第8話 黄昏に道を示す
妙な騒動から一夜明け、目が覚めたのは昼頃だった。
ヴィルは既に部屋にいない。
おそらくは修道女マリアに呼ばれ、力仕事か何かを手伝いに行ったのだろう。
寝台から降り、肩や腕を動かして様子を伺う。
「こほっ……」
胸の内側に残っていた血を吐き出し、
床に両手をつき
数日伏せっていただけとはいえ、油断はできない。
いつ戦闘が起こっても問題ないよう、身体を整えておかなくては。
出血は多少あったものの、身体の痛みはもうほとんどない。……状況が少しばかり好転したとしても、ここで気を緩めてしまう訳には行かないのだ。
「……っ、47……48……」
負傷のせいか、息が上がるのは早い。
次第に、胸がズキズキと痛みを訴え始める。
だが……この程度で根を上げていては今後に支障が出る。
この程度の痛みは、耐えなくては。
「……ご……じゅう……ッ」
50回を数えたところで、床についた腕を片方、背中側に回す。
胸は少々痛むが、まだ片腕で50回ずつ程度であれば問題なくこなせるはずだ。
……と、扉の開く音が聞こえた。
「あっ、ダメじゃないすか。寝てないと……」
帰ってきたヴィルが、すかさず走り寄ってくる。
「鍛えねばすぐ衰えるだろう」
そう答えたものの、ヴィルは不安げな表情で私の肩に手をかける。
「いやいや、胴体に穴空いたんすよ!?」
「もう塞がった。ヒトだった頃のものと違い、痕もない」
そうだ。……私はもう、ヒトではない。
どれだけ目を背けようが、どれだけ抗おうが、その事実は変えようがない。
「……じゃあ、ちょっと見せて欲しいっす」
ヴィルの真剣な視線が私を射抜く。
……。いや、まさかな。いくらヴィルでもここで妙な下心を出し……かねない気はするが、これは純粋に私の身体を案じているのだろう。……そう信じていいはずだ。
衣服を
「もっと上の方にもあったような……」
……が、ヴィルは更に別の箇所も気になるらしい。
「ま、待て、見せただろう……!」
「隠すと余計に怪しいっす」
こ、これは……本当に、下心ではない……のか……!?
いや、視線は至って
「……ほんとだ」
動揺しているうちに、上半身の衣服を全て脱がされる。
じっくりと凝視され、思わず顔が熱くなった。
「……ッ」
何を、言うべきかがわからない。
気まずい時間だけが流れていく。
「……?」
私の表情を見、ヴィルは不思議そうに首を傾げた。
どうやら、本当に下心はなかったらしい。
「あっ、もしかして、襲われると思ったんすか!?」
「……日頃の行いを振り返ってみろ……」
いや、分かっている。勝手に勘違いしたのは私なのだ。分かってはいるのだが……!
ああ、顔から火が出そうだ。
「ビビらせちまってたらすみません! 身の危険感じたら、遠慮なくボコったり殺したりしてくれていいんで!」
……これは……今までも、薄々感じてきたことだが。
ヴィルは、自らの価値を不当に低く見積っている。
命を投げ出してでも、魂を犠牲にしてでも、私を救うつもりでいるのだ。
「……私に罪を犯させるな、愚か者」
「あれ? 前はとどめを自分が刺すって……」
「…………その、そういうことではないのだ」
「ん?」
ならば、伝えなくてはならない。
私が、おまえに感謝しているということを。
「わ、私は……貴様に、傷付いて欲しくない……」
この想いは、罪深いものだ。
この関係は、赦されざるものだ。
……だが、おまえの与える愛に、私は間違いなく救われている。
「わかりました! 気を付けるっす」
明るい笑顔が、胸に突き刺さる。
あまりにも朗らかな笑顔からは、何か、心を動かされた様子は感じられない。
おそらく、伝わっていないのだろう。
「さては、何一つわかっていないな貴様……」
「へ?」
ヴィルは再び首を傾げ、きょとんと目を丸くした。
「いや、もういい。気にするな」
……わからない。
