グレイス編 3

 少女の強い力に抵抗できず、グレイスは動くことができなかった。

 刃向かえないとわかった瞬間、グレイスの全身が強張った。消滅したケース、腐食したビニール袋のことが頭に浮かぶ。もしかして自分は、このまま得体の知れない何かに喰われてしまうのか?

 少女の顔が近づき、射竦めるようにグレイスを見ている。グレイスは覚悟を決め、思わず目を閉じた。

 しかし、その次に待っていた感触は痛みではなかった。

 体が圧迫される感触がした。少女はそのまま、グレイスを強めに抱擁したのだ。人間らしいぬくもりがあり、強い腕の力にグレイスの背筋がしびれる。

 グレイスの目の奥にチカチカと光が瞬くような感覚が襲う。学生時代に後輩の女の子から告白された事もあったが、その時は手を握るところまでもいかなかった。突然の抱擁は、この年齢までそういう事と無縁だったグレイスには刺激が強かった。

「伏せて」

「え」

 そのままスーツの胸ぐらを捕まれ、グレイスは硬いタイルに叩きつけられた。何だ、抱擁の次は何をするつもりなんだ。困惑するグレイスの耳に、床との衝突以外の音が聞こえてきた。

 銃声……!

 ガラス窓を破るような音。連続で発砲音が聞こえる。音からして短機関銃だろうか。何者かが施設内に侵入してくる気配だ。それも、このホールの中である。

 少女の体がどき、グレイスは自由になる。辛うじて握ったまま落とさずにいた拳銃の感触を確かめながら、グレイスは伏せた姿勢から慎重に周囲を警戒した。銃声のあった方向からはテレフォンセンターのデスクで隠れていてこの場所は見えない。とっさに伏せていなければ、向こうから発見されていたかもしれない。

「(相手は何人……?)」

 デスクごしに侵入者の姿を察知し、グレイスは中腰になって移動を始める。装備や服装などははっきり見えないが、武装した兵士のような動きに見えた。

 人数は一人のようだ。全体の雰囲気から、あのビルの侵入者の気配に近いようにも思えた。仲間か、同一犯かもしれない。

 どうやってここを突き止めたのだろう。いろいろと混乱しているが、今度は本当の侵入者なのだと頭を切り替える。

 パロットにコールをかける。出ない。眠りが深いのだろう。ダリアにも連絡するが、同じく出ない。

 物音をたてたつもりはなかったが、侵入者がグレイスの存在を察し、こちらへ注意を向けたような気配がした。

 グレイスは少女の手を引いてすぐその場から飛び去り、コンクリートの柱へと移動する。一瞬遅れて暗闇に銃口火炎マズルフラッシュが咲き、新品の電話機のいくつかが弾け飛んだ。

 グレイスは持っていた拳銃で応戦した。どうやら侵入者は最新型の短機関銃で武装しているようだ。9ミリ口径の弾丸を連射できる火器で、装弾数も多い。捜査官が携帯する普通の拳銃で対抗するには不利すぎる。

 拳銃を暗闇に向けて撃つが、命中していないのか侵入者は倒れない。撃ち合いは何度か続き、火力に差があるせいでこちらの残弾が少なくなっていく。

 銃声に気づいてパロットが起きてやってくる可能性があるが、この場所は逃げ場が少ない。それまでに追い詰められそうだ。

「隠れていてください」

 グレイスは小声で少女に向けて言った。狙いはこの少女かもしれない。それが、この場でのグレイスの方針を決定する後押しになった。

 今度は守ってみせる。グレイスはそう決断した。少女には奥に行くように指示し、グレイス自身は敵を引きつけつつ応戦する覚悟を決める。

 残弾からして持久戦での時間稼ぎは難しい。だが、こういう事態に対して何の準備もしなかったわけではない。グレイスは防弾繊維のインナーとコルセットを身に着けている。このフロアにも弾倉や防犯用のショットガンを隠してあり、それを回収すれば形勢逆転できる。

 グレイスはあえて相手の視界を横切るようにして姿を見せた。相手はまだ少女の存在には気づいていないだろう。動いていれば簡単にこちらに注意を向けられるはずだ。思った通り、グレイスに向けて短機関銃の連射が襲った。

 接近したことで照準をつけにくくなり、連射された弾丸はグレイスをかすめただけだった。グレイスは残弾が少なくなった拳銃を撃ち返す。走りながらだが命中の手応えはあった。

 しかし、あまり効果は認められない。相手も防弾性のある何かを身に着けているようだ。警察の施設に侵入しようというのだからその程度は当然だろう。

 だが、至近距離からなら制圧することができるはずだ。身軽なグレイスを捉えにくそうにしている。相手は短機関銃をフルオート射撃から指切り連射に切り替え、数発ずつ撃ってくる。

 しかし、グレイスはそれも先読みしていた。照準をつけるための一瞬に武器の影になって見えなくなる死角に周りながら、相手の背後をとることに成功した。

「動くな」

 ヘルメットとボディアーマーをつけた相手のうなじの部分、無防備な場所に銃口を当てつつ、できるだけ威圧的に口にした。

 意趣返しのつもりではないが、もしこれがあのビルでの犯人と同じなら、武器の死角をついた反撃をやり返せたことになる。今度はグレイスの方が一枚上手だった。

 あとはこの侵入者をそのまま拘束しつつ誰かに連絡をつけるだけだ。

「何者か答えなさい」

 武器を捨てさせて手錠で拘束する間も、相手は声を一切出さなかった。グレイス油断なく照準をつけたまま端末を取り出し、コールしようとした。

「え……?」

 拳銃を持ったグレイスの右手が歪んで見えた。夜勤の疲労と急な戦闘でめまいでも起こしたのだろうかと思った瞬間、右手に強い痛みが襲ってきた。

 喉が詰まるような激痛とともに、グレイスの手の部分で何かがはじけた。拳銃がその場から瞬間的に消えていた。グレイスの指の何本かが失われ、鮮血が散って床を汚した。

 動揺したグレイスの胸に衝撃があった。しゃがんだ相手からの蹴りをまともに食らったグレイスは一瞬呼吸ができなくなり、左手に持った端末を落とす。パロットへのコールの途中だったが、それ以上聞くことはできない。

