おまけエピソード「白の箱」後編
ブロッサム暫定政府は、治安出動した二人への礼に国で唯一のホテルにいい部屋をとってくれた。
一泊した翌朝、律儀にもネメシャが挨拶に出向いてくれた。
「殿下がこの国の治安機構を担ってくだされば心強かったのですが。あなたに倣って修練します」
ネメシャはグレイスとの別れを惜しんだ。昨日もホテルのロビーでグレイスと話し込んでいるのを見た。
その時、ネメシャはグレイスにブロッサムの臨時警察に参加してほしいと話していた。それに対し、グレイスは以下のような言葉を返していた。
「私はメテオライトのカウンター。剣を捧げる対象は一人です。申し訳ありません」
ずいぶん大仰な返事に思えた。しかし、そのくらいのことを言わなければ断れない申し出だったのだろう。
古風な言葉を使う二人が会話しているとなんだか妙に可愛らしかった。グレイスはブロッサム王家の血統で、ネメシャはかつてそれに仕えたクロス家の末裔だ。ネメシャとしては、復興のために古き絆に頼りたかったのかもしれない。
柩はグレイスを少し待たせ、ネメシャと話をしてみることにした。伝統に頼りたいのならば、フロリダ支部のダリアを説得して呼び戻そうかと思ったのだ。
それを言うと、ネメシャは「あのろくでなしはいらないです」ときっぱりと断ってきた。ひどい言い方だ。一体ダリアのどのろくでなしの部分だろう。
「母は合衆国の人で、私を産んですぐ失踪したのです。不貞の子ということで親族をたらい回しにされました。本家で年長のダリアが面倒を見てくれるはずだったのですが、彼女は当時付き合っていた女と別荘に行っていて顔を見せませんでした」
「……それは針の筵だったろうなぁ」
説明されたダリアへの恨みの理由は納得できるものだった。
隠し子など嫌うであろう格式ある本家でどんな扱いを受けたか、想像に難くない。ダリアは軽く見ていたのだろうが、ネメシャを見捨てた形になったわけだ。
「結局本家を出され、私は遠縁のある家にお世話になっていました。猟師の夫と車椅子の妻のいる小さな庶民の家で……そこではよくしてもらいました」
クロス家の庭師が見かねて知人に相談し、ネメシャを引き取らせたそうだ。そこでやっと、ネメシャはまともな家庭というものを知った。
「二つ年上の一人娘がいて、とても優しいお姉さんでした。遠縁とはいえ、ダリアを除けば今は唯一の肉親ですね」
「え……?」
猟師の父と足の悪い母、そして優しい一人娘。そんな家族構成を、柩は目にしたことがある。
失踪した母が合衆国で見つかり、ネメシャはその家を数年で出ることになってしまった。それからの暮らしはまあまあだったそうだ。
「あの家で経験したこと――泣いている私にクッキーを分け与え、額を寄せて頭を撫でてくれた優しさを忘れたことはありません」
クッキーをくれた。そういえば、幼いグレイスがそんな行動をする子だったと柩は知っている。
ネメシャがその家にいたのはかなり昔のことで、事情が事情で本当の名も明かしていなかったとか。グレイスはネメシャのことがわからなかったのだろうか。
「言わなくていいの?」
「私だと言えば決意を揺らがせそうですから、今はこれでいいです」
ネメシャは言い、少しだけ微笑んだ。
合衆国でもグレイスはネメシャのことを仕事の合間に探してくれていたらしい。ネメシャがそれを知ったのはブロッサムに来てからだった。帰還民をとりまとめているケイトという人から事情を聞き、ずっと気にかけられていたことを知ったという。
柩にはそんなことは一言も言っていなかった。グレイスは、超存在の力を私的に借りることをよしとしなかったのだろう。
「気高く優しい。あの人は昔と何も変わっていなかった。それが嬉しかったです」
ネメシャが最後に言った一言は、柩も全くの同感であった。
ホテルを出てまだ少し時間があったため、午前中はレリアに挨拶に行った。彼女は既に庁舎にはおらず、今日も畑に逃げていた。
