変貌の薬

焼魚圭

第1話「変貌の薬」

 全てが闇の黒に塗り潰された夜、辺りには頼り無き民家の灯り、会社の残業の光、生き物のように動き回る車の放つ光や街の歴史を眺め続けている街灯が申し訳程度に闇をかき消している。闇の中を歩く二人の女がいた。静寂を打ち消す会話が夜の静かな空気に波紋を立てていた。

「りりー、最近どう?」

 里利はただそれだけの質問に質問で返した。

「どう? って、何が?」

「仕事よ仕事、もう一年以上経つけど慣れたの?」

 里利は大学を卒業してからの一年二ヶ月程時のあの日あの時の像を脳裏に映し出す。教えられ怒られ愚痴を告げられ続け、そして褒められる事など唯の一度も無く。そんな生活の中にあったのは普通な部分か闇の部分の二つだけ。

 見崎 里利はもう23歳になる。しかし、未だ大人になったような感覚など何一つ在りはしなかった。

 里利は高めの身長であれども殆ど膨らみの無い胸に握り締めた拳をそっと当てて言った。

「立派に社会に飼われているわ。もう、身体も心もボロボロで、いつダメになるかも分からないや」

「ふふっ! まだそんな事言えるならダイジョウブ! 今夜は母校に忍び込むの、さぁ、勇気を胸に秘めて!」

 明るく豪快に言ってのけた日菜は今の態度並に大きな存在感を放つ豊かな胸を張っていた。里利は自身よりも10センチ近くも身長が低く可愛らしいくせにとても素敵な胸を持ち無敵な輝きを瞳に宿した日菜に心の底から嫉妬していた。

 里利は日菜から受けた質問をそのまま与えてみる事にした。

 それに対して日菜は笑いながら言う。

「気にしない気にしない! そんな雰囲気の悪くなるお話はダメだよNGワードだよ」

 やがて、閉じられた背の低い門が見えてきた。

「見て見て我らが母校! やっほー元気にしていたかい? うん、息してないね」

 これは犯罪、建造物侵入罪、誰かに見つかってしまえば次の寝所は暗い牢屋の中で、そこから出た後には生涯の出来事の一つ一つの裏の影で後ろ指を指されるかもしれない。そう考えるだけで里利の全身に寒気が走り、身体は震え上がる。今の会社を立ち去り、あの過ぎ去りし時よりも厳しい就職活動の深淵が口を開けて待っている。その想像だけで不安は胸を満たし、息苦しさを与える。下手な怪談よりも恐ろしい現実を覚悟しながらの肝試しは始まる前から里利の心臓の鼓動を加速させる。

 日菜は背の低い校門をつかみ、身を乗り出し、這いずるように登り、門の向こうへと行き着いた。日菜は晴れやかな笑顔を里利に向け、可愛らしく首を傾けた。

「早く早く、丑三つ時は近いよ! 早くしなきゃ時間は逃げちゃうぞ~!」

 校門を越え、もう世話になる事も無いはずだった学校へと入っていく里利。

 日菜は辺りを見渡す。

「う~ん、いつも見ていた景色とは別物だねぇ。息してないからあたしゃてっきり死んでいると思ったら……学校も生き物なのね、そうなのね?」

「そんなわけないでしょ、バカヒナ」

「うわぁ、バカって言った方がバカなの!」

 静かな空気を引き裂く日菜のうるさい声に耳をふさぐ里利。

 日菜は笑ってピースサインを向けた。

「うん、やっぱりりは笑ってた方が良いよ。会社入ってから暗かったもんね、そのまま悟りを開くのかと不安だったよ」

「もう、そんなわけないでしょ……ありがと、ヒナ」

 闇の中、学校は暗く妖しい城のようにも見えた。

 ふたりは足音の一つも立てないようにそっと歩いて行く。

 里利は窓を開き、校舎の中へと入っていく。誘った方であるはずの日菜が何故か後ろから着いて行く形で入って行く。暗く黒い空間は心に恐怖を忍ばせ、夜の学校というその場そのものが恐怖の波を荒立たせ、足の進みは遅くなる。やがて、ふたりがかつて授業を受けていた教室へ、追憶の亡霊たるふたりのかつての少女たちは近付いていく。理科室の前を通り過ぎようとしていたその時、ガラスの割れる音の破片が耳に突き刺さる。