 侵入者はいつのまにか手錠での拘束をといていた。壊れた手錠を床に捨てる。

 拳銃を消滅させたのと同じ方法を使ったのだろうか。手錠を外した手首に、ぼんやりと赤い光を放つ石がブレスレットに加工されてついているのが見えた。

 三日月型の石だ。その形には見覚えがある。あのビルで持ち去られたフラグメントは、確かそれとよく似た形をしていた。

 混乱し数歩後ずさるグレイスの前で侵入者は武器を拾い、グレイスの額に照準をつけた。引き金を引く指の動きとともに、相手の手首で光る石が眼前に見える。

 それが、グレイスの生涯最後の記憶となる。



 グレイスは欧州のとある片田舎で生まれ、一五の頃に孤児になった。町で起きた事故でかなりの人数が犠牲になり、すでに大陸に移民していた親族しか頼りがなく、この国で養育されることになった。

 合衆国でのグレイスの養父の職業は刑事だった。その影響で、自分も刑事になる道をひそかに考えていた。

 危険な仕事だ。相談すれば反対されたかもしれない。しかし結果的に、グレイスは捜査局の特別捜査官になった。

 両親を二度も失ったグレイスは、誰かを失うということに敏感になっていた。そのあまり、自分の命に関しては鈍感になっていたかもしれない。

 こうなってしまった事は育ててくれた父に申し訳ない気持ちだった。

『……響力Cの現……干渉を検知。遠……クラスターです。断裂の……険があり……す。修正………に限……、同等の干渉性の……用を許可し……』

 頭の中に聞き慣れない声が聞こえていた。脳を撃たれたことはないので、自分が今どうなっているかもわからない。正常ではないのだろう。人の脳がコンピューターのようなものだとしたら、めちゃくちゃになって不具合を引き起こしている状態に違いない。走馬灯が入り混じった思考で意識は混沌としていたが、それでも考えを続けていられるというのは意外であった。

 人に魂のようなものがあるとしたら、グレイスは幽霊になりかけているのかもしれない。

『大脳……の深……なダメージ、……許諾を停止。クオリアの死後拡散をサーチ。完了。修復を行います』

 戦闘は不得手ではないとはいえ、やはり無謀だっただろうか。しかし誰とも連絡がとれず、逃げるという選択肢はなかった。結局、先輩のアルバートの忠告も無意味にしてしまった。

『CLN構築、クオリア定着完了。限定起動』

 次第に意識がはっきりしてきて、声もはっきり聞こえるようになっていた。そうなるにつれ、状況が気になりはじめる。これが死後の世界だとしたら、自分は今どうなっているのだろう。

 それを知りたいなら単純な話だ。目を開けばいい。何度もやってきたことだ。夢の世界から目覚める時も自然に目を開く。誰に教えられるでもなくできるその覚醒の仕方で、グレイスは瞳を開けて世界を見てみた。

 そこは、今までと変わらない場所に見えた。古いコンクリートの建物、吹き抜けのフロアと高い天井が視界にある。こうして寝転がって見たことはないが、知っている場所だ。

「やあ、おはようグレイス」

 名前を呼ぶ声。視界を覆うように誰かの顔が現れる。惚けるグレイスを覗き込みながら笑うのは、あの白い少女であった。

 上体を起こす。グレイスの視線の先にはまだあの侵入者がいた。グレイスを撃った後に奥に向かおうとしていて、物音に気づいて振り返った……というふうだった。

 グレイスも驚いたが、侵入者も驚いたのかもしれない。一瞬の沈黙があり、侵入者は改めて武器を構えて発砲した。

 座った姿勢なのでグレイスはどうしようもなかった。隣にいた少女が巻き添えにならないように突き飛ばすのが精一杯で、眼前に迫る弾丸をただ見ているしかできなかった。

 そう、グレイスには迫る弾丸が見えていた。

 鉛の小さな粒が空気を切り裂きながら近づいてくる様子がよく見えた。危険を実感した時によく視界がスローモーションになるが、それをめいっぱい長くしたような感覚だった。

 思考が十分に追いついている。掃射された弾丸のうち、命中するものとそうでないものを見分けられる程度には時間があった。だが体が動かせるわけではなく、当たる分の弾丸は避けようがなかった。

 命中するのは二発で、どちらも頭部被弾の危険があった。あの感覚はもう味わいたくはない。グレイスがそう考えると、何かひらめきのようなものが脳裏に浮かんだ。

 思考が極めてクリアになり、普段は見えないものが感じ取れている。あのビルで少女がやっていたように、弾丸を空中に縫い付けるイメージ。その方法がわかる気がして、グレイスはそれを試してみた。手で触れるかのような自然さで弾丸に力を込め、押し返す。ただし、肉体ではない部分を使ってそれを行う。

 目に見えない重力の手により、弾丸をとらえる。気づいた時、迫りくる弾丸のうち二発は空中で停止していた。思考速度が正常に戻る。

「……っ!?」

 通常の思考に戻った直後、グレイスの頭に激痛が走った。弾丸が当たったのかと思ったが、速度を失った弾丸は殺傷能力を失い、そのまま地面に落ちて転がった。

 額に触れるが傷跡はない。これは外傷的な痛みではない。しかし、二日酔いを何倍にもひどくしたような頭痛がグレイスを襲っていた。

「それは、まだきみには早い」

 少女がグレイスの肩を支えながら囁いた。「それ」とは、今グレイスが行った何かの事だろうか。痛みが次第に引いてきて、グレイスは少女の顔を見る。

「ん?」

 少女はグレイスに視線を返した。本当に、この子は何者なのだろうか?

