一夜の夢、一塵の香、一生の瑕。

山の川さと子

第1話 一生の願い

 

これが業というものなのだろうか。

私はいつも人を見送る役を与えられる。死出の旅に出る人を。

「小太郎。あの子を頼むわね」

言い遺して息を引き取った姉。

「小太郎。しっかと若殿をお護りするのだぞ。我らは御大将について、見事平家を打ち滅ぼして戻るからな」

馬上で手を振った父と兄達。

「小太郎、私は行く。身代わりを頼んで済まない」

頭を下げて部屋を飛び出して行った、同じ歳の主人。

——そして。



「開けて。入れて頂戴」

聞こえる筈のないその人の声に、跳ね起きて戸を開ける。中に飛び込んで来たのは女官姿に身をやつしたその人だった。その後ろに、良からぬ輩でもいるのでは、と咄嗟に脇の刀に手をかける。

「何故、こんな所に。お一人で居らしたのですか?」

息を切らした彼女を左腕で支え、右手で刀の柄を握る。彼女は、ええと答えて、支える為に伸ばしていた左腕から自分の胸の中へと飛び込んで来た。風と共に立ち昇る香りに鼻腔をくすぐられ、思考が停止しかかる。

「一体何事があったのです?貴女がこんな所に来るなんて」

ここは鎌倉でも外れの山際の崖の突端に位置する小さな平地。有力御家人らは、崖の谷間の、ヤツ(谷)と呼ばれる要害の地をそれぞれ与えられていたが、自分が与えられたのは使い勝手のあまり良くない崖が張り出した際の一画。与えられたその小さな平地に小さな館を構えて数人の家臣だけ置いていた。彼女がここに来たのは初めてのこと。ここに自分がいることを知っていたとすら思いもよらなかった。

「何事もないわ。ただ貴方に会いに来ただけよ。一夜の夢を見せて欲しくて」

「夢?」


繋がらぬ話に戸惑うが、思えば彼女はいつも唐突だった。風のように現れて、そして跡も残さずにまた去って行く。まるで夢を見ていたのではないかと思う程に。だから今回もそうなのかもしれないと、そう思いかける。だが、この香り。そして胸に伝わってくる熱が、彼女が夢や幻ではなく事実その人であることを教えてくれる。胸に押し当てられた柔らかくあたたかな温もりがそっと動き、それにつられて長い黒髪がサラリと艶めかしく首元に纏わりつく。

——コクリ。

思いがけず鳴らしてしまった喉に背から汗が噴き出る。高鳴る胸の音が彼女に聞こえはしないかと懸命に身を離そうとするが、彼女はその両腕を自分の背まで回して離れてくれようとしない。もしかして何かに怯えているのだろうか?努めて冷静に言葉を紡ぐ。

「馬で遠駆けでもしていて迷われたのか?お送りしましょう。早く戻らねば」

だが、その言葉は途中で遮られた。塞がれた口。塞いでいたのは彼女の唇だった。そうと気付いたのは、目の前にあった彼女の長い睫毛が離れていって、その口が次の言葉を紡いだ時。

「抱いて」

紅を差していない、でも撫子色のふっくらとした唇がそう発した音。信じられない思いで目の前の女人を見つめる。聞き間違えだと思おうとした耳元で更に言われる。

「お願いだから、夢だと思って私を貴方の妻にしてください。今だけ、今夜一晩だけの妻に。貴方に会いたくて馬で駆けて来たの。お願い。一生のお願いだから、どうか今だけ。一夜だけの夢を見させて。私がまだ私である内に」

震える声。背に回された腕にこもる力。愛おしく想ってきた女に懇願され、抗う心の余裕は残されてなかった。彼女を抱え上げ、奥の部屋へと向かう。一枚だけ敷かれた畳の上に横たえて腕を押さえつける。だが目の端に彼女から滑り落ちた淡い色の薄手の袿が映った。その色は主人が好んで身につけていた直垂の色に似ていた。



私の名は海野小太郎幸氏。信濃国に領土を持つ御家人。十数年前に木曽の御大将、源義仲殿の御曹司である志水冠者義高殿の従者として鎌倉へ来た。主人である木曽義高殿は、鎌倉の主である源頼朝殿の一の姫の婿として鎌倉に迎えられたが、その実態は人質だった。一年後、父と兄が仕えた御大将、木曽義仲殿は敗走中に討ち死にし、自分の父と兄らは皆処刑され、その首は獄門に晒された。数ヶ月後、若殿は御所を脱走するも入間川の滸で首を撥ねられた。その時、私は若殿を逃がす為に身代わりとして御所に留まっていて捕らえられ、尋問された。源頼朝殿と相対した信濃の有力武将、海野幸親の嫡男であり、義高殿の母を姉に持つ身の上の自分は義高殿に続いてすぐ殺されるだろうと思っていた。だが何故か殺されず、暫く江間殿に預けられた後に弓の腕を買われ、奥州征討の後に御家人として迎え入れられた。そこに御台所と一の姫の口添えがあったらしいことを後から知った。裏に信濃の領土を狙っていた武田と鎌倉の間の微妙な確執があったことも幸いしたのだろう。それでも一の姫は私の命の恩人であり、何より主人の大事な許婚者だった人。触れていい相手ではけっしてなかった。それが何故、今こんなことになっているのか。


「妻になるということが何を意味するのか分かっていて口にされているのですか?」

やっとのことでそれだけを口にする。彼女は、ええ、と答えて押さえられた腕の肘を曲げ、その細い指先を私の腕へと添わせた。愛おし気に。


「貴方に触れたい。触れられたい。一夜だけでいいから貴方の妻になりたい。そう思ってここへ来たの。全て覚悟してるわ」


そう言いながらも、こちらを見上げる彼女の瞳に浮かぶ微かな怯えの色。それを見て、辛うじて残っていた理性が口を開かせる。出て来たのは酷く冷たい声だった。


「分かりました。ご希望に沿いましょう」

彼女がハッと息を呑んで自分を見上げる。

「嫌ならそう声を上げて下さい。だが、ここは私の館。駆け付けてくる警護の者を私は追い払える。だから止めるなら今です。今なら傷一つ付けずに安全に送らせましょう。でも今を逃せば、私は貴女に安全を約束出来ません。貴女は来てはならぬ所に来てしまったのですから」

言って、脅すように鋭く睨み付ける。去って欲しかった。ちょっとした気の迷いだと手の届かぬ所へ行ってしまって欲しかった。でもそう願う一方で、彼女を手離したくもなかった。どうか拒絶して自分を撥ね退けてくれ。今ならまだ間に合う。そう思いながら彼女の抵抗を待つ。だが待ちながらも掴んだ手から力を抜くことが出来ない。


—触れてはいけない人。でも、だからこそ、ずっと触れたかった人。その人が今、自分の腕の中にあった。

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