第277話 幕間 ガルドラ公爵派 中


「まずいことになった。ガルドラ公爵様が養子を迎られえたそうだ」


「御養子を!?それでは、私とあの方との子は……リュークスはどうなるのですか?」


 アンリエッタが父に全てを託して、いくつかの月が経ったある夜のこと。

 唐突に父の部屋に呼び出された上に、最悪の知らせを告げられ、思わず当主の言葉を遮ってしまったアンリエッタ。

 しかし、父は咎めることなく諭すように続けた。


「落ち着きなさい、リュークスが起きてしまう。あの子は一度泣き出すと、母親の腕の中でしか眠らないのだろう?」


「も、申し訳ございません。それで、御養子の話は本当なのですか?」


「間違いない。私も寄り親から聞かされたばかりなので、詳細についてはこれからだが」


「どのような方かも、まったくわからないのですか?」


「わからぬ。だが、漏れ聞いた風聞だと、騎士の家の庶子で、冒険者になっているとか」


「そんな暴挙が……!?」


 まるで、出来の悪いおとぎ話のような話に、アンリエッタは自分の耳を疑った。

 大貴族の当主になるということは、ただそれだけで容易なことではない。

 嫡男が継ぐだけでも大変な儀式や披露目の数々があると言うし、養子ともなると想像もつかない。

 中貴族家で望外。

 小貴族で夢物語。

 それが、騎士の家の出で、しかも冒険者となれば、もはや悪夢としか言えないのではないか?

 そんなアンリエッタの視線を受けた父は、


「お前の気持ちはよく分かる。私も何度聞き返したことか。だが、少なくとも御養子決定という伝者の言伝は間違いない。これで、お前とリュークスのことをより慎重に進めなくてはならなくなった」