 侵入者は弾倉を変えて射撃を続けてきた。グレイスは痛む頭のまま少女の手を引き、とっさに柱へと隠れる。

 まだ戦いは続いている。状況はほとんどわからないが、気が抜けない。敵の武器にも、あの光る石にも警戒が必要だった。

「ふむ」

 少女は地面から何かを拾っていた。グレイスが落とした携帯電話端末だ。

「危ないですよ……!」

 侵入者はまた短機関銃で狙ってきたので、グレイスは少女をかばうようにまた移動した。

 あの得体のしれない光る石は使わないのだろうか。それは幸いだったが、その石のせいで拳銃を失っており反撃の手段がない。

 やっぱり、また今の力を使って戦うべきだろうか。武器がなくてはどうしようもない。

「今のきみにはこっちの方がいい」

 どうするべきか考えていると、少女が言いながらグレイスの端末を返してきた。

 誰かに連絡しろということか。そう思ってグレイスが端末のキーボードをスライドさせようとすると、感触が違うことに気付く。

「何だ……これ……」

 受け取った端末はふた周りほど大きくなっていた。重みも増しており、質感もプラスチックではなく金属的になっている。

 グレイスは自然にそれの使い方がわかった。これは武器だ。警備用の武器で、短機関銃にも対抗できる火力を持っているものだ。

 スライド部分を変形させ小型のストックを展開する。それを肩に当て、引き金を軽く引いた。薄い反動とともに弾丸が連射され、闇の中に吸い込まれていく。小型にも関わらず精度が高く、命中の手応えを感じた。

「ヒツギ……これは何ですか?」

 知らない武器を突然使えることに自分で困惑しながら、グレイスは少女の名前を呼んでいた。

 そうなのだ。この少女の名前はいろいひつぎであり、今彼女から与えられたのは有用な武器なのだ。そのことをなぜかグレイスは理解している。

「私に何をした……?」

 グレイスは確かに撃たれたはずだ。額に触れる。傷はないが、そこに何か埋め込まれたような異物感がある。

 拳銃を持っていた指も何本か弾け飛んだはず。それが、何事もなかったように元通りになっている。それだけでも十分におかしい。今の自分は明らかに前とは違っている。

 狼狽するグレイスをよそに、形勢不利と見た侵入者は狙いもいい加減に乱射してきた。グレイスはとっさに新しい武器を小型の盾に変形させた。手の甲を覆うグローブのような形になり、防弾能力を得る。自分でも驚くほど自然に防御体勢をとり、武器を使いこなしている。

 弾倉を撃ち尽くすほどの掃射があったのち、駆け出す音が聞こえた。

「おいグレイス! この状況は!?」

 その時、施設の奥からパロット捜査官が駆けつけてきた。騒ぎで目が覚めたらしい。渡りに船であった。

「ここを頼みます!」

「え!? ちょっと待てよっ!」

 パロットの声を背に浴びながらグレイスは外に飛び出た。夜の冷えた空気の中、遠ざかっていくバイクのエンジンの音が聞こえた。

 部で用意したセダンに乗り込もうとしたところ、漏れた燃料の匂いがする。ガソリンタンクに穴が開けられていた。このままでは追跡ができない。グレイスは車庫の外に出て、使える乗り物がないか見渡した。

「ほら、乗りたまえグレイス」

 背後から話しかけてきたのは柩だった。さっきの大型セダンが車庫から出ている。ガソリンは抜かれていたはずだが、アイドリングするエンジンの音がしている。

 燃料切れのランプがついたままだが、エンジンは動き続けている。理由を考えている時間はなかった。グレイスが乗り込むと、柩も助手席に座った。言いたいことはたくさんあったが、グレイスはそのままスロットルを踏み込んだ。

 車は正常に発進した。なぜか暗闇でもよく見えるようになったグレイスの視界は、遠ざかっていく侵入者の位置を捉えていた。



 夜の街にはほとんど通行がなく、侵入者のバイクは信号を無視して逃げ続けていた。目抜き通りの長い道をまっすぐだ。このあたりは田舎で、街の外に出れば直線道路しかない。

 追いつけるだろうか。グレイスはペダルを踏み込み車を加速させた。街灯が視界を駆け抜けていき、速度感を増していった。

 相変わらず燃料計はゼロを示していたが車はよく走り、以前よりも加速がいいくらいだった。一体どうやって動いているのか知らないが、きちんとエンジンが高回転まで吹けている。

 そのうち、接近する逃亡者のバイクが近くまで迫ってくる。部の任務の特性上、事前の依頼なしに地元の警察に応援を求めることは禁止だった。単独追跡でどうやって止めたものか。パロットを置いてきたことが悔やまれたが、今保管しているフラグメントを誰かに奪われるリスクは無視できない。彼女には残ってもらうしかなかった。

 あの光るブレスレットが隕石フラグメント由来のものなら、尚更にそうだ。間違いなくあの商業ビルと同じ犯人だと確信している。

 追跡に気づいたバイクは更に加速した。速度が危険な領域に入っていく。

「私がやってあげよう」

 助手席に座る柩が言う。何をやってくれるのか知らないが、素性も知れない相手に協力させるなど論外だ。しかし、柩はグレイスの懐から先程の端末をあっというまに抜き取ってしまった。

「あの……?」

 グレイスの問いかけは無視される。柩は手早く端末を手甲型に変形させた。グレイスも先程、盾にするためにとっさにその形態に変化させた。

 拳銃、ピストルカービン、手甲の形に変えられる端末など見たことがない。小型だが火力があり、最近聞くようになったパーソナルディフェンスウェポンの概念に近く思えるものだ。

「やるって何を……!?」

 グレイスはとっさに叫んだ。グレイスが知らない武器の能力があるのかもしれないが、運転に集中していて介入する余裕はない。

 柩は答えず、手甲を装着した手を前に伸ばした。手の甲にあたる部分に白い光のリングがうっすら浮かび上がるとともに、鈍い振動音が車内に聞こえてくる。

 前方を走っていたバイクが急に減速し、ぐっと近くに引き寄せられたように見えた。まるで見えない手に掴まれているかのようだ。

 このリングで重力を操作しているのだ、とグレイスは感じた。先程自分で弾丸を止めた時がそうだった。今のグレイスは1Gを超えるような異常な重力の存在を感じ取ることができ、このリングからも同じ力が働いているのがわかった。

