第20話 花火


俺は真っすぐ剛場を睨みつけた。臨戦態勢。


最初はポカンとしていた剛場の顔が、ヤカンの中の水みたいにぶくぶくと沸き立ち――次の瞬間には、どこぞのピンク色の魔人そっくりの形相になっていた。


「カッチーン」


出てきたのは、それだけ。


すると慌てたように、ノッポを含む三人が我先にと叫びだす。

「ぼ、僕が買ってきます!」

「俺が!」

「おい転校生、何やってんだ! 早く謝れ! ジュースなら俺らが買ってくるから! 取り返しのつかないことになるぞ!」


……まるでノッポたちが俺を庇っているようにも見えた。


「カッチーン、カッチーン、カッチーン」


 床を踏み鳴らす音と同時に――。

 ドガッ、ドガッ――! バゴォッ!

 巨体を生かした右パンチ、左パンチ、右キックで三人は秒殺される。倒れたノッポたちには見向きもせず、そのまま椅子を蹴り飛ばすと金属音が響き――。



「ミッション発令――! クソ生意気な転校生を取り押さえろ」


「「「は、はい!」」」


 八人。ノッポらを抜いた残り全員が、俺めがけて雪崩みたいに突っ込んでくる。


 予想外すぎて、ほんの一瞬、体が固まった。


「離せよ! おい、ふざけんな!」


 洒落にならない。一人避けても、すぐ次が飛びかかってくる。押さえられた手足を振りほどいても、また別の手が絡みつく。息もできねぇ……これじゃ、多勢に無勢だ。


「離せぇえ! 離せよおおお――――ッ!」


「暴れんなって」

「状況を受け入れろよ、マヌケが」

「人数差もわかんねーとか、転校生マジでアホだろ」

「ビビって漏らすなよ? 汚ねえからな」

「痛っ、こいつまだ反抗しやがる……オラッ!」

「暴れると背中ぶっ飛ばすぞ! ああもう、やってやる!」

「こういうのは肉って肉をつねってやんのが効くんだよ」

「脚も踏んでやるぜ……おらぁ、ぐりぐりぐり!」


 痛くねえ……こんなの、痛くねえよ……。


「カッチーン。カッチーン……カッッッチーン」


 低く、不気味な響きが場を裂いた。

 剛場だ。

 口の端を吊り上げ、真っすぐこちらへ歩いてくる。まるで真打ち登場を宣言するみたいに――。


「いいか? チーター……よーく覚えとけ」


 取り押さえられ、動けない俺の頬を、剛場はぐいと掴んで言った。


「この町で俺に逆らうと、こうなる」


 わざとらしく拳を握り、肩を回す。


「マシーンガァァン……パァァァンチッ!」


 胴へ、胴へ、胴へ――――無造作に叩き込まれる。


「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァ!」


 一発一発が鉛みたいに重い。巨体の腕が振り下ろされるたび、肺の奥まで響く衝撃に意識がかすむ。


 ……でも、不思議と顔には来ない。それが唯一の救いか――。


 ……違うだろ。


 痛くねえ……こんなの、なんともねえだろ!

 あいつのドロップキックと比べたら、猫パンチも同然じゃねぇか!


 だから耐えられる……こんなところで、根をあげてたまるかよ!


 俺は、常夏に勝った男。“瞬足の翔太”だ!


「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァ!」


 ……痛くなんかねえ。こんなの……痛くなんかねえよ……!


