第2話 揺れ動く感情
珍しく、悪夢でない夢を見た。
節くれだった手が私の肌をなぞり、唇に触れる。
恐怖はない。不快感もない。
むしろ、私はその手に安らぎを感じている。
「神父様」
優しく、甘い囁きが私を呼ぶ。
罪深い誘惑が、疲弊した魂に沁みる。
温かい手が、刻まれた傷痕を撫ぜ、癒していく。
「愛してます」
嗚呼……その愛に応えられたなら、どれほど幸福なことだろう。
忘れさせてくれ。すべて。
どうか、私を……
私を、おまえの手で堕としてくれないか。
***
「ん……」
目を開けると、眩い光が眼球を突き刺す。
「あ、大丈夫すか? 寝てていいんすよ」
……ヴィルに声を掛けられ、肩が跳ねそうになったが
何という夢を見ているのだ。私は。
今は、そんな場合ではないというのに……。
「……降りる駅が過ぎてしまっては困る」
眠い目を擦り、赤くなった顔を誤魔化そうと外を眺める。
……と、
くすぐったいというのか……生暖かいというのか……
這うような感触は次第に内腿の方に移動し、思わず口を押さえる。
寝ぼけていた意識がようやく覚醒し、触られているのだと気付いた。
「……おい」
「ん? 何すか」
「なんだ、この手は」
「……あっ」
何が「あっ」なのだ。何が。
まさか、無意識に触っていたのか……?
「こ、この前弾を取ったじゃないすか。大丈夫かなって……」
「……」
ヴィルはだらだらと冷や汗をかき、視線を逸らしている。
なるほど、妙な夢を見たのはそのせいか……
「あまりベタベタ触るな。どうしても撫で回したければ、一言声をかけろ」
「す、すんません。じゃあ、今聞きます。腰とかケツ触っていいすか」
「窓から投げ捨てられたいか」
「すんません……」
ああ、まったく、くだらない。
とはいえ、少々気が紛れたのは事実だ。
……反省はしてもらいたいものだがな。
***
「で、ここが目的地っすか?」
「いや、今はプファルツとバーデンの間だ。ヘッセンの方角に向かうには乗り換えがいる。ここから東……シュトゥットガルト方面に向かい、更に北へ……」
「……了解っす!」
ヴィルは、しばし目を左右に泳がせていたが、最終的には元気よく返事を返した。
……後で地図を見せておくか。
「……汽車の時間によっては、この辺りで宿に泊まる必要があるな」
空模様を見ると、少し日が傾いていた。
私としては日が落ちた方が動きやすいが、夜は人目に付きにくくなる。
……つまりは、戦闘になる可能性が高くなってしまう。
「てか、結構金持ってるんすね」
「今までの生活では滅多に使わなかったからな」
ほぼ人と関わることを断っていたため、当然ながら金銭のやり取りは少なかった。
だが、それだけではない。
「……それと、刺客が持っていた分もある」
……罪深いことだとは、私とて理解している。
「あー……でも、仕方ねぇっすよ。使えるもんは使わなきゃ」
ヴィルはそう言ってくれる。
彼も、そうやって生き長らえてきたのだろう。……いいや、そうやってしか、生きる術がなかったのか。
「……神よ、お赦しを……」
小さく独りごちる。
罪を重ねて歩む先に、果たして救いがあるのだろうか。
奪わずとも生きられる道を、見つけることができるだろうか……。
「……あ?」
物思いにふけっていると、ヴィルが怪訝そうな声を上げる。
かと思えば、次の瞬間には誰かの手を掴み上げていた。
「あっ!?」
人混みの中から、痩せぎすの少年が引っ張り出される。まだ小さな手には、ナイフが握られていた。
「……それで隠れたつもりか? 見え見えだぜクソガキ」
大衆は途端に
要は、この少年が盗みか何かを働こうとしたのだろう。
そして、「
「神父様ぁ、どうします?」
ヴィルは険しい顔をしつつ、尋ねてくる。盗みどうこうではなく、「私を傷つけようとしたこと」が、彼の中では大きいのだろう。
周りの視線が痛い。
私としては、何かを盗まれたわけでもなければ、ナイフで切りつけられたわけでもない。
わざわざ
「逃がしてやれ」……と、言おうとした瞬間、
「盗賊が出やがったのか!!」
誰かの怒号に、思わず息が止まった。
背筋に悪寒が走る。……嗚呼……
「とっととつまみだせ! ぶっ殺してやる!」
男の怒声を合図にし、群衆の視線が一斉に少年を見る。
少年は怯えきった表情で、私を見上げた。
救いを求めるような瞳が、胸に突き刺さる。
「……っ」
「見捨てましょ。いちいち憐れんでちゃキリがないです」
ヴィルが耳元で囁く。
……そうやって。
そうやって、おまえも見捨てられてきたのか?