 急に減速をかけられバランスを崩しかけたバイクは異変に気づいたらしく、視線をこちらに向けた。ヘルメットの奥で見えないが、グレイスは逃亡者と目が合ったように感じた。

 同時に、逃亡者の手の動きにも気づいた。手を動かし、数秒後に地面に何かを落とした。グレイスの視界は広く明瞭になっているので、それが何なのかを見分けることもできた。

 手榴弾による反撃だ。とっさにブレーキをかけつつ、ハンドルをきって車を横に動かした。弾けるような音とともに、車の近くでアスファルトが砕ける土煙が見えた。

 ブレーキを踏んだことで距離が離れてしまい、バイクは再び加速して距離が離れる。

 相手も必死で逃げている。多少危険でも接触して止めるくらいでなければ逃してしまう。逃亡者は捜査局所有の施設を襲撃した犯人となれば、捜査官としては決して逃してはいけない相手である。グレイスは改めて覚悟を決めた。

 更に踏み込んで車を加速させる。明らかにいつもよりも車の加速がよかった。バイクの鋭い加速にも負けずに相手に迫っていくことができる。

 手榴弾が命中しなかったからか、逃亡者は短機関銃を取り出して射撃してきた。何発かが車のフロント部分に当たる。そのくらいで怯んではいられない。グレイスはできるだけ減速しないように最小限の移動で車を左右に動かして追跡を続ける。

 その時、グレイスの目に気になるものが写った。

 それは前方でも周囲でもなく路面にあった。意味を考えた時、危機感が沸き起こった。いささか興奮気味に追跡に没頭していたグレイスの頭を一気に冷ますくらい、嫌な予感を起こさせるものだった。

 グレイスは全力でブレーキを踏み込んだ。だがもう今更気づいても遅い。タイヤのスキール音が響き、車は急減速する。

 時速九〇マイル以上の速度で疾走していた車はすぐに停車できない。グレイスは死を覚悟した。

 次の瞬間、空気が引き裂ける音が聞こえた。その音で、グレイスは疑念を確信へと変えた。

 車のボンネット付近に激しい振動が起きていた。強い衝撃は予感していたが、そんな振動は予測していなかった。グレイスは目の前で何が起きているのかを確認する。

 柩が前方に手甲を掲げ、身を乗り出すような格好になっていた。先程よりも強く白いリングが浮かびあがって光を放ち、スピーカーの低音のような鈍い音がする。重い空気の振動はグレイスの肺までも揺らした。

 車内がみしみしと音をたて、ゆっくりと歪んでいる。局所的に働く異常な重力が発生しているのか、風景が歪みだす。グレイス自身もその影響を受けて体を引き寄せられ、シートベルトに支えられていた。

「あの時のやつか」

 落ち着き払った口調で柩が低くつぶやいた。

 あの時というのは商業ビルでの一件だろう。あの時、柩の体は一度、大口径の対物狙撃銃でバラバラにされている。

 車の前方を見ると、その時と同じ大型のライフル弾が空中に縫い付けられたように静止していた。重力のレンズの中心部分だ。

 走る車に対し、遠くからの狙撃を受けたのだ。今回は致命傷を防いでいる。何かの力で弾丸を押し留めながら。

 迫りくる弾丸のパワーが強く、拳銃弾を止めていた時とはまるで様相が異なる。弾丸への未知の物理的干渉力は余波も生み出し、自動車のフロント部分は歪み、ウインドスクリーンは砕け、車輪が弾け、鋼材がめくれ、火花を散らし地面をこすりながら走っていた。

 前方部分が大きく破損した車は徐々に減速し、アスファルトの道路に長い傷を残しつつゆっくりと停止した。止まっていた弾丸は全ての運動エネルギーを使い切ってその場で浮かんでいたが、干渉する力がなくなるとそのまま何事もなかったように壊れたボンネットの上に落下した。

 車が壊れたのでこれ以上の追跡は無理だった。しかし、敵からの狙撃を防ぎ九死に一生を得ることはできた。

 歪んだドアをめいっぱい押して開き、グレイスは外に出た。遠ざかっていくバイクの音が聞こえた。グレイスはすぐにパロットに連絡する。

 パロットは無事らしかった。ダリアとアルバートへの報告も彼女がしてくれている。グレイスは追伸として現状の説明を行い、逃げた犯人の特徴と方位についてパロットに伝えた。

 電話を終えたグレイスは、車で走ってきた道を少し戻った。そして、あの時に目にとまった路面を見た。

 ブレーキを踏むきっかけになったのはこれだ。これを見ただけでは、普通のドライバーなら何も思わずに通り過ぎるだろう。しかし、一つの疑念に囚われ続けているグレイスにとっては警戒の対象になったものだ。

 その意味を考え出すとグレイスの思考はひどく濁っていき、胸が苦しくなる。その場に立ち尽くし、弾丸が飛んできた方向を見た。その方向には高いビルがあり、おそらくあそこから狙撃銃が見つかるのだろう。前回と同じように。

 まだ狙撃の危険があるというのに、グレイスの思考はどんどん鈍くなっていた。体全体が倦怠感に包まれ、バランスを崩して前のめりに倒れる。

「なんだろう……疲れ……かな……」

 異常というより、何かの反動のように体が疲れ切っていた。倒れる寸前、グレイスは誰かの腕に抱きかかえられた。

 視界の端に銀髪がちらついた。

 その銀髪からは、懐かしい故郷の花の香りが漂っていた。



 覚えがある。幼年期の記憶の中、まだかすかに残っている香りだ。

 グレイスの故郷はアイルランドの西に浮かぶ小さな島国だ。現在はもう存在しない。平凡な両親の一人娘として生まれ、一五歳までをそこで過ごした。

 町のはずれには大きな屋敷があったのを覚えている。その周辺の私道には植物の研究をするためだという花畑が併設されているのが特徴的だった。特に立ち入りを禁止されている道ではなかったが、そこが地元の有力者の所有だったこともあって、町の人間は敬遠していた。親や先生は子供たちにも近づかないように言い含めていたが、見慣れないものが多くて少し不気味なその場所は、小等部の子供たちにとっては格好の遊び場だった。