 女性たちは共に驚き飛び跳ね兼ねない程の衝撃に打たれる。

里利は何も言わぬままにドアを開いた。理科室の人体模型はあまりにも気味が悪く、存在そのものが奇怪であった。

 里利は、窓から降り注ぐ月の光に照らされたガラスの破片をその目に捉えた。途中で割れて破片と化した試験管より流れ出た液体。

 里利はそれに触れた。途端の出来事、瞬く間の出来事であった。強いふらつきが里利の身体を頭を揺さぶり、やがて脳裏の闇の中へと迷い込んでいく意識。床に倒れた里利を見て叫ぶ日菜。そんな彼女は窓辺にある姿、月明かりの陰に立つ男の姿を見た。



 まぶたを開いたその目に映されるのは一面に広がる白、自室の天井だった。

 里利は身体を起こし、会社へと向かう支度をした。昨夜の出来事を思い出すだけでも闇に心を揺すられ恐怖に震え上がる。何故自宅で寝ていたのか全くもって分からなかったが、恐らくは日菜のおかげ、そう思う事にした。昨夜は少なくとも2時までは起きていた。明らかな睡眠不足であるにも関わらず、身体は元気そのものであった。

 ドアを開き、瞳に映したその景色はいつもよりも眩しく、その日射しは里利の肌を鋭く突き刺す。その感覚に違和感を覚えつつも、日菜に『昨日はありがとう』とメールを送った後に里利は会社へと向かった。



 空は濃い青に覆われ、夜を迎えようとしている。

 里利は今日の仕事に驚く程に集中出来なかった事を思い返す。ありとあらゆる物音を立てた物や人の位置までもが普段よりも鮮明に脳裏に再現されていた。人の話す言葉の一つ一つが否応なしに耳に入り、もはや業務どころではなかったのだ。

 薄暗く蒼い空の下を歩いて行く。ただそれだけの事が心地良かった。誰も何も邪魔に入らず煩わしい音も過剰な光も浴びなくていい、それだけの幸せ。しかし、それも突如打ち切りとなる。

「お~い! りり~! やっぱこの辺にいたんだ。晩ごはん行こうよ」

 里利は言う。

「ヒナ、昨日夜の学校に行ったばかりなんだから今日は休ませて」

 今は、誰の声も聞きたくも聴きたくもなく、ただ静かに過ごしていたかった。しかし、日菜はそんな言葉の一つで退くような都合のいい女ではなかった。

「ねぇ、お願い! でさ、今夜私を泊めてよ、どうせりりも明日は休みなんでしょ?」

 里利は渋々承諾し、店へと向かう。イタリアンを扱ったチェーン店のファミリーレストラン、そこで日菜は勝手に里利の分まで頼む。出された料理はいつもと同じ好物のサラダのはずなのに、里利の中の何処かから違和感が湧き出し胸をすぐに充たす。その正体はすぐにでも判明した。好きなはずのサラダを口にする気が一切おきなかった。

 サラダを何とも言えない目で見つめる里利を心配したのか日菜はいつもより優しく声をかける。

「どうしたの? りり、サラダ好きだったよね?」

 里利は無理矢理微笑みを作り無理矢理サラダを口に含む。しかし、そんな偽りの箸はすぐに皿へと行き着かなくなってしまった。

「ごめんヒナ。今日はサラダを食べる気分じゃないみたい」

 肉、肉、肉。里利の視線は完全に肉へと注がれていた。



 闇に閉ざされたこの世界、この時間の中あるアパートの一室でふたりの女性が静かに眠りの世界へと旅立っていた。果たしていつその夜の闇は掻き消されるのだろうか。

 夢の幻像を見ていた女性たちの内のひとりはふと起き上がる。

-喉が渇いた-

 里利は強烈な喉の渇きに焼かれていた。隣りで寝息を立てる小さな可愛らしい女性の白くて綺麗な首筋が目に入る。喉の渇きはただ里利の心を、身体を焼き続け、一刻も早く水分が摂りたくて、恋しくて仕方がなかった。日菜の白くて細くて綺麗な首筋に意識を吸い寄せられる。その綺麗な首に歯を立て跡を残したい。その皮膚の裏を流れる紅い飲み物を吸い、甘美な味わいと気持ちに溺れたい。

