第33話 親愛なるピエールさん

11月に入ったうららかな午後。私はピエールさんの自宅に伺った。ローリーと、昼寝をしたいと渋った黒猫を伴って。ピエールさんは祈りの最中で、私たちはそれを待つ間ピエールさんの後について祈りを捧げた。

私は、この夏のグリーン家との出会い、そしてそれに伴う大きな経験に感謝を捧げた。ローリーは仕事の繁栄と夫婦揃っての健康と円満を祈ってくれているのかも知れない。ピエールさんを訪れた時にはいつもそうしているように。黒猫は気乗りがしない様子だったが、何事かを思い出したように素直に祈りを捧げだした。


私の脳裏にロイ・カーチスの姿が浮かび上がってきた。ロイは静かに佇んでいた。何事かを考えているように。そして、トム・グリーンの姿が現れた。トムは物憂げな表情だった。そのトムの視線の先には弟のジョージがいるようだった。そして、ハリス・ロンドが現れた。まるで今日のようなうららかな日差しのなかで、ハリスはやんちゃそうな笑みをたたえ、美味しそうに煙草をふかしていた。まるで、ロイやトムを見守るように。


「お待たせしました、どうぞこちらへ」

というピエールさんの声で、私は現実に引き戻された。

ゆったりとした応接椅子が並ぶ部屋に案内された。香を焚いているのだろう、心の喧騒を静めるような香りが鼻先を流れた。大きな窓の向こうには、親日家のピエールさんが作らせたという見事な日本庭園が広がっている。悠然と存在感をあらわす大きな石と大木の根元に息づいている苔むした緑たち。季節ごとに花咲く木々たち。そこから飛び石に誘われ、庭を横切る小さなせせらぎへと辿りつく。その先には池があり色鮮やかな鯉たちが優雅に泳いでいた。

私はこの庭が好きだ。香に心を洗われ、この庭を眺めていると、時の流れが二倍にも三倍にもゆったりと流れているような気がする。そして、その時間の優雅さと静寂に、いつもは聞き逃してしまっている大切なものを聞く気がするのだ。そして何より、私が庭に飽くまで放っておいてくれるピエールさんならではの心の機微が好きだ。

「リンダさん、随分とお久しぶりですね。お元気でしたか」

と、ピエールさんが湯呑み茶碗に濃い緑色をした茶を淹れてくれた。

「はい、ちょっとバタバタとしておりましたから、リフレッシュのために今日はローリーだけでなく、友人のキッシュまで連れ立ってお邪魔しました」

と、私は黒猫キッシュを紹介した。ピエールさんは、黒猫とローリーに優しく微笑んで軽く会釈をした。黒猫は少し緊張しているようだった。

私はピエールさんと暫し談笑し、そして

「ピエールさん、もし、周りの誰に言っても信じてもらえないような、通常ならあり得ない不思議な体験をしたとしたら、その時こそ私たちはどうしたらよいのでしょうか?どう受け止めればよいのでしょうか?それは罪ゆえの体験でしょうか?」

と、今日訪れた目的の言葉を口にした。

ピエールさんは静かに頷いて、そして

「人生には三つの坂があります。一つ目は上り坂。二つ目は下り坂。三つ目は、まさか、の坂です。リンダさんは今、人生の“まさか”の坂を体験しているのですね」

と、言った。

「はい、その“まさか”です」

と、私が答えた。

ピエールさんは暫く庭を眺めたあと、ゆっくりと言った。

「何が起ころうとも、真実の姿は変わりません。そして、全てが真実にむかわせるために起こっているのです」

と。

「全てが真実に向かわせるため……」

と、私は呟いて

「有り難うございます。よく考えてみます」

と、言った。

「もしよかったら庭に出てみませんか?」

とのピエールさんの好意に、ローリーと黒猫は庭に出て行った。黒猫はまっ先に池に駆け寄り、ピエールさんから手の平にのせてもらった鯉の餌をばらまいていた。ローリーは大きな石の模様を眺めたり、大木の根元の苔を興味深げに観察していた。

私は、香を鼻に楽しみながら心安らぐ庭を眺めた。ピエールさんが小まめに手入れをしている様が伝わってくるようだ。庭の隅々まで息づいている、といった雰囲気が漂っている。そう、息づいているのだ。忘れ去られずに生きている。隅々まで生きているのだ、活き活きと。私はそう感じた。私は、この庭が好きだ、とあらためて思った。

素晴らしい庭と鯉の餌やりを満喫した黒猫が、ピエールさんにもう一度一緒に祈ってもらいたいと申し出た。ピエールさんは快諾してくれた。私たちは全員で祈った。

帰り際、黒猫がピエールさんに訊いた。

「人は死んだらどこに行くのでしょうか?」と。

ピエールさんは答えた。

「私も死んだことがありませんからわかりませんが、おそらく魂の世界じゃないでしょうか。そうきいたことがあります」と。

私たちはピエールさんに感謝を述べて、ピエールさん宅をあとにした。

黒猫は、何度も振りむいてピエールさんに手を振った。

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