 中等部に入るころ、グレイスは学校での立ち位置で少し悩んでいた。いつもとは違う目線を向けられていることを感じ始め、なんとなく同級生を避けていた頃だ。

 数年前までは放課後になると魚雷のように学校を出て野山をかけている子供だったが、この年ではそうもいかない。ただ、研究所の花畑を見に行く習慣だけはなんとなく残っていた。

 そうして放課後に屋敷の近くまで行くと、その日だけは様子が違っていた。いつもは人がおらず少し薄気味悪さのある屋敷。人が寄り付かないはずのそこに、見慣れない車が何台もとまっていた。

 町では見ない人々が屋敷に訪れ、領主と何か難しい話をしていた。ところどころ談笑や媚びるような口調が感じられた。

 その話しぶりから「トラブルではないんだ」と子供ながら安心した。この町の有力者であるこの家や、反対の丘のクロス家に何かあれば町中が大事になる。そういう話ではなさそうなものの、今度はひそひそ話のような声で話しているのが気になりはじめた。

 何の話をしているんだろう。

 田舎は変化が少なく、こういった出来事はすぐに尾ひれがついて話題になっていく。グレイスもそういった流言の類をそれなりに好んでいた。

 少し遠くの目立たない所から様子を見てみた。町で見ない人々は異国なまりの英語を話す者ばかりで、難しい言葉も多くてグレイスにはほとんど意味がわからなかった。ただ、この施設での研究に関するお金の話や、研究内容に関する話であることはなんとなくわかった。

 町のはずれのいわくつきの研究施設に見知らぬ人々が訪れたというだけでも中等部の生徒たちに受けそうな話だった。好んでそういう話を広めたいわけではないが、グレイスにも年齢なりの好奇心がある。

 家の前に集まった人々は中に入っていってしまった。もっと話を聞きたいのに。家の前には何人かの人が残っており、通せんぼしていた。

 グレイスは、古い道に入れば屋敷の窓のすぐ下まで行けることを思い出した。

 草むらに隠れて見えにくくなっているが、昔の舗装路が残っている所がある。大きい道ができたので使われなくなったのだろう。存在さえ忘れられてしまい、誰も使わなくなった秘密の道だ。グレイスは注意深く周りを見て誰もいないことを確認してから、茂みを抜けて秘密の道に入った。

 古くなって錆びついた道路標識が怪物のように見えて、夕方に近づくと怖い場所だった。しかし、そこからだと屋敷に近いところまで行くことができる。

 細い道路の両脇には白い花ばかりが区画に別けられて植えられていた。普通の花畑と違うのは、それぞれの花の正方形の区画にアンテナのような棒が立てられていることだった。グレイスにとっては見慣れたその場所を抜け、日本から持ち込んだというサクラの木の下を通れば屋敷はすぐそこだった。

 曲がり角を抜けると、サクラの花の下に少女が立っていた。

 見たことがない人だった。そんなに年齢は変わらない気がしたが、クロス家のお姉さんよりも大人に見えた。純白の髪を風にたなびかせた彼女はまるで花の化身のようで、彼女の方から柔らかく甘い芳香が漂っていた。

 区画に分けられた花畑から突然彼女が生まれ、この道路に立っているかのようだった。グレイスはその姿に見とれ……。

 次にはっきり覚えているのは、高熱を出して自宅のベッドにいた時だ。両親が落ち着きを失っていて、悪いことをしてしまったという印象だけが残っている。

 花畑から自宅までの間のことは、おぼろげに記憶がある。それは、誰かに背負われて家まで送られている記憶だった。

「ごめんね」

 グレイスを背負っている誰かは、そう語りかけていた。その時にも、その懐かしく優しい香りがグレイスを包み込んでいた。


 

『あなたが無事で何よりです。ふああ……』

「お疲れのようですね」

 直属の上司であるダリアは眠そうにしていた。忙しさがにじみ出ている。

 早朝にもかかわらずあちこちに電話をすることになった。報告事項が山のようにあり、緊急性のあるものばかりだ。

『しかし、今度は武装して襲撃ですか。テロ組織か何かですかね?』

 ダリアが恐ろしい事を言った。頑丈なボディアーマーに短機関銃で武装し、手榴弾や対物狙撃銃を用意できる相手。普通の犯罪者でないのは確かだ。

「まだ何とも言えませんが……そんなに数が多くない相手だと思っています」

『どうしてです?』

「襲撃してきた人に単独犯のような雰囲気があったんです。印象に過ぎないのですが……」

 直感や雰囲気で判断を下すのは自分らしくないと思う。そういったものに頼ると思い込みや間違いの原因になる。捜査官としては避けるべき思考だが、直感以外にもいくつか根拠はあった。ただ、様々なことが起きすぎてまだ考えを整理しきれていないので、ダリアに話すのはやめた。

『カンだ、なんて、一人前の刑事みたいな事を言いますねぇ』

「……からかわないでください」

『いいんじゃないですか。直感が役立つ事もありますから』

 眠そうにしていたダリアは急に元気を取り戻して話し始めたが、あらかた報告は終わったので電話を切り上げた。正式な報告書を作らなければならず、オフィスに戻りたい。

 商業ビルでの一件で捜査を行っている者が本局にいるかもしれない。この件は大事だ。本局とも連携を強めなければならない。

「ねえ、グレイス。グレイスってば」

 考え込むグレイスの袖を柩が引っ張っていた。

「そろそろ店が開く時間じゃないかな。寄っていこ」

「はい?」

「何か食べ物を買っておくれよ」

 朝の陽光の中では、室内の蛍光灯や夜の中で見るよりも柩の髪や肌が生気を帯びて見えた。

 相変わらずパロット捜査官が与えたキャップをかぶっていたが、いつの間にか服装は黒のパーカーになっていた。売っているのを見たことがないようなデザインのもので、どこから出したのかも知らない。

 秋の気温の中でシャツ一枚では寒そうだったので、より自然な出で立ちなった。それに、今の服装の方が本来の彼女に近いように思える。新しさを感じるデザインのパーカー、不思議な光沢のあるボトムス。リングのついたネックレスがアクセントになって、まとまった格好になっている。腰にはあの楔形をつけており、それも含めて全体に調和がとれたという感じだ。残っているのはキャップだけである。