レリアの畑はかなり巨大になっていた。作物の種類が増え、品質も高いようだった。ブロッサムでの食生活は悪くないものになりそうだ。
「よく来たな」
首にタオルをかけ腕に野菜を抱えたレリアが出迎えてくれた。これがあのノストークの傭兵だと言っても誰も信じないだろう。
「それは?」
「ブロッサムラディッシュだ。まだ小規模だが栽培に成功した」
レリアが見せてくれたのは日本のアオクビダイコンに似た野菜だった。皮が赤紫色をしているところは欧州の品種に近い。
「ちょうどいい。収穫を手伝っていけ」
レリアは有無を言わさず、そのラディッシュの畑に柩とグレイスを案内した。
小規模と言いつつ、家庭菜園よりはずっと広かった。もう出荷して商売にできそうである。
「ここにあるコンバインにはまだ根菜類を収穫する機能がないので、手伝いが必要だ」
伝説の傭兵の口から農具の名前がでてくるととんでもない違和感だ。すっかり野菜の生産にのめりこんでいる。
「じゃあやろっか」
こっちも超存在とカウンターだが、なぜこんなことをしているのか考えるのはやめておく。グレイスは相変わらずの無表情だったが、畑の野菜に目をやっている。故郷で作られたものを収穫するのは悪くない経験のはずだ。
立派なブロッサムラディッシュを土から引き抜いては、木製の台車の上に並べていく。柩もグレイスも疲れとは無縁な体をしているため、こういった作業にはうってつけだ。
「ほらグレイス、これ大きい……よ?」
と、思ったのが間違いだった。
隣に目をやると、引き抜いたブロッサムラディッシュを握力で砕いてしまったグレイスがいた。
繊細な力の制御がまだできないのだろう。卵のように粉々になった野菜がグレイスの手の中にある。
グレイスは、何も言わず無表情のままじっと柩を見上げてきた。
「そんな顔をされても……」
文句があるのかと睨んでいるようにも見えるし、しょんぼりして困っているようにも見える。無口で感情が読めず、メリッサかキャシーを相手にしているような気分だ。
それにしても、加減はしているだろうにずいぶんな怪力だ。箱の先代の持ち主である彼方の影響が残っているわけではないと思いたい。超存在グレイスは技巧に寄りすぎと昨日は評価したものの、もしかすると違うのだろうか。
「気にするな。あとで料理にする」
生産者であるレリアがそうフォローしてくれた。結局、残りはレリアと柩で収穫した。グレイスはその間、作業するこちらを遠くから見ているだけだった。
「いつでも帰って来い。ブロッサムはお前を歓迎する」
別れ際にレリアはそう言い、グレイスと握手を交わした。少し離れて見ていた柩にもレリアは視線をくれ、なにか意味深に目を細めていた。
その目は「お前もたまには来い」という意味なのか、「もう来るな」という意味なのか。よくわからなかった。「また収穫を手伝え」の可能性もある。
見学を終えると昼ごろで、ちょうどいい時間だった。レリアに別れを告げて、近くの海岸の合流地点に向かった。
合流地点はD機関で管理する小さな無人の港であり、飛行艇が迎えに来る予定になっていた。
「ちょっと早かったかな?」
のどかな砂浜だった。柩とグレイスはなんとなくそこを散歩した。
「昨日の話、覚えていますか」
「ん?」
「だっこ、は嫌かの話です」
砂浜の貝殻をいじっていると、背後に立ったグレイスが話しかけてきた。
だっこの話。そういえばしたような覚えがある。
「あなたはどうですか。私に懐抱されるのは嫌でしょうか」
グレイスは、真面目な顔をしてそんな事を聞いてきた。
なんだか距離が近い気がする。覗き込まれ、銀色に光を反射する双眸が近くに見える。
言葉通りの意味なのか、それとも比喩を含んでいるのだろうか。
「頼りにしているよ。嫌だから心配するわけじゃない」
