第7話 私は貴方の毒

 幼い頃の、夢を見た。

 エルンストが産まれたばかりの頃。環境の変化に戸惑っていた私を、兄上が遊びに誘ってくれたことがある。


「べ、別に、わざわざ気をつかってくれなくても……」

「いーや、今日はお前と二人っきりで遊ぶ! もう決めた!」


 当時の私には、兄上が自由な存在に見えていた。奔放ほんぽうな兄の姿は眩しく、憧れの存在でもあった。

 けれど、違った。

 兄上は不自由の中で、少しでも明るく生きようとしていたに過ぎない。


「……ート……! おい! しっかりしろ、コンラート……!」


 肩を揺さぶられる感触で、意識が現実へと引き戻される。

 激しい痛みが、まだ、生きているのだと伝えてきた。


「バカ野郎ッ! なんでこんな真似しやがった……!」


 身じろぐたび、ぴちゃりと水音が反響する。胸の辺りまで泉に浸かっているのだと気付くのに、少し、時間がかかった。


「兄……うえ……」


 どうにか、言葉を絞り出す。


「ご無事、でしたか……?」


 兄上はさっと青ざめ、ぎりりと唇を噛み締めた。


「ああ。……誰かさんのおかげでな」


 兄上の瞳が私の左半身を映し、悲しげに細められる。

 左腕を失ったのだと、その時、ようやく気が付いた。


「だが……脱出できるほどの力は残っちゃいねぇ。このままじゃ、二人とも閉じ込められて終わりだ」


 ずきん、ずきんと、全身が痛みを訴える。

 意識が沈みかける中、ほとんど思考を介することなく、言葉があふれ出た。


「いいえ」


 信じている……などと言った、生易しいものではない。

 私は、

「彼」の想いの重量を。常軌じょうきいっするほどの、愛を──


「ヴィルが、迎えに来ます」




 ***




 兄上に背負われたのは、いつぶりだろうか。


「この泉は俺ら『吸血鬼』にとっていい薬だ。しばらく浸けといてやるから、寝て休め」


 兄上の言葉にどうにか頷き、痛みに苛まれた意識を手放す。


 ヴィルは、怒るだろうか。

 ……怒るだろうな。


 それでも、私は、立ち向かわなくてはならなかった。

 神に許しを乞うために。

 ヴィルの愛を受け入れ、共に歩むために……


 ばしゃばしゃと、荒っぽい水音が反響する。


「……良かったな。ちゃんと迎えに来てくれたぜ」


 眩い光が、閉じたまぶたの上から眼球を突き刺した。


「神父様ッッッ!!!!」


 馴染みのある声が、私を呼ぶ。

 頬に、慣れ親しんだ体温が触れる。


「……! 腕……っ!? 左腕、どうしたんだよ!?」

「悪い……探しはしたんだが、見つからなくてな……」


 兄上は苦しげに息をつき、私の身体をヴィルに預けた。


「……このバカ、俺が動けなくなったとたん怪物相手に散々暴れて、挙句の果てには落石から俺を庇いやがった……。……ったく、回復力も落ちてるしここらで終わりかーって思ったんだが……あそこまでされたら、死ぬに死にきれないっつの……」


 かつてのように優しい手つきで、兄上は私の頭を撫でてくれる。


「ここの泉質は俺らによく効く。……そのうち起きるだろう」


 ヴィルの腕に、身を委ねる。まだ、自分の意思で動くことはできない。


「腕……見つけられたら繋がるかもしれないけど……人間の腕じゃくっつかないだろうね……」

「……ああ……。本人のはたぶん、岩に潰されただろうし……厳しいよなぁ……」


 テオドーロと、兄上が話し合う声がする。


「一応、探してみるか。……あのアホ上司も、弔うぐらいはしてやりたいしな」

「まあ……君も重傷なわけだし、程々にね……?」


 薄目を開けば、穏やかな光が、私達を包み込んでいるのがわかる。

 ランプと……これは……ヒカリゴケ、だろうか。


「……ヴィル?」


 私をかき抱く手は、震えていた。


「……もう、無理に戦わなくて良いんすよ。神父様」


 薄く開いた唇から、血の味が滲む。

 糧を与えられ、傷ついた肉体が癒えていく。

 霞んだ視界が、ゆっくりと晴れ渡る。


「これじゃ……逃げたくても、逃げられねぇよな」


 微笑むヴィルの瞳に、仄暗いよろこびがある。


「言った、だろう」


 彼の頬に、片方だけになった手を伸ばした。


「私を……逃がすな」


 自然と、笑みがこぼれる。

 ああ……


 光あふれる楽園でもなく。

 されど、冷たい風の吹き荒ぶ荒野でもなく。

 薄暗くて、温かい、彼の腕の中……


 彼にはもっと、ふさわしい立場があるのだとしても。……私のために、彼を、仄暗い地下にはしらせたのだとしても。

 間違いない。

 ここが、私の居場所だ。

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