「ぐがぁはあっ……」


 痛く……なんか……ねえ。……ねえんだ……。


「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァ!」


「ぐぐえああ……あっがはっ……」


 ……常夏。なぁ、常夏……。お前と比べたら……こんなやつ、どうってこと……ねえよ……。


「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァァ!」


 ――……一秒が、途方もなく長い。いつ終わるのかもわからない。

 痛いはずなのに、だんだん感覚が遠のき、反応が鈍くなる。


 ――意識が……、沈む……。


「まっ、こんなもんか。顔は目立っちまうからなあ。やらないでおいてやったぜ? 感謝しろよな」


 ……あぁ、終わったのか。……なんてこと、なかったな。


「……屁でもねえ」


「おいおい……まだ元気あんのかよ、チーター。俺はよ、悲しいぜ? お前のこと、ちょっとは気に入ってたんだぜ? だからよ……俺にこんな真似させんなよ」


 ――――ンゴォッ。


 巨体の全体重を乗せた、えぐるようなボディーブロー。


「……だっはぁ……!」


 さっきまでの連打なんか比じゃない。内臓を鷲掴みにされるような一撃。


「どうした? さっきまでの威勢はどこ行った? もう終わりか?」


「がっはあ……ぐがあ……」


 婆ちゃんのご馳走が、喉元まで逆流してくる。……だめだ……これだけは……。


「うっ……うあ……」


 寸前でこらえる。歯を食いしばって、なんとか飲み込む。


「たく……見てらんねーぜ。もうわかったろ? 土下座しろ。今回はそれで特別になかったことにしてやんよ」


 ――ふざけるなよ……仲間に隠れてしか殴れねえ卑怯者が……。


「……クソ食らえ」


「あ?」


 一瞬、間抜けな顔をしたかと思えば……その眉間に深い皺が寄る。


「カッチーン。カッチーン。カッチーン……カッチーン! カッチーーーン!!」


 怒りの熱を全身にまとい――。


「ミッション発令! 明日までにこの馬鹿を、しっかり“しつけ”とけ! 明日になっても態度が変わってなかったら……連帯責任だ! わかったら返事!!」


 「「「は、はい!」」」


「ま、顔はやめとけよ〜。椎名の腑抜けも、一応は教師だからな。見て見ぬフリができるように……気遣ってやらねえと可哀想だろ?」


 剛場はそのまま自分の席にふんぞり返り、肘をかけて俺をにやにやと見下ろす。


 全身が軋んで、足に力が入らない。


「悪く思うなよ。自業自得だからな」


 耳元にノッポの低い声。


「お前が折れた瞬間に終わりだ。折れなきゃ一生続くからな」

「殴るこっちの身にもなれよな。拳だって痛えんだぞ」


 駄菓子屋でノッポの後ろにいた二人が、吐き捨てるように続けた。


「空気読めない奴は死ね。控えめに言って死ね」

「お前、もう明日から来んな。めんどくせえ」

「むしろ今すぐ東京帰れよ」

「こんだけ嫌われて学校来るとか、頭ぶっ壊れてんだろ」

「足、踏んじゃお……へへへ。走れなくしてやろ」


 女子は全員、視線を逸らしたまま沈黙。

 ただ一人、佳純だけが……氷のような目で俺を射抜いていた。


 そこに、ようやく椎名先生がやってくる。


「こらこら。チャイムはとっくに鳴ってるぞ。いつまで遊んでる」


「あ? 遊んでねえよ?」


 剛場の眼光が、空気ごと椎名先生を押し潰す。


「……そ、そうか。仲がいいのはいいことだが……チャイムが鳴ったら席につけよ」


「へーい」


 不気味な笑みを浮かべながら、軽く手を振る剛場。


 椎名先生は、足を引きずりながら席に戻る俺を一瞬だけ見た。

 ――戸惑いを帯びた瞳が、焦るように逸れた。


 ……そっか。



 二時間目が終われば、また躾けとやらが始まる。


 捕まる前に廊下へ飛び出せば逃げ切れる。誰も俺にはついてこれない。


 でも、しなかった。

 瞬足の翔太が逃げたとなれば、あいつに顔向けできなくなる。


 

 それに、こんなのちっとも痛くねえ。



 剛場は、この中じゃ頭ひとつ飛び抜けた存在かもしれない。

 けど、取り巻き連中なんざ数こそ多いが、一人一人の戦闘力はノミみたいなもんだ。


 ――だから、好きにやらせてやる。


 教室の隅。壁際に押しやられ、ぐるりと囲まれる。


「妙に素直じゃねーか? こりゃ思ったより早く終わるな」

「ぎゃーぎゃーうるせえ奴だと思ったのに、こりゃ傑作だ」

「すぐ折れるようなら死ね! 控えめに言って死ねえっ!」

「誰の許可とって歩いてるんだよ? 踏んでやろ。ぐりぐりぐり」


 三時間目も、同じようにタコ殴り。

 四時間目が終われば給食――。でも、俺の分はよそわれなかった。



 そうくるかと思い、教室を出ようとした、その時。


「……ださ。受け入れるんだ?」


 背後から、静観を決め込んでいた佳純の声。

 振り返るより先に、剛場が何かに気づいたように机をドンッと叩きつけた。


「つまんねぇことしてんじゃねぇよ! 誰だ、やった奴は。出てこい」


 低く、抑えた声に教室の空気が張りつめる。


「三秒数える。名乗り出ねえなら全員、ぶっ飛ばす」


「……さん」

「……に」

「――」


「ぼ、ぼくですっ!」


 名乗り出た瞬間、剛場がゆっくりと歩み寄る。

 巨体が落とす影が、みるみる相手を覆っていく。


 そして、有無を言わせず殴り飛ばした。


「おい、これは虐めじゃねえんだよ? “しつけ”なんだ。わかってんのか?」


 そこへ、椎名先生がおそるおそる口を挟む。


「ご、剛場……ぼ、暴力は……や、やめなさい」


 剛場はゆっくりと首を傾け、薄く笑った。


「なあ先生、チーターに給食がよそわれなかったの、見てたんじゃねーの? 配膳持って、戻して、廊下に出ていく生徒を……普通、見逃すか? なあ、おい? 飛ばしてやろうか?」