茶化す場合ではないと思い、柩はそう返した。
いろいろあって昨日は心配しすぎたかもしれない。グレイスは頼りになる。信頼していないわけではない。
グレイスが理不尽に傷つけられたり弄ばれる想像をしてしまったのは自身の過去の記憶に固執しすぎたからだ。箱の影響を受けているグレイスのことを言えない。
「それをもう少しうまく扱えるよう、特訓してみよう」
それが柩の今の考えであった。箱を無理やり取ろうとは思っていない。
柩はあらゆる悪人を見てきたので、それを模して犯人役になれば様々な状況を作り出せる。安全な仮想空間で凶悪事件を再現すれば、あらゆる状況や手痛い失敗を事前に体験し対策を学べるだろう。
敗北が怖いなら鍛え抜けばいい。力で解決できる問題はある意味で最も簡単なのだ。
そして、本当に危険な時は全力で助けにいく。不器用なグレイスに不足する部分は柩が補ってやればいいのだ。
「いえ」
柩が反省していると、グレイスがきっぱり違うと言った。
「私が聞いているのは、今ここで抱擁をされたいかです」
かすかに呆れたような顔を見せ、グレイスはそんなことを口にしていた。
「なんで……?」
そんなことをされる理由が全くわからず、柩は聞き返した。
「今回の労苦への応報を、誰もあなたに返さない。金銭や知恵はあなたには不要でしょう。私が与えられるものはありますか?」
「何の話になっているの?」
危険な話になっている気がする。柩はたじろいだ。
「洞窟で辛そうなあなたを見ていて感じました。欲求のはけ口は必要です。私はあなたの前からいなくなりませんから、安心して使ってください」
「使うって……言われても」
確かに今回の仕事はきつい部類だった。過去の旅の苦しみを総決算したような気分だ。
それを理解できるのはグレイスもまた超存在だからだろう。だからといって、この子は一体何を言っているのだろうか。
「人にはああいうことを言うのに、自分は答えないのですね」
答えない柩に対し、グレイスはどこか軽蔑と呆れを含んだような目つきをした。
昨日のしかえしのつもりなのか、それとも本気なのか。わからない。天耀箱をつけているとわかりにくいが、つけていなくてもわからない質問かもしれない。
答えを間違えるとまずい気がする。怒られるような気がする。グレイスの真顔から圧を感じ、柩は少し後ずさった。
「おーい! ひつぎ~! グレイス様ぁ~!」
そこに、どこか間の抜けた呼び声がかかった。
遠くから手を振って駆けてくる誰かがいた。桃色がかった金髪に赤い縁の眼鏡。特徴的で、見間違えることのない姿であった。
地球修復のためともに活動していた超存在ガイア、イルであった。一緒に合衆国に戻るため、この場所で合流することになっていた人物であった。
イルの様子はいつも通りだった。肉体は魔土から作ったかりそめのものだが、肌つやはよく健康そうに見えた。
ガイアの役目は今回の計画の全体を調整することであり、カナレイカの地脈を利用していた。過酷な仕事だったはずだ。しかし彼女は充実して見えて、柩は少し安心した。
「こういったことでは、
イルはそう話す。今までの活動とは、宇宙にガイアの光をもたらす活動のことだろう。
人類の罪をイルが代わりに背負う。柩の旅に負けない過酷さを経験してきた彼女にとって、純粋な力の行使である今回の仕事はやりがいのあるものだったのかもしれない。
「お疲れ様、イル」
「……ええ、あなたも」
柩とイルは、超存在の友として握手を交わした。
イルもここで飛行艇に乗る。局が保有する例の乗り物だ。イルはまだあれにちゃんと乗ったことがないらしく、興味があるそうだ。
「イル」
話していると、柩の後ろからグレイスもイルに声をかけた。
「ありがとうございます。私たちの世界を救ってくれたこと、衷心より礼を申し上げます」
グレイスは固い表現を使いつつ、イルをまっすぐ見て言った。