赦されざるこの現状を受け止め、認める方法も。
胸に渦巻くこの想いを、的確に言葉にする方法も。
私には、わからない。
「とにかく! 身体に負担かかることはダメっすよ」
「もう塞がったと言うに……」
「どうせ近々ここを出るんすから、しっかり休んでてください」
「……だが」
そうこうしているうちに、寝床に押し込められた。
抵抗しようと思えばできるが……
「昨日まで血吐いてたじゃないすか。もう吐かなくなったんすか?」
「ぐ……っ」
そう言われると、返す言葉もない。
「じゃあオレ、ここの周りを見回ってくるんで、大人しくしてて欲しいっす」
「……ああ」
ふと、寝台の上に目をやると、褪せた表紙の本があった。
繰り返し読まれたせいか、装丁も中の
ヴィルが置いていったのだろうか。
「……
本の表紙には、『銀薔薇の聖女』と記されていた。
***
『昔話をいたしましょう。
遠い、遠い昔の物語です。
ある村に、聖女と呼ばれる少女がおりました。
同じ村に、魔女と呼ばれるきょうだいもおりました。
これは、聖女と魔女の物語。
歴史の影に埋もれた、絆のお話でございます。』──
「友人が書いた物語です」
パラパラと頁をめくっていると、修道女マリアに声をかけられた。
どうやら、水を持ってきてくださったらしい。
「……ゾフィ・ベルンハルト殿……いえ……この綴りは『ベルナール』でしょうか? ご友人なのですね」
「ええ、旧知の仲です。ソフィさんはフランス出身の方で、昔、旦那様と共にドイツに移住なさったのです」
修道女マリアは懐かしそうに目を細め、続けた。
「彼女の義兄が、この修道院の出身でした。……もう、何十年と昔の話です」
零れ出したように語られる追想に、黙って耳を傾ける。
「灰色の目の、信心深い子でした。神に祈ったことで、ここに辿り着けたのだとも語っていて……」
そこで、彼女は私の瞳を見た。
……ようやく、腑に落ちた。
なぜ彼女が、見るからに怪しい私たちに手を差し伸べたのか。
「……とある地方領地の文官になった彼は、苦しむ民らのために手を汚しました。けれど、内部粛清を繰り返した彼には貴族の後ろ盾などなく、真っ先に断頭台へと……」
おそらく、彼女は重ねたのだろう。
かつての知人の面影と、私の姿を。
「……なるほど、私を助けてくださった事情がわかりました」
「そうですね。……あの子が処刑されたのは、貴方と同じくらいの歳でした。……いいえ、もう少し上だったような気もしますけれど……なにぶん昔のことですから……」
寂しそうに微笑み、修道女マリアはしばし言葉を詰まらせていた。
数十年前となると、欧州各地で巻き起こった革命の時代だ。
……時代が変わり、体制が変わり、私の祖父と母は伯父と姪でなく親子となり……母方の親族は、ほとんどが死に絶えたと聞く。
我が国における「革命」は、ほぼ失敗に終わったと言われている。……が、20年ほど前まで、
その是非について、私は何も語ることができない。
血を流してでも、犠牲を積み重ねても、彼らは世を変えねばならなかったのだ。
後世に生きる私には、いくら想像しても決して理解しきれぬ立場がそこにはある。
……善悪の裁定など、できるはずがない。
「その本、持って行っても構いませんよ」
「……よろしいのですか?」
「ええ。どうか、ヴィルさんに読み方を教えて差し上げて」
「物語を読む」には、「文字が読める」だけでは難しい。
文章と文章の結びつき、文脈の理解、物語背景の想像……その能力は、長年の蓄積がなければ身につかないものだ。
「……。……大切にさせていただきます」
おそらくは、ヴィルは読書を試みたのだろう。
知らぬことを知らぬと言い、教えを乞うことも惜しまない。
それが、どれほど難しいことか。
……どれほど、勇気のいることか。
「しかし、選んだのがその本とは……」
……と、修道女マリアは何やら微笑ましそうに言う。
「……?