 そんな衝動に従い、首に口を、鋭い牙を近付ける。日菜の髪に息がかかる程に近づいたその視界の端に日菜の幸せそうな寝顔が映り込む。

「いや、ダメ……」

 里利は気持ちを無理矢理抑え込み、後ろへと下がり顔を手で覆う。その時、己の腕から垂れているかのように動きに合わせて揺れる幕が張られている事に気が付いた。

「何……これ」

 よく見ているとそれは翼のよう。里利はコウモリ女へと変貌していたのだ。

 人間ではなくなっている。その事に気が付いた里利は焦りと恐怖に支配される。冷や汗が体を伝っていた。

 喉の渇きを潤すべく水を飲む。絶えずに口へ、喉へ、身体へと。

 いかに喉の渇きは癒えようとも心の渇き、飢餓感は隠れる事もなく、里利の理性を踏み付け嘲笑っていた。

 里利はその衝動を抱えたまま外へと飛び出した。学校へ、恐らくは全ての始まり、そして全てを終わらせるべその地へと向かった。日菜との幸せな日々を取り戻すべく。



 夜闇に染まりし城のように見えるその建物の理科室へと通じる窓へと飛び、その窓を開くコウモリ女、その先に待つ少年。全てが異様な光景であった。

 少年は言った。

「待ってたよ。全て僕のせいなんだ、責任の取り方は分からないけれど……ごめん」

 里利は震える声で言う。

「どうすればいいの? この姿といい、血が欲しくて吸いたくて吸いたくてたまらない心といい……もう何も分からない。元に戻してよ!」

少年は言う。

「無責任だけど、元には戻せないんだ。本当にごめん」

「私は人間なの! 見崎 里利! 普通の社会人なの! コウモリなんかになりたくない! 喉が渇いて渇いてたまらなくてもう……人間じゃいられない、ヒナの血を吸いそうになって、嫌なのに我慢するのもツラくてツラくて……もう正気じゃいられないの!」

 里利の叫びは少年の心のどれ程まで奥へ進み、その言葉は何処に刺さったのだろうか。

 少年は優しく声を、心を届ける。

「いい? 落ち着いて、りり。僕は朱雀 幹人、『みきひと』って呼んで。全ては僕が悪かった。責任の取り方も分からないけど……僕が原因だから……だから、全てを受け止める。まずは僕の血を吸って落ち着いて……りり」

 里利は幹人の首筋へと目を向けた。陶器のように白くて美しいそれを見て言う。

「女の子みたい、ズルいよ」

 そして里利は幹人へと顔を近付け、耳元で地声混じりに囁く。

「私にとって初めてなんだから。あまり上手じゃないかも知れないけど、いい?」

 幹人は髪にかかる里利の甘い吐息と大人の艶を感じる色っぽい声に頬を仄かに赤く染める。

「こんな事……僕にとっても初めてさ。これからりりはどうなってしまうのだろう。全く想像もつかないよ」

 里利は首筋に唇を当てた。オンナの柔らかで色っぽい感触に幹人は思わず声を洩らす。

「んんっ……優しくしてよ、頼むから」

 滲み出る甘美なるそれによって、里利の身体も心も熱く、潤っていく。

「ちょっ、舐めないで! くすぐったいって! ちょっ! ひゃああああ!!」

 噛み付いて出た血をなめて吸う。それはチスイコウモリの習性だった。



 月明かりが差し込む理科室の中で、ふたり隣り合わせに並んで寝転がっていた。

「りり、僕はずっと寝たきりの母さんを快復させようとたくさんの動物たちを犠牲にしてまで薬を作り続けてきたんだ。でもね、今回のコウモリの薬が出来た時には、既に母さんはこの世にはいなかった。そして全てが間違い、現実を捻じ曲げて罪を着るなんて事はいけないって気付いても、結局はきみに迷惑をかけてしまった。あの時、落とさずに処理出来ていれば……落としても吸い込ませるタオルの一つでも持っていれば……」

「いつまでも後ろを向いていても仕方がないよ、これからの事を考えなきゃ」

 里利はそう言って微笑んだ。

-ヒナならきっとそう言うわ-

 本当は辛いに違いないにも関わらず、そう言い聞かせて本音隠し通すというのだ。

「本当にきみは強いんだね」

 里利は空を飛ぶ事の出来るその幕の張った腕を広げて、鋭い歯をチラりと見せて言った。

「もう、普通じゃないもの。悲しむのは落ち着いて生きて行けるようになってから、それでいいよね」

 コウモリの翼は夜の闇が、月の光が、とても似合っていた。

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