「……ただ、この世界が好きなだけですよ」
照れくさそうにイルが言う様子を見て、柩は少し笑みを浮かべた。
「グレイス様、まだその箱を使っているのですね?」
イルはグレイスの胸あたりに視線を送っている。彼女もまた超存在なので、天耀箱の波動を感じることができるのだろう。
「はい。すぐに外せるものではありませんから」
「……痛みはありませんか?」
相変わらず淡々と話すグレイスに、イルは心配そうな声を出している。同じ心配をさんざんした柩としてはイルの側に少し同情してしまう。
「ありません」
「そうですか。よかった」
イルは呪いを受けていて、超存在であることに痛みを感じている。グレイスにもそれがないか気にかけたのだろう。
その痛みを与えるもの、荊棘。強制的に罪を焼き払うあの力をもってしても、様々な星で人類が完全な平和を獲得するのにはいつも長い時間がかかったという。
グレイスは彼方の跡を継ぐ可能性がある。将来メテオの使命にグレイスが関わったら、きっと請われるままに箱をつけてその世界のために尽くすはずだ。
荊棘でない方法での救済。何百年、何千年とどこかの惑星に滞在し、無慈悲な法の番人として戦い続けるグレイスを想像する。
その時、痛みはあるのだろうか。きっとあるだろう。あったとしてもグレイスは気にかけない。そこが厄介なところだ。
もう無理に止めないと先ほど決めた。とはいえ、もし何かあればイルには味方になってもらいたい。イルにはその苦しみが理解できるはずだから。
「イルこそ、体調はどうですか? 情報処理の額はあなたが最も多かったはずです」
言って、グレイスはぐっとイルに近づいた。
「わ、私はその……健康、です……」
顔を近づけられ、イルはとても動揺していた。グレイスは何も気にした様子はない。
「……」
グレイスはじっとイルを見ている。ここまでの無言は普段のグレイスにはない。
「瞳を見せてください」
「へぇ!? ひ、瞳って」
相手の了承も得ず、グレイスはイルの瞳をじっと見た。
手甲がついた両手で相手の頬を包み、覗き込んでいる。瞳の反応から調子を見るためだろう。しかし、そんなことすればイルの瞳は激しく揺れる。
当然だろう。柩はため息をついた。あらぬ体調不良を疑われなければいいのだが。
「ああ、すみませんでした」
しかし、グレイスはそこですっと引いて見せた。
「少し近かったですね。緊張しましたか?」
一歩引き、グレイスは波紋のない水面のような澄んで平たい声で言った。
「え……」
グレイスは相変わらず真顔だが、これはいつもの鈍感ではない。天耀箱で視野が広がったせいか、イルの動揺の理由を把握しているのか。
「な」
心中を見透かされ、イルの顔が真っ赤になっていく。
ぱん、と破裂音を出してイルの肉体が粉々に砕けた。魔土を維持できなくなって四散し、中から星鏡が出てきて砂浜に転がった。
「イル、イル! ああ同志よ……こんな姿を晒して」
『ひ……つぎ……あとのことは……未編集の素材……よろしく』
手に取った星鏡がぶるぶると痙攣している。色は虹色に変わり、光る粘液状に凝固したGLDがどんどん漏れ出てくる。
さっきのグレイスの言葉、ほんの少しではあるが妙な艶があった。もしかしてイルをからかったのだろうか。体躯を拡張したことで戦い方が少し艶かしくなったと前に言ったが、戦っていない時もそうだと気付く。
全体の動きが少ししっとりし、立ち姿や腰つきにも妙な色気を感じるようになった。同様だったはずの灰燼剣の時には感じず、あの時はおそらく剣の持ち主である析を模倣していたからだ。
今は違う。レリアやダリアといった、同郷で身長が近い人の振る舞いをコピーしていると見える。
立ち姿が似ているのだ。仕草と言動に妙な色気を感じるのは特にダリアの影響ではないか。ネメシャには口がさけても言えない。
「おかしな人です」