「具体的にはどのようになるのですか?」


「すでに、幾人かの貴族にそれとなく、小貴族家の中に正当な血筋が受け継がれているかもしれないと、話をしてみた。もちろん、私の娘のこととは明かさずにな」


「それで?」


「結論から言うと、感触としては悪くなかった。もっとも、これは御養子決定の前の話なので、再度持ち掛けて見なくてはならぬ。より慎重にな」


「大丈夫なのでしょうか?もしも、どこかから話が漏れて、リュークスの身に危険が及ぶことになったらと思うと……」


「打ち明けた相手は絶対の信頼を置いている人物ばかりだ。これでも、伊達に長年貴族社会を渡り歩いてきてはいないつもりだ。私を信じなさい」


「お願いいたします、お父様」


 最後は、あの日以降何度目になるか分からない父親を信じる娘の言葉で、夜中の会話は終わった。






 じっと待つことしかできないとはいえ、日々増していく不安に抗おうとするのは人の性だが、アンリエッタの解消法は我が子の世話への没頭だった。

 おしめを換え、母乳を飲ませ、夜泣きすれば再び眠るまであやし続ける。

 もちろん、いくら小貴族とはいえ乳母を雇うくらいの余裕は家にあったが、アンリエッタはあえて自らの手で育てることを望んだ。

 元は、争いごととは無縁の小貴族の娘。

 息子へ愛情を注ぐことで、屋敷の外からの情報を遮断し、耐えられぬほどの悲しみと苦しみから心を守る。

 アンリエッタからすれば無意識のうちにやったことだが、それが却って時勢に逆らう気を起こさせず、ガルドラ公爵領内で起きていた騒乱に巻き込まれずに済んだともいえる。


 そして、事態が好転する時がやって来た。


「アンリエッタ、こちらはガルオネ伯爵だ。教会派をまとめておられる御方と言えば、お前にもわかるだろう」


「アンリエッタと申します、お会いできて光栄です、ガルオネ伯爵様」


 世事に疎いアンリエッタでも、二大派閥の一角の領袖の名を知らないわけがない。

 別名穏健派と呼ばれ、軍拡志向の強いガルドラ派貴族の中でも、比較的慎重論が起きやすい一派だ。

 アンリエッタの家はどちらかというと教会派なのだが、発言力などないに等しく派閥幹部にすら顔を覚えられていないのでは、というのがアンリエッタの認識だった。

 その教会派の長が、アンリエッタに優しく笑いかけた。


「アンリエッタ嬢、初対面のところ不躾なのは承知だが、一つ、この老人の頼みを聞いてくれまいか」


「……なんなりと」


「そう身構えらずともよい。そなたが常に身に付けているものと、去る御子の顔を見せてもらいたいだけだ」


 紹介された時から薄々感じてはいたが、ガルオネ伯爵が要求してきたものが何なのか、アンリエッタはすぐに直感した。

 父が深く頷いたのを見たアンリエッタは中座すると、おくるみに包まれた息子のリュークスを抱いて戻ってきた。

 その時、赤子の顔を見たガルオネ伯爵が唐突に立ち上がった。


「おお、おおお……」


「伯爵様?」


「髪の色こそ違うが、その目の輝きに鼻筋の通り方、耳の形、まさに幼き頃のレオクス様の生き写し、ガルドラ公爵家の正当な血筋の証だ……!!」


 我を失ったガルオネ伯爵が、ゆっくりと近づきながら声を張り上げたことがきっかけだったのだろう、眠っていたリュークスがぱっちりと目を覚ますと、見知らぬ老人の顔に驚いて一気に泣き声を上げた。


「あらあら、どうしたのかしら。何も怖いことなどありませんよ、リュークス」


「う、うむ、その、やはり、齢を食った爺の顔は怖かっただろうか……?」


「そんなことはありません。リュークスはこの家の爺やを見ると笑います。きっと、伯爵様の大声に驚いただけです」


「なに、そんなに私の声はうるさかったか?」


「はい。屋敷中に響くほどに」


「いや、決してリュークス様を泣かせるつもりはなかったのだが……」


 そう言って、狼狽え始めたガルオネ伯爵を見て小さく笑ったアンリエッタは、同時に安心した。

 ああ、この方はリュークスの味方なのだ、と。

 その後、アンリエッタが首に下げている印章を確認したガルオネ伯爵は大きく頷くと、


「間違いあるまい。同時期に、レオクス様が印章をなくしたと御用商人に同じものを作り直させた記憶がある。秘伝の隠し細工も一致する故、間違いなくガルドラ家直系が持つ印章だと、この私が保証しよう」


「では、リュークスとアンリエッタのことは――」


「うむ。折を見て密かにお館様に申し上げ、リュークス様認知の手続きに入っていただくことを進言しよう」


「感謝の言葉もありません、ガルオネ伯爵」


「念を押すまでもないが、リュークス様の正式なお披露目まで、このことは絶対にほかに漏らさぬように。そなたが危惧する通り、リュークス様の今の御立場は非常に危うい。秘密の保持を考えると、私の騎士を護衛に置くこともためらわれる」


「わかっております。我が命、我が家の全てをかけて、リュークス様をお守りいたします」


「頼んだぞ。私も帰還次第、すぐに動くでな」


 我が子をあやしながら、ガルオネ伯爵と父の会話を聞いていたアンリエッタは、ようやく肩の荷をほんの少しだけ下ろすことができた。

 ガルオネが帰った後の父も「私ができることはすべてやった。あとは、天命を待つのみだ」と神に祈るように窓の向こうの景色を眺めていた。

 その言葉は正しい、とアンリエッタも思った。


「お父様、本当にありがとうございました。私も何かお手伝いできればよかったのですけれど……」


「何を言う。外敵から娘を守るのは父親にとって当然の務めだ。しかも、お前にはリュークスを育てる責務があるし、この先私が助けられないこともきっとあるだろう。その時こそ、母親としての覚悟と勇気が試されるのだ」


「リュークスが成人するまで、私が立派に育て上げます。ですからお父様、いつまでも私達を見守っていてください」


「そうだな、精々、孫がたくましく育つまでは長生きするとしようか」


 人事を尽くして天命を待つ。

 この世に生きる者として、神の加護を得るためには神の試練を乗り越えなければならないというこの言葉は、努力は必ず報われるという意味では決してない。

 努力しても神に願いは届かず。

 神の試練は理不尽に生者の命を奪う。

 ましてや、神に見放された人族が、望むものを手に入れるには、相応の対価が必要となる。


 その真理に、アンリエッタはまだ気づかない。

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