選んだのだろう。戦う気概があるのなら、私は幾つでも献策をしよう」


 一人で全てを背負い込んで潰れるのなら見捨てる。そんな偽善しか選べない上官は必要ない、と子公が切り捨てた。その容赦もない物言いの裏に、文輝ぶんきはそうではないだろうという信頼が浮かんでいるのをどうにか受け取る。受け取って、文輝は自らが一人ではないことをもう一度理解した。

 官吏登用試験の実技が始まるあのとき。文輝が母親から託された女物のかんざしを子公に預けたあのとき。子公は言った。自らの足で明日に向かうものを子公は探していた。明日を共に戦える上官を探していた。不足があれば補い合い、そうして得られるこの景色の向こう側を子公は探している。

 ああそうだ。文輝が探していたのも子公が求めているものと大きな違いなどない。

 あるべき今日を守り、明日に繋ぎ、そしてそのずっと向こう側に幸福があることを望んでいる。

 今、この場所に全ての解を持っているものなど誰一人いない。

 怪異たる委哉いさい華軍かぐんが望んでいるものが全て重なり合うとは誰も保証しないが、だからこそ文輝は知っているのだ。共に在るということは、お互いの気持ちが寄り添おうとしているということだ。


「やってみなければわからん。前例のないことに怯えるな。前例がないのであれば貴様がその一例目になればいいだけではないのか」

「――お前、本っ当に正論だけはぺらぺら喋るよな」

「実に頼もしいだろう?」

「鬱陶しいの間違いじゃねえのか」

「悪口が叩けるのなら敵前逃亡は心配せずともよいな。それで? 白墨は十分削れたのだろう」


 上官とのやり取りを再開させる宣言が聞こえた。わかっている。委哉――怪異は何らかの非常事態が起きていても彼らだけで解決する意思はない。文輝――人間が最終的な判断を下し、実行することが暗に求められていた。それが人間の世界と怪異の世界との在り様だろうということは何となくわかる。相互不可侵ではないが、お互いへの過ぎた干渉はお互いの善を損ねるだろう。

 人間を代表して怪異と交渉をする、だなんていうのが右官うかんの役割かどうかは些か怪しいが、それでもこの沢陽口たくようこう城郭まちで起きていることに対処する、というのは国官として誤りではないと感じた。

 区画自体が怪異である、と言われた通りどれほどのときを過ごしても夕暮れが訪れる気配すらない。それでも、湖水の向こう――岐崔ぎさいではとうに陽が落ちているだろう。右官は交代制で労務にあたる。今朝、文輝と共に日勤だった筈の上官の退庁時刻は過ぎているにも関わらず伝頼鳥で返答が届くということ自体が非常事態だ。

 子公の諳んじる説得文を自分の言葉に置き換えて白墨で綴りながら、文輝は正面に座る少年に提案を投げてみる。委哉には不要でも文輝たち人間には必要なものがある。


「委哉、次の鳥が戻ってきたら晩飯が食いたいんだが」

「おや? 小戴殿は小休止をご要望かな?」

「そうじゃない。次の鳥で上官殿が『応』と仰ってくださるだろうよ」

「それは予感? それとも確信?」

「自分が何をしているのかぐらいわかっているつもりさ」


 文輝には二人の兄のように飛び抜けた将官としての素質などない。責任感も任務遂行能力も兄たちには遠く及ばないし、それを持っていると勘違いをしたこともない。文輝はたい家にあってどちらかと言えば落ちこぼれなのだということは何とはなしに理解していた。

 それでも戴家三男という肩書きは決して消えてはくれないし、せめてその名に恥じない自分でありたいと思う。思うからこそ文輝は様々なことに向き合う努力をしてきた。その結果が初校尉しょこういという位階いかいだ。

 評価を受ける、というのはそういうことだ。

 人の信を預かった文輝の言葉には力がある。人を守ることも助けることも――万に一つ判断を誤って人を傷つけることも出来る。それと知っていて文輝は言葉を使った。今から起こることの全てを一人で負うことは出来ないだろう。それでも、善なることを願い、独善を行使するということの意味も知らないで伝頼鳥を飛ばしているのではない。

 知っている。委哉たちの抱く純然たる善意が文輝の思うそれと一つのずれもなく重なっている筈もないし、そのことに落胆したり失望したりしなくてもいいことも。だからといって委哉たちの全てを拒絶する必要がないことも今の文輝は知っている。


「委哉。信じてくれると信じるという行為は無為かもしれない。偽善だと思ってもいい」

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