イルの様子を見て、グレイスが不思議そうに言う。おかしいのはそっちだと言いたい。イルの反応を分析してからかったのなら、なぜこの反応は予想できていないのだ。こういう所だけは元通りだ。
イルはその後、砂浜にGLDを混ぜてなんとか肉体を再生成した。足元はおぼつかず、素材とした砂に混ざっていた貝殻が顔に刺さっていた。
「危険すぎます、あのグレイス様は」
貝殻を引き抜きながらイルが言った。見開かれた目と横に広がった口からはまだ固定化できていない砂が涙と唾液のごとく激しく流れていた。魔土に比べ、さらさらした砂は体を作るのにあまり向かないようだ。
「私の幼馴染にさらに近づいたといいますか。あれを世にはなってはいけません」
イルの言う通りである。これこそ魔性の箱のなせる技だ。表情こそいつもの鉄面皮だが、今日のグレイスは妙に距離が近い。
どんな言動をするか予想がつかない。しばらくこのままでいいかと軽く考えた昨日の自分を悔いた。
「かたきは取るよ。任せてくれ」
このままではいけない。気は進まないが、ここはグレイス用に用意していた最終兵器を出すしかない。
柩はクラスターコアの専門家だ。もしグレイスが箱の影響を受けて外すことを拒んだ場合のことは、当然考えていた。
使いたくないと思っていた。だが散っていったイルのため、これから散るかもしれない多くの女性たちのためである。
「
柩は自らに与えられた管理能力を呼び出し、次元の狭間に穴を開けた。
そして、そこに収納していた白いアタッシュケースを取り出した。そのケースの中にあるものこそ、この仕事が始まる前に準備しておいた武器である。
「グレイス。もう十分だろう」
やはりグレイスをこのまま調査局に返すことはできない。なんとしても箱を取り外し、安全な存在にしてから人間たちの世界に返却しなくては。
グレイスは黙っている。柩が持つケースをじっと見ているだけだ。
「それは?」
イルが疑問を口にした。柩はそれに答えるようにまた次元の狭間から道具を取り出し、砂浜に設置した。
折りたたみ式のテーブルと椅子。テーブルの上にケースを置き、タッチパネルで暗証番号を入力して解錠した。
「……」
グレイスが少し注目している。なぜなら、そこには彼女の目を引くものが入っていたからだ。
堅牢に作られたケースの中、あるものがいくつも並んで詰まっていた。
「これは時間を停滞させて内容物を保存するケース。意味がわかるね」
それは、時間停止によって保存されていた焼きたてのパンであった。
「あのう柩、これはどういう?」
イルにはまだわかっていないようだ。この兵器の威力が。
「私たちは何ヶ月も食事をしてなくてね。迎えも来ないし、ここで昼食をとらせてもらう」
柩は言って座った。イルも座り、グレイスもつられるように柩の向かい側に着席した。
「おいしそうですね。これはあなたが手作りしたんですか?」
イルが聞いてくる。その通りだ。これは、柩が丹念に生地を仕込み窯で焼いたものである。
「諸芸に明るいとは知っていましたが、このような才をお持ちとは思いませんでした」
グレイスは言った。きっと、一目でこのパンの完成度を感じとってくれたのだろう。
「しかしだね、グレイスは箱を入れるために身体をいじりすぎた。食事などもってのほかだから、今はお茶だけにしたまえ」
柩はグレイスの前にティーカップを置き、温かい紅茶を注いだ。
「……ありがとうございます」
グレイスが言う。箱のせいで反応が薄いとはいえ、少し困惑しているように見える。
箱の影響があっても、真面目やちょっと怒りっぽいなど、グレイスが持つ基本的な性格は変わらない。だが、その振れ幅はすごくひかえめだ。怒りも悲しみも相対的に小さく感じられるはずだ。
では、本来ある感情を最大限に引き出した場合はどこまでの態度を見せるのか。