「ふふ。主人公の外見が貴方と少し似ているのです」
……そこまでは読んでいなかった。
「長い銀髪の、聖女と呼ばれた女性の物語です」
「……なるほど」
おそらくは一部の単語が目に付いたのだろうが……何と言うか、わかりやすいな、あいつは……。
「余程、慕っていらっしゃるのでしょうね」
彼女は、私たちの関係にまでは気付いていないのだろう。
気付いていれば、さすがに、このように笑ったりはしまい。
いや、だが、勘の鋭い彼女のことだ。それすら看破した上で……という可能性は……
何を、考えているのだ。
これ以上、何かを求めるなどと……愚かしいにも程がある。
「そんなに思い詰めた顔をなさらないで」
修道女マリアは、困ったように眉をひそめる。
……そこまで、暗い顔をしていたのか。私は。
「見送るのが、心配になってしまうでしょう?」
その言い分で、事情を察した。
おそらく、本来は「そのこと」を伝えにやって来たのだろう。
「そろそろ、
「……まだ、今晩は大丈夫です」
「分かりました。では明日、出立するとしましょう」
妙な輩で幸いだった(?)とはいえ、追手が現れたのは事実だ。
もう充分良くしていただいた。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
「せめて、ゆっくり休んでくださいね」
「お気遣い、感謝いたします」
先行きが、暗闇に閉ざされているのは変わらない。
だが、以前に比べれば、まだ希望が感じられる。
「どうにかなるかもしれない」と。
根拠もなければ、いつ揺らぐかも分からない不安定な希望だ。
……だが、頼りなくとも、光明が差したことに違いはない。
***
寝台に座り、先程の本を再び開く。
文字を追いかけようにも、やけに目が滑って先に進めない。
文章がどうこうではない。……今の私には、「物語を読む」能力が失われているのだ。
文字に焦点が合いにくく、靄がかかったような思考が言葉の認識を阻害する。
自分で思っている以上に、疲弊しているのか……?
「神父様ぁ、身体の方はどうっすかー?」
ヴィルが戻って来たので、そちらに視線を向ける。
「……あ、それ……」
「まだ、貴様に読書は早かろう。教えてやると言いたいところだが、明日には
いつか。
肩を並べて読書ができるような……
そんな、穏やかな時間を過ごせる日が来るのだろうか。
「でもその本、マリアさんの……」
「譲ってくださるとのことだ。後で感謝を伝えておくがいい」
「マジか。じゃあ今度一緒に読みましょ。オレ一人じゃ難しくって……」
頭を掻き、ヴィルは寝台のへりに腰かける。
「……そういや、例の悪魔祓いと会いました」
「な……っ! 怪我はないか!?」
「全然大丈夫っすよ。……それで……」
ヴィルはわずかに表情を曇らせ、言葉を選ぶようにして話し始めた。
「アイツらが神父様を狙うのは、えっと……『聖職者から吸血鬼が出たのを隠したいから』つってました」
……どこかで。
私は、教会の言う「正義」を信じていた節がある。
「隠さなきゃならねぇから、知られる前に……ってことみたいっす。……ひでぇ話っすよね」
だが、現実は違った。
あくまで
「……んで、マルティン……赤毛の方が、『人目に付く場では、派手な行動ができない』って」
「……なるほど。うかつには真偽を判断できないが……真実だとするなら『顔見知りがいる』ことはこちらにとって有利に働く、か……?」
無論、罠の可能性もある。
「敵の事情を知ることが出来た」と喜ぶには早い。
……が、語られた内容に筋が通っているのは間違いなかった。
「オレはどこでも着いてくし、どこに行っても護ります」
「……そうか」
ヴィルは変わらず、私に手を差し伸べてくれる。
閉ざされたカーテンの隙間から、夕暮れの陽が私達を照らす。
顔が熱くなったのを感じるが、きっと、今ならば黄昏が隠してくれるだろう。
「……ありがとう……」
絞り出すようにして、感謝の言葉を告げる。
たくましい腕に、しっかりと抱き締められる。ためらいを振り切り、その背中に手を回した。
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