 椎名先生の顔色がみるみる青ざめる。


「い、いや……き、気づかなかった……ほ、本当だ……見てたら……注意してる」


「そうか。じゃあ先生、トイレ行ってきていいぞ? 腹、壊してんだろ?」

「あ……ああ、そうだな……」


 椎名先生が教室からでるとすぐさま


「よし、と。歯、食いしばれ。てめえは顔面パンチだ」


 真っ青になり、全身をがくがく震わせ


「ひひひひ、控えめに言って……控えめに言って…………ぼ、ぼく、死――――」


 ドカッ、ベゴッ――! バゴォン!


 一発殴り、吹っ飛んだところを胸倉つかんで、さらに三発叩き込む。

 最後にみぞおちへ蹴りをぶち込み、ひょろい体が情けない弧を描いて後方へ飛んだ――。


 背中から古びたドアに激突。枠ごとガタリと揺れ、ガラスが派手に砕け散った。

 破片が床に散らばり、ざらざらと不気味な音を立てる。


「いいか? もう一回言うぞ? これは虐めじゃねえ。しつけだ」


 廊下に転がったひょろちびは、腕や肩に細かなガラス片をつけたまま、擦り傷からじわりと赤い筋をにじませ、苦しげに震える声を絞り出す。


「は、はい……ありがぐがああっ……ど、ど、ご……ざ……い……ず」


 お礼を言いながら、まだ腰を抜かしたままの姿は狂気そのものだ。


「てめえらもわかったら返事しろ!」


「は、はい!」


 教室に張り詰めた空気が、誰も逆らえない色をしていた。

 剛場がその支配者であることを、全員が思い知らされている。


 その剛場が、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。


「悪ぃなチーター。俺の牛乳やるから、今日のところは勘弁な」


 

 ……恐ろしいものを見た気がした。


 こいつの中に、正義なんてものが潜んでいるなんて――。


















 +


 昼休み、校庭裏に連れて行かれ、袋叩きにされた。剛場の姿はない。

 殴る奴、引きつった顔の奴、笑って踏みつける奴。

 中には、人の痛みを知らないゴミが混ざっている。


「だからてめえは! 足ばっか踏んづけてんじゃねえっ!」

「ぐがっ……!」


 殴り返した手のひらがじんじんする。相手は地面に手をつき、息を荒げた。


 ノッポが小さく吐き捨てる。


「馬鹿が……」


 わかっている。ここで潰しあったって、なんの意味もない。それどころか――。


 火がつくように一斉に怒声が飛んだ。


「このクソやり返しやがったぞ!」

「アホすぎるだろ! 立場ってもんがわからねえのかよ?!」

「東京に帰れよ! 今すぐ! いらねえんだよお前!」

「よそもんが調子乗ってんじゃねえよ!」

「控えめに言って死ねぇ! 死ね死ね死ねぇっ!」


 いつの間にか、先ほど剛場にぶっ飛ばされた奴も参戦していた。血を垂らしながら笑ってるその顔は、まともじゃなかった。



 ……結局、火に油を注ぐだけなんだよ。



「痛い……痛いよ……血、血が! ママに言いつけてやるからな!」



 ……ほらな。






 予鈴が鳴ると、殴る蹴るの手はぴたりと止まる。


「放課後どうする? こいつ、田中ん所の爺さん家に住んでんだろ」

「じゃあせいぜい三十分くらいだな。帰り遅くなって勘づかれたら面倒だし」

「空気読めよ……一秒でも早く家に帰りたいのに」

「死ね死ね死ね! 死ね死ねミサイル!」

「ママに言いつけてやるからな!」


 皆がぞろぞろ教室へ戻る中、ひとりだけ俺の前で立ち止まった。


「もう、わかっただろ。これからずっと続くんだぞ? いいのか?」


 ノッポが問いかける。


「ヘッチャラ」


「……馬鹿が」


 吐き捨てるような声だけ残し、ノッポは背を向けた。


 校庭裏に、ひとり取り残される。

 仰向けに倒れたまま、白くかすんだ空を見上げる。

 呼吸のたびにあばらの奥がきしみ、動くたびに腕や脚のあちこちから