感情を薄める箱の特性はメテオの中では異端だが、人間性が完全に消失するわけではない。判断速度の向上は、かえって見た目の特徴を加速させることさえある。
彼方にはその現象が起きていたし、グレイスの場合も怒りっぽくなった部分があると感じる。今回はそれを意図的に引き出そうという作戦だ。
では、一体何ならグレイスの感情を引き出せるのか。
グレイスは教養こそ豊富だが、あまり趣味がなく欲を見せる人ではない。しかし一つだけ例外がある。
以前、調査局の報道官を任せた時にSNSのアカウントの管理を委ねたことがある。今ほどではないが情報管理に適したチューニングをしていた時だ。その時グレイスは事務的なポストや時々の質問回答のみに終始しており、世間からは人工知能による運営が疑われたほどだった。
SNSにつきものの炎上とは到底無縁に思えた。しかし、一点だけ人間らしさがあった。
無味乾燥な公式アカウントが他者のポストに「いいね」をつけた一覧に、おいしそうなパン屋の情報だけがずらっと並んでいたのだ。それを誰かが発見した時、冷たいだけと思われていた調査局の報道官の素顔が世間に広く知られることになった。
焼いた小麦粉。それがおそらく唯一、融通がきかず職務に忠実すぎる彼女の胸を貫通するかもしれない弾丸だ。
「まずはこのカンパーニュから。いい香りだよ」
丸い形をしたパンを手に取る。熱がこもって柔らかく、割ってみると少し粘りのある生地が引き裂けていく。口にいれると塩気と甘さのバランスが絶妙で、ふんわりと舌に溶けていく。
いい味だ。このために、レリアからブロッサムでとれた最高級の小麦を融通してもらったのだ。少量しか生産されない貴重なもので、よそでは絶対に手に入らない。
そう、これはレリアと相談して用意していた一手。残酷なので使いたくなかった方法である。
「……」
対面にいるグレイスは黙ってじっとこちらを見ている。表情の変化は見られない。
行儀のいい彼女のこと、手を出すことはなく視線を注いでくるだけである。
「次はバゲットだ。これには最高のバターをつけていただこう。んむ……」
外側はかりかり、中はふんわりしたバゲット。焼き立てのパンの熱で溶けたバターが染み込み、濃厚な味わいが口の中に広がる。
「……」
グレイスは依然として黙っている。まだ小手調べだ。
「ごくり」
隣にいたイルが生唾を飲み込んだ。とりたててパンだけ好きではない彼女にさえ魅力的に見えたようである。
「食べる?」
「い、いいんですか」
「いいよ。きみは別に」
パンは全て二人前。それも計算のうちだ。イルがここにいるのは偶然だが、とても都合がいい。
「……何千年も生きてきて、様々な職人に出会ってきました。しかしその中でも……これは」
イルは満足そうにしていた。それはそうだ。柩の経験値は超存在として最長の部類。できないことはない。グレイスが通うパン屋にもひけをとらない自信がある。
グレイスはまだ、棒でも入れているかのようにまっすぐな背筋でおすわりしている。内心で何を思うのだろう。もう意図に気づいただろうか。
残酷なことをしている。だがもしグレイスが昨日の時点で箱を引き渡してくれていれば、今頃は食事ができる程度に回復していたはずなのだ。
それはグレイスも理解しているはずだ。箱に固執する意味を考え直してくれることを期待する。
それからも、いくつかのパンを見せびらかしつつ食べていった。
ピザソース入りのミートパイ、ツナやソーセージを挟んだティンブレッド、揚げたての白身魚のフライを挟んだミッシュブロート。
イルは「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝罪を連呼しながらも、夢中になってそれらのパンを口に運んでいた。
おいしそうに食べるものだ。動画に撮ってあげたくなるほどに。仕事が忙しかったのはイルも同じはずで、美味しい食べ物には飢えていたのかもしれない。
