第6話 されど傷は深く

 修道女マリアは、ヴィルと同じく元は孤児だったのだと本人が語っていた。

 ヴィルが修道院の手伝いをする代わりに、数日滞在させていただくことにはなったが、長く邪魔をするわけにはいかない。

 どうにか態勢を整え、なるべく早く出立しゅったつせねば……


「マリアさんって、すごいっすねぇ。オレが元盗賊ってことも下手すりゃ見抜いてますよ」


 私の口元についた血を拭い、ヴィルは興味深そうに語る。


「……貴様がわかりやすいのだ」

「えっ」


 そうは言ったものの、彼女に人生経験ゆえの鋭さがあるのは間違いない。

 見ず知らずの怪しげな旅人を置いてくださる度量も、多くの経験によってつちかわれたものだろう。


 噂をしていると、ノックの音が部屋の中に響いた。


「ヴィルさん、本を運んでいただいても構いませんか?」


 修道女マリアの声が、扉の向こうから聞こえてくる。


「良いっすよ! 宿代だと思って、キリキリ働きます」

「それはそれは……。たくさんありますので、よろしくお願いしますね」

「んじゃ、行ってきます。……大人しくしといてくださいよ、神父様」


 ヴィルは少しばかり声を低くし、釘を刺してくる。

 すぐに癒えると言ったはずだが……。

 しかし、人間であればまず助からない傷だ。そう考えれば、不安になるのも分からなくはない。


 ……ヴィルはまだ、どこかで私を「人間」だと感じているのかもしれない。



 ***



 幼い頃の、夢を見た。

 目の前の母はいつものように、遠くを見つめて同じ言葉を繰り返す。


「ギロチンの音が聞こえる」


 母が、私達の母でいられる時間は少なかった。

 彼女の心は大半が遠い過去に囚われており、空虚な瞳は、ほとんどが私たちには見えない「何か」を見ていた。


 それでも、母は、時折……本当にごく稀に、優しく、穏やかな微笑みを浮かべて子供達の名を呼んだ。


「ギルベルト」

「コンラート」

「アリッサ」

「エルンスト」


「あなた達は、私の光です」


 祖父の処刑が決まったあの日、私には、母が自死を選んだようには見えなかった。

 ……あの時の母は、自ら何かを選択できる状態だったのだろうか。


「ギロチンの音が聞こえる」


 母の恐怖が、その言葉の意味が、今の私には理解できてしまう。

 彼女は逃げ出そうとしたのだ。自らに迫る、「ギロチンの音」から。


 立っていた足場が跡形もなく崩れ去り、不安定な自我が得体の知れない闇に飲み込まれる。

 苦痛に満ちた記憶が、あらゆる感情を塗り潰していく。


 喉は恐怖に押し潰され、溢れ出した絶望が目を塞ぎ、光を奪う。

 刻みつけられた痛みが手足の感覚を奪い、頭の奥から罵声と嘲笑とが激しく鳴り響く。


 息が。

 息が、できない。


「コンラート」


 司教様の声に、顔を上げる。険しい顔をした司教様が、私を見下ろしている。

 ……嗚呼、もし、もしもだ。


「なぜ、あのまま信仰にじゅんじなかった」


 母も、このような幻に囚われていたのなら、

 こうやって、自らを責める声にさいなまれていたとするならば……


「お前は、罪を犯してまで生き延びたかったのかね?」


 必死に逃げ出そうとしたのも、無理はない。


「……ッ、申し訳ありません。司教様……」


 ひび割れた心を奮い立たせ、幻に向き合った。


「それでも、私は……」


 手のひらに、確かな温もりが伝わる。

 頬に流れるのは、汗か、涙か。


「私は……死にたくなかった……。……私は……ッ、先生あなたにも、他のみなにも、生きていて欲しかった……!!!」




 ***




「……ッ」


 意識が覚醒し、照明の光が目に突き刺さる。


「……司教、様……」


 乱れた呼吸を整えようにも、身体の震えが止まらない。

 冷や汗がたらたらと顎を伝って落ちる。


「……早く……出立せねば……。巻き込むわけには……」


 喉を掻っ切られた修道女イザベルの姿が、頭を撃たれて倒れていた修道女ニーナの姿が脳裏に過ぎる。

 修道女マリアは、得体の知れない存在を迎え入れ、親切にしてくださった。


 だからこそだ。


 断じて、あのような目に合わせてはならない。


「……ッ、ゲホッ、ゴホッ……」


 胸に激しい痛みが走り、思わず咳き込む。

 鮮血が、指の隙間からボタボタと滴り落ちた。


「だ、大丈夫っすか!?」


 声が耳に入り、ようやく手を握られていたことに気付く。

 寝台の脇で、ヴィルが心配そうに私を見つめていた。


「……内側の……傷だ……いずれ、癒える……」


 呼吸をどうにか整え、そう伝える。

 ベッド横に水に浸した布が用意されていたので、使わせてもらった。