「誰かさんを一晩中背負っていたのでお腹がすいたんだ」

「……その件はありがとうございました」

 グレイスは柩の要求に応じることにした。疲労困憊で倒れたグレイスを街まで運んでくれたのは柩だった。グレイスの衣服にはまだ彼女の香りが残っていて、少し気分が落ち着かない。

 つい、故郷での出来事を思い出していた。じっと柩を見てみたが、不思議そうに首をかしげるだけだった。

 ホットドッグとドーナツを食べる姿はそのあたりの一七、八歳の学生と変わらない。もしかしたら全ては夜勤続きのグレイスの幻覚で、この子は普通の人間なのではないかと思ってしまう。

 故郷のことなどつい最近まで思い出しもしなかった。今は、それについて深く考えるのはやめよう。

 倒れてしまった場所は街からはずいぶん離れていたし、車は大破して使えなかった。おまけに深夜だったのでヒッチハイクというわけにもいかず、柩はグレイスを背負って何マイルも歩いたようだ。

 グレイスは小柄な方で、柩のほうが身長には恵まれている。しかし、よくそれだけの体力があったものだ。

 街につく頃には明け方になっていた。店も開きはじめていたので駅の売店に入って食べ物を買った。

 はやくオフィスに戻りたい。部の車を壊してしまったことを気に病んだ。道路に放置してきたままだ。電話でタクシーを手配し、売店の前で待つことにした。

 先輩のアルバートに連絡したらもう施設についているとのことで、こっちにはゆっくり来ればいいと言っていた。しかし、悠長にしていていいわけはないだろう。

 グレイスは、数時間前までただの携帯電話だったはずの自分の端末を見た。金属的な光沢を持つ未知の黒い素材に変わり、ボディは二周りほど大きくなっていた。軍用無線のようにごつくなっていてポケットに入らない。蓋をスライドした所にあるキーの数は変わっておらず、電話や通信機能、電話帳のデータはそのまま健在だった。

 これをよこしたのはここにいる綺柩という少女……のような、何者かだ。どんな魔法を使ってかグレイスの端末をこんな状態に変えてしまったり、走れないはずの車を走らせてみたりするくせに、「お金を持っていないから食べ物を買って」などとグレイスに言ってくる。彼女が何者なのか、そもそも人間なのか。その正体はまだ知れない。

「携帯電話をこんな風に変えてしまえるなら、お金を作ることもできるのではないですか?」

 手配したタクシーが来ない焦燥から、ついグレイスは柩に話しかけた。その後で、会話してもいい相手かどうかわからなかったことに気づく。

 ダリアは大丈夫と言っていたが、グレイスはまだ確信を得ているわけではない。それに、相手がこんなに多弁なのは想像していない。

「警官の前で通貨偽造なんてするわけないだろう。常識で考えたまえよ」

「……そうですか」

 自ら話題をふってしまったので、無視することもできずに会話がはじまってしまった。グレイスの役目は犯罪への対処であり、少女の正体を探ることではない。それは専門の研究者がすべきことで、こんな風に言葉を交わしていい相手なのかもわかっていないのだ。

 注意深さが足りず、調子も出ていないのを自覚した。

「この地球上由来の物質、食べ物が必要なんだよ」

 柩はそう言いながら、チョコドーナツの一番チョコがついていて美味しそうな部分を最後に食べた。味を感じているのは間違いなさそうだ。

「グレイスは何か食べないの?」

「私は結構です。まだ気が抜けないようですから」

「ふむ」

 町に入ってから視線を感じる。売店に行って車を待っているだけだが、どこからか監視されている気配があった。

 正確な位置はわからないが三、四人くらいだろうか。町に入ったグレイスを見ている者がいる。一般人ではなさそうだが、警官というわけでもない。

 逃げた襲撃者もこの町に入ったかもしれないが、その実行犯がいるとは思えない。グレイスと柩を監視する何者かだろう。

 襲撃者の正体、あるいはバックグラウンドを知ることができるチャンスかもしれない。グレイスは慎重に様子を伺っていた。

「ねえグレイス、あっちの通りを見に行こう」

 そんなグレイスの意図を知ってか知らずか、柩は道路の反対側を指差してグレイスを誘った。グレイスにしか見えないように、帽子のつばに半分隠した目線を向けている。

「……わかりました」

 グレイスはその場から歩き出す。車通りの少ない道路を横断し、小走りで路地の間に入った。そこから一気に走り抜けて裏路地を一周し、監視してきている者の背後に回り込むように移動した。

 観察していると、グレイスを追ってくる二人が見えた。服装はいかにも田舎の一般人というふうに装っているが、見ているだけで鍛えられた体や動作の機敏さが感じ取れた。

 何者だろう。少なくとも経験者に見える。ダリアに報告すべき事柄が増えた。

 こちらが監視を撒いたということに気づいたその追手たちはすぐに別々に路地を出て、何事もなかったように歩き出した。判断が早い。昨晩以来やけに視界が明瞭になったグレイスは遠い距離でも見失うことなく、そのまま尾行する。そのついでに、相手をよく観察してみた。

 体の動かし方から、腰に拳銃を隠し持っていることがわかる。ただの監視ではない。しかし、変装はよくできているが隙のない歩き方のせいで少し目立ってしまっている。諜報機関のプロという感じはしなかった。

 グレイスを見失ったからか、追手たちはある場所で合流していった。スーパーマーケットの駐車場にとめたバンに乗り込んでいき、そのまま発車してどこかに消えていった。

 やけにあっさりと撤退していった。車のないグレイスはそれ以上の追跡を断念せざるをえなかった。

 最期まで観察した感想では、彼らは誰かに雇われた傭兵というのが一番しっくり来ると思う。そんな連中が、なぜか遭遇調査部に狙いを定めているらしい。

 ふと、横にずっとついてきている柩のことが気にかかる。彼女も、回収物が狙われる理由に関係しているかもしれない。

「あなたは何者なんですか」

 グレイスは大雑把な質問を投げかけた。

「宇宙人だよ、グレイス」

 柩は、からからと笑いながらそんな答えを口にした。



 遭遇調査部のオフィスについた。発砲事件があったにも関わらず、大きな騒ぎにはなっていなかった。この周辺は公共施設が多く、深夜は人が少ない。通報すらなかったかもしれない。