パンはみるみるうちに減っていった。その間、グレイスは一言も発することがなかった。
無反応が逆に少し怖くなるほどだったが、怒っているようには見えなかった。手を出したり、睨んできたりすることはない。
「……」
変わったことといえば、最初に比べてほんの少しだけ目が細くなったことだろうか。注意していないと気づかない程度の変化である。
パンはついに、最後の一種類になった。
「最後は甘いのが鉄板だよね~。チョコデニッシュだよ」
六角形のデニッシュだ。生地が湿るほどたっぷりのバターと適量のココアパウダーを練り込み、表面にチョコチップを散りばめてザラメで固めた。
それを見せた時、一瞬だけグレイスの肩が動いたように見えた。
これはグレイスが一番好きなパンの、それも特に好みにあわせて作ったものである。これまでの付き合いで趣味はお見通しだ。どのパン屋にも負けないくらい美味しく作れたはずだ。
「ちょうど二つある。イルにも一つあげよう」
「わぁ、ありがとうございます」
このパンを前にしてさえグレイスは態度を変えない。箱のせいであったとしても忍耐強いことである。
これほどわざとらしくして、さすがにもう意図はわかったはずだ。きっと内心では揺れているだろう。今夜にでも箱を外すことを了承してくれることを願う。
「いただきま――」
デニッシュを口に運ぼうとした瞬間、それは起きた。
身動きがとれなかった。まるで金縛りにでもあったように腕が動かず、指先さえも動かせなかった。
「――っ……!」
眼球だけでなんとか隣に視線をやると、イルもまた柩と同じような姿勢で止まっていた。
「……」
グレイスは依然動かない。表情も最初と変わっていない。
しかし異変がある。視界のあちこちの砂浜の上、このテーブルを囲むように楔のような形をした漆黒の影がいくつも突き刺さっていた。
黒いカード。昨日犯人を捕まえるのに使われたのと同じもの。それらが墓標のごとく周囲に点在し、強い因果干渉の波動を発している。
黒耀盾と似た力、それに重力干渉も織り交ぜている。昨日も見せた、グレイスの独自の技のようだ。強い力で柩とイルの動きを束縛し、まるで見えない鋼鉄の糸で全身を縛ったかのように封じている。
グレイスの胸、そこにある箱から鈴のような作動音が聞こえる。銀色の瞳からわずかに白い光が発されている。彼女の前に置かれた手つかずの紅茶のカップがカタカタと震え、中の液体に波紋が広がっている。
昨日から進歩している。箱を完璧に使いこなし、超存在二人を同時に拘束してみせた。
そんな事に関心している場合ではないのだが。
「……」
グレイスはまだじっとこちらを見ている。そして、やはり何も言わない。
しかしわかる。グレイスに出会ってから今日までの間で、一番強い怒りを向けられているのだと。
「……悪かった……このデニッシュは……ケースにしまう。今度、ゆっくり食べるためにね?」
言いながら柩、そしてイルは手に持ったデニッシュをケースへとゆっくり戻していった。
まるで、警官に銃を向けられた犯人が武器を捨てる時のように。
束縛を解かれてからしばらく、グレイスは一言も口を聞いてくれなかった。さっきのデニッシュをお詫びとしてケースごと引き渡したところ、グレイスは黙ってそれをいかつい手甲の両手で受け取った。
「悪かったって……やりすぎた」
柩は謝った。まさかグレイスがここまで怒るとは。
「後で抱きしめてください」
グレイスはそっぽを向いたまま、やはり平坦な声でそうつぶやいた。
日が少し傾いていた。迎えはそろそろ来るとのことだ。予定を過ぎているが、まだ待ってもいい気分であった。
砂浜を歩くグレイスの背中に追いつき、柩は両手を広げて覆いかぶさった。
(おまけエピソード「白の箱」 おわり)
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