悲しむでもなく、憤るでもなく、当たり前に思うほど……
「そのガキを渡せ! 腕を切り落として川に投げ込むぞ!」
人混みをかき分けてきた男が、ヴィルの腕から少年を奪う。男はそれなりに値が張りそうなコートを着ており、黒い髪は綺麗に撫でつけられている。
身なりのしっかりした紳士だ。おそらく、普段はこのような口調で話してはいないだろう。
「うわぁっ!?」
少年は必死にもがくが、男の腕からは抜け出せない。
「た、助けてよ! 兄ちゃん、カミサマに仕えてるんだろ!?」
まだ、声変わりすらしていない声が救いを求める。
……やめろ。そのような目で見るな。
私は……私は、もう……
「……神のご慈悲は、富める者にも、貧しき者にも平等に注がれます。どうか、穏便に済ませることはできませんか?」
「あァ? 俺のオヤジはな、盗賊に店を荒らされて大損こいてんだ! 許せるもんかよ!」
「……そこを、どうにか……」
それでもどうにか作り笑いを見せ、説得を試みる。
……平等だと?
本気で言っているのか、私は。
生きてきた中で、理不尽ばかりを感じてきたというのに?
「……聖職者気取りが偉そうに」
その通りだ。
私はもう、聖職者を「気取る」ことしかできはしない。
「そこまで言うならついて来い。……話し合うにしても、こんな場所じゃやりにくいだろ」
少年の腕をわし掴んだまま、男は言う。
ためらったものの、言われた通りその後に続いた。ヴィルも、仕方がないといった様子でついてくる。
凄まじい敵意と悪意が、男からは感じ取れる。
私も商家の出である以上、「盗賊」の脅威は理解できる。男が先程語ったことが真実であるならば、恨みに思うのも無理はない。
嗚呼、だが……私は知っている。
やり口が、盗賊連中とさほど変わらない「商人」など、山ほどいる。
男の主張をそのまま信じるつもりはない。
とはいえ少年の人となりが分からない以上、無意味にそちらに肩入れするつもりもない。彼がかつてのヴィルのように、罪を悔いる心を持っているとは限らないのだから。
……ただ、縋りつかれた手を振り払えるわけもなかった。
***
人気のない路地裏に辿り着いたかと思えば、男は少年を地面に引き倒す。
コートの中から長剣を取り出し、見せ付けるように鞘から抜いた。
「何をするつもりですか」
突然物騒なものを取り出したのにも驚いたが、それが時代錯誤な武器なのは驚きを通り越して不気味だ。
男がくっくっと笑う。
「……俺はなァ、『秩序を乱す輩』が大嫌いなんだ。当たり前に罪を犯す賊なんざ、嫌いな人種の筆頭さ」
剣の切っ先を少年の喉元に向け、男は舌なめずりをする。そして……そのままゆっくりと、私の方へ剣先を向けた。
「だが……そんなゴミムシでも役に立つことはあるらしいな。……あんがとよ小僧、おかげで『吸血鬼』を誘い出せたぜ……!」
「はぁ……!?」
ヴィルが隣で素っ頓狂な声を上げる。
なるほど、
「……やはり、人前では戦いにくいようですね」
「ハッ、冷静じゃねぇか。血を啜る
虫唾が走る……か。
嗚呼、それはこちらの台詞だ。
「少年を利用する外道が、何を言いますか」
「何言ってやがる。こいつもクズだよ。盗みが
男は嘲笑を浮かべ、少年の頭を踏みつける。
反吐が出るとはこのことだ。
貴様に、化け物と
「当たり前にルールを守って秩序正しく生きてる一般市民が、どうして危険に晒されなきゃならない? あまりに理不尽だ。許されることじゃねぇ……」
「や、やめてよオットーさん……! おれ、頑張っただろ!? い、いつ殺されるかわかんなくて、ほんとに怖かったよ。なぁ、許してくれよぉ……!」
震えながら許しを乞う少年を、男は容赦なく踏みつける。
「うるせぇ! 生かしてもらえるだけありがたく思うんだなゴミムシが!」
少年が罪人だとして、望んでそのような生き方をしているとは限らない。
正しい生き方がわからないまま、奪うことを選択するしかなかった者もいる。
……少なくとも、かつてのヴィルはそうだった。
「この……ッ」
身体が勝手に動く。
もう、放ってはおけなかった。
「かかって来いよ吸血鬼ィ! このオットー・シュナイダーが八つ裂きにしてやる……!」
爪での斬撃を剣で受け止め、オットーと名乗った男は
ヴィルは黙って様子を見ていたが、私が動いたところで彼も武器を取り出した。
男の主義主張も、少年の罪の重さも、今はどうでもいい。
私はこの男を止めねばならない。……それだけは、間違いのない事実だ。
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