 それでも何人かの市民が施設周辺にいた。早朝に散歩していた古くからの住民が数人立ち止まって話をしていたが、それらは全てアルバートが丁寧に応対している。調査部のメンバーは捜査官という身分も明かせないため、テレフォンセンターの警備職員として住民に接することになっている。

 アルバートはグレイスに気づき、目が合った。隣にいる柩にも一瞥をしたのち、わずかに頷いたような動きをした。それを確認し、グレイスは横にある入口から施設内に入った。

 施設内には例の新しい一五人のスタッフがもう通勤してきていて、破損部分の写真を取ったり証拠となるもの、弾丸や落ちているものの収集をはじめていた。

 破損した窓にはすでに板が打ち付けられているが、内側に散らばったガラスの破片はそのままだった。銃撃で壊れた電話機や機材もそのままにされている。グレイスはその様子を見ながら、昨晩の出来事を克明に思い出していた。

 深夜、突然謎の襲撃者がやってきたこと。それに応戦し、車で追跡したこと。その途中で狙撃にあい、危うく命を落としかけたこと。立て続けに起きたことだが、それらは全て事実だ。

 夢ではなかった。砕け散った受話器を床から拾う時、自分のものであろう血痕を見つけてそう実感する。

 どんよりした雰囲気でテレフォンセンターの椅子の一つに座っているパロット捜査官がいた。そういえばあの時、「後を頼む」と強引に現場を押し付けて出てきてしまったのだった。グレイスを見つけると座ったままの姿勢で睨みつけていたが、睡眠不足や疲労で活気は感じられなかった。本当に申し訳なく思う。

 柩は施設に入るなり本棚に寄っていき、いくつかの本を手にとってぱらぱらとめくっていた。グレイスはパロットとともにそれをなんとなく眺めていた。

 時刻は八時過ぎで、研究所に呼ばれていたディズが通勤してきた。そういえば彼女も昨日いなかったのだ。

「おはようございます……何事ですか?」

 中の惨状を見てディズは目を丸くしていた。片付いたと思っていたオフィスがこんなに散らかっていれば当然だろう。

「ついに喧嘩したんですか?」

 不機嫌そうなパロットを見てディズが言った。言い方からして冗談のようではない。いくら何でも同僚と銃撃戦をするわけはない。

 次にディズは、本棚の前にいる新顔に気づいた。パーカー姿で次々と本を手にとっている銀髪の少女だ。

「新しい捜査官さん?」

 そういえばディズはまだ見たことはないのだった。あの場にはグレイスとアルバート、パロットしかいなかった。見知らぬ少女がいたという報告は上がっているはずだが、それがあの少女なのだということは改めて説明が必要だった。

 グレイスがいちから説明していくと、ディズの表情はどんどん強張っていき、やがて蒼白になり、最後には腰を抜かしてしまった。

「た、た、ただちに施設の封鎖をしてください!」

 そして、ものすごい剣幕でその場にいる全員に指示をした。



 あくまでも噂だが、研究所でよく語られている話がある。

 政府は捜査局や研究機関を通じて特殊隕石を集めている。しかし、地表に落着する前に多くの隕石は突入の衝撃で破壊され、その機能を失ってしまっている。

 グレイスたちが回収しているものが研究所では断片フラグメントと言われているのもそれが理由で、何らかの機能を持っていたと思われる隕石も大気圏への突入や地表への落着で砕け、その機能を失ったり不完全になってしまっている。

 それを防ぐため、ある民間企業と協力して、宇宙で無傷の特殊隕石を捕獲するというプロジェクトがあったらしい。極秘計画なので詳細は不明だがそれは成功し、一つの隕石が回収されたという。

 その隕石を研究していた時、奇妙な事件が起きた。

 密閉した空間に保管していた隕石が忽然と消滅し、かわりにその空間の中に小柄な少女が現れた。そして、その少女に触れた者は未知の病原菌に感染し、全身から出血して見るも無残な遺体に変わっていった……。

 グレイスはこの話を少し落ち着いてからディズに聞いた。確かにこれを知っていれば、隕石と少女に警戒するのは当然と言える。

 前例の話はダリアからも聞いていた。安全だと言っていたダリアの態度とは随分違う噂話だ。信憑性はあるのだろうか。

 遭遇調査部の本部で使える人材は少なかったが、ディズはすごい剣幕で全員に指示を出し、徹底的に施設を密閉した。窓やドアをはじめあらゆる隙間を密閉し、たとえ酸欠になって死ぬとしてもこの施設から細菌ひとつ漏らさないという勢いだった。

 それでも封鎖できるかどうか自信がないらしく、ディズは政府と州兵にも連絡するように主張していた。もともと所属していた研究所に連絡し、所長だという人物と話し、この町ごと封鎖するように要請していた。

 柩はディズの指示によってすぐさま捕縛され、その場にあったありとあらゆるものでがんじがらめに拘束された。椅子に縛り付け、手錠はもちろんのこと、目隠し、口や鼻まで覆われた状態で奥の倉庫部屋に閉じ込められ、その部屋も何重にもテープで目張りされた。そのままだと扉を溶接しかねなかったが、道具もないし、ディズもそこまでは思いつかなかったと見えた。

 防護服の数が足りず、ディズは他のスタッフに譲って身に着けていなかった。そういう時でも逃げ出さずに施設内にいるのは職業意識であり、彼女が覚悟を決めていることがグレイスにも他のスタッフにも伝わっていた。

 たまたま外にいたアルバート捜査官だけが封鎖を知らずにテープを破って中に入ってきてしまった事はあったが、その時以外は基本皆が素直にディズに従っていた。

 グレイスは、もとはフラグメントケースを監視するために作られたはずの部屋に閉じ込められた柩を見た。確かに彼女は普通の人間とは考えられないが、ここまでするのは気が引けた。

 専門家の判断なので、こうするのが正しいなのかもしれない。これが地球外からの何かなら、どんな危険があるかわからない。今まで普通に会話したり接触していたことの方が常識を無視している。

 しかし、それでもグレイスはこのままにしておくのが良いとは思えなかった。

「私が中に入って、会話することはできるでしょうか?」

「危険ですよ」

「どの道、私はもう接触してしまっていますから」

 会話したり手を掴まれたりしたものの体調に異変はない。撃たれた額に違和感があり、何か埋め込まれたような感覚もあったが、いつのまにかそれも消えている。

 そういえばその前には押し倒された……と話した時、パロットはすごく驚いた様子を見せていた。しかも、そのあとなぜか瞳を潤ませてうつむいていたようにも見えた。何だろう?