 ヴィルは辺りを見回し、扉の方に向かう。

 がちゃり、と、鍵をかける音がした。


「栄養、要りますよね。ちゃっちゃとヤりましょ」

「……ああ……」


 霞がかかったような思考の中、私の本能は、間違いなく彼を欲していた。




「……ッ、お赦しください……」


 を与えられた後も、激しい欲求が治まらない。

 血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。

 ヴィルのたくましい腕に、這うように浮き出た血管から目が離せない。 


「……血、飲みます?」

「……だ、だめだ……さすがに……」


 だが、血をすするということは、ヴィルの生命力を餌にしているのと同じだ。

 飲みすぎるわけにはいかない。


「オレはまだ全然イケます。飲んでくださいよ。大怪我でしょ?」


 ……が、ヴィルは平然と腕を差し出し、私の口元に近づける。

 恐る恐る牙を立てると、滲んだ血の香りが鼻腔びこうをくすぐった。


「ん……ふ……っ、ぅう……」


 本能が求めるまま、舐めとって飲み下す。

 濃厚な血の味に、傷付いた肉体がよろこぶのが嫌でもわかる。


「……っ、神父様」


 ヴィルは悩ましげな吐息と共に、私を呼ぶ。

 まさか、深く牙を立てすぎたのだろうか。


、どうっすか」


 ……。

 確かに、助かると言えば助かるのだが……。

 なんというのか……旺盛おうせいすぎはしないか……?




 ***




「……で、何を焦ってるんすか」


 衣服を整えたヴィルが、私の顔を覗き込む。


「恩人に害が及ぶのは、こたえる。……そう、思っただけだ」


 目線を合わせ、そう答えた。

 吸血のおかげか、身体の痛みも今はほとんどない。


 私は、「そういう存在」なのだ。……だが、ヴィルや修道女マリアはそうではない。

 亡くなった司教様たちのように、「多少の傷」でさえも命取りになる。


「それ、オレも同じですよ。……オレも、神父様が傷ついたり苦しむのはキツいっす」


 ヴィルは私に視線を合わせ、はっきりとした口調で語る。


「……次無茶なことしたら、マジで怒りますんで」


 真摯な言葉が放たれた。

 ヴィルは……辛い旅に自ら同行し、身体を張って私の助けになろうと努めている。

 その理由を、私はよく知っている。……彼は、私を愛しているのだ。

 それを罪だとも思わず、非常識だとも考えず、ただただ、真っ直ぐに……


「……済まない」


 項垂うなだれる他なかった。

 ヴィルは、一度「私の死」を目の当たりにした。

 私が過去の傷に苦しんでいるように、おそらくは彼も、見えない傷を抱えている。

 ヴィルは頬を緩め、私を軽く抱き締めた。慈しむような抱擁に、安堵してしまう。

 ……この感情も、やはり、罪なのだろうか。


「そういや、神父様の親父さん? と関係あるんすか、ここ」


 そう問われたので、頷いておく。


「……私の父は貿易商だった。ミヒャルケ商会は、取引相手の一つで……確か、鉱山や鉄道事業で儲けていたのだったか。慈善活動も盛んに行っていたはずだ」

「えっ、神父様って商家の生まれだったんすか。てっきり貴族だと……」


 そういえば、私の生い立ちについては、あまり話したことがなかったように思う。


「…………確かに、母方は没落貴族だったな」

「うっわ、エッチな響き……」

「…………」

「じ、冗談っすよ! 睨まねぇでください!」


 時折、反応がこちらの理解を越えてくるのはどうにかならないものか。

 そもそも、その性欲はどこから湧いてくるのだ。


「すんませんって! 謝りますからぁ」

「……ケダモノが」


 などと戯れていると、ノックの音が響いた。

 起き上がろうとしたが、手で制される。

 大人しく対応をヴィルに任せ、再び寝台に身を横たえた。


「……その、悪魔祓いエクソシストの方が……」


 不穏な単語が聞こえ、身体がこわばる。

 私の体質上、見つかりやすいとは聞いていたが……。


「……戦わなきゃなら、外でやるっす」

「い、いえ、その……」


 殺気をまとい始めたヴィルに対し、修道女マリアは歯切れの悪い様子で続ける。


「その……『吸血鬼に会わせて欲しい。美人なら僕の妻に加えるから』とかなんとか……」


 は?


「『男性でも大丈夫。大事なのは顔立ちだよ』と……」


 ……は?


「神父様ぁ、ちょっと待っててくださいね。ぶっ殺して来ますんで!」


 どういうことなのかさっぱり分からないが、ヴィルが更に殺気立ったのだけは理解できた。

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