 それはともかく、撃たれた額に異物感を感じた直後くらいから、急に視界が開けたようになったり、知らないはずのことがわかったり、妙な感覚が身についたりと異常があった。慌ただしすぎて忘れていたが、明らかに気のせいではなかった。

「……グレイス、精密検査を受けてくれますね」

 なかば呆れた様子のディズが言った。確かに、いろいろな事が起きすぎて危機感が麻痺しているのは認めなければならない。

「拘束したことで機嫌を損ねているかも。言葉が通じる相手ですし、フォローしておくべきだと思います。研究所に了承をとっていただければですけど」

 グレイスは理由を作り上げて言った。柩は拘束されている間に特に抵抗を見せず、気分を害しているように見えなかったが、この主張には正当性がある。

 ダリアはこういう時はディズの判断に任せると言っていたはずだ。研究所の反応は直接会話していないのでよくわからないが、州兵を動かしてもらうことはできたのだろうか。

「……それはその通りかもしれません。私も冷静ではなかったですね」

 ディズはグレイスの主張を認め、密閉を維持したままで部屋の中に入れるようにエアロック風の通路を作ってくれた。本当はグローブボックス状のスーツがあればよかったが、そういうものを作る時間も材料もなかった。

「あの、無理だったらいいんですが一つお願いが」

 柩の部屋に入る前に、ディズがグレイスを呼び止めた。

「何ですか?」

「……もしできたら、サンプル採取をお願いします」

 言いながらディズは遠慮がちに容器を手渡してきた。サンプル、つまり皮膚片や髪の毛をもらってきてほしい、というのだ。

 グレイスは一応了承し、容器を持って部屋に入った。防護服の着用を強く勧められたものの、今更なので断った。

 本来、柩と密接に触れたグレイスは同じく隔離されるべきだと思う。入ったら最後、一人で出るつもりはなかった。それなら身軽な方がいい。

 部屋に入ると扉が厳重に閉められ、グレイスはさなぎのように縛られた柩と二人きりになった。

 あんな話を聞かされた後ではあるが、不思議と恐怖はなかった。体調の変化のなさもそうだが、初日にダリアが安全と判断したことには根拠があるはずだという理屈もあった。

 グレイスは柩に歩み寄り、その姿を見て罪悪感を感じた。そっと頭部を覆っている布を取り去りいくつかの拘束を外すと柩の美しい銀髪が露わになり、甘い香りがたちこめた。

 この香りにも毒があるという事なのだろうか?

「本当に、その……宇宙人なんですか?」

 一言目としてはおよそ適当でない言葉をグレイスは選んだ。しかし、他に彼女の意思を問う切り口が思い浮かばなかった。

 柩はそんなグレイスのおっかなびっくりな様子がおかしかったのか、拘束された体勢のままうつむき「ふふふっ」と笑い声を漏らした。

「私が隕石なのは気づいてるだろう。宇宙から来たんだから宇宙人だよ」

「それもまだよくわからないんです。どういうことなんですか?」

 グレイスはまだ、この少女が酔狂なことを言っている人間だと信じたかった。隕石と関係していて、普通ではないかもしれない。でも、少なくとも人間を元にした何かという可能性が自然だと思っている。

「……こんな事をして申し訳ありません。あなたの事がまだわからないから……」

 グレイスは謝罪の言葉を口にした。これは本心からの言葉であった。

「いいよ。こういうのも新鮮で、退屈じゃない」

 柩は何も気にした様子を見せなかった。しかし、それがかえってグレイスには心痛になった。素直で純粋なグレイスは、悪気のない相手をいじめているような感覚になってしまう。

「……言いにくいことなのですが、研究機関があなたのサンプルを欲しがっています」

 グレイスが言うと、柩は髪の毛を一本引き抜き手渡してきた。グレイスはそれを透明なケースに入れ、安全な方法でディズへと送り届けさせた。

 頭部への拘束は遠慮した。拘束の時に外したキャップを彼女に返し、かぶせてやった。



 隔離されているグレイスのために、ディズやパロットが様々なものを用意してくれた。ベッドや食事が持ち込まれ、他にも必要なものがあれば用意すると言ってくれた。アルバートも心配してよく見に来てくれていた。

 救援はまだ来ないが、食料の備蓄は少しあった。災害に備えたものだがきちんと人数分あり、すぐに不足することはない。地元警察によって施設の近隣から住民は避難しているらしい。

 外の光が入らない倉庫部屋だと時間の感覚が薄れる。時刻は夜の十一時で、グレイスは用意されたベッドに腰掛けて休むことにした。

 せっかく用意してもらったものの、相変わらず拘束されている柩の前で自分だけ横になるのは気が引けてしまう。それでも、疲れていたグレイスは座ったままの姿勢ですぐに眠りに落ちてしまった。

 静かな夜だった。このまま何事もなく朝になり、自体が好転していることを願うしかない。ダリアなら、きっとなんとかしてくれる……。

 グレイスの鼻腔にまたあの香りが広がっていた。拘束されている柩からはしない、近づかないとわからない薄い香りだ。それと同時に、肌がちりちりと焼かれているような感触がして目を覚ます。

 目を開くと、薄暗かった倉庫の中が白く輝いていた。

「何を……!?」

 グレイスは思わず悲鳴のような声を上げた。拘束が全て解けていた。見れば、粉々に砕けた拘束具の残骸が散らばっている。

 その場に立つ柩から白い放電が広がり、部屋中をまばゆく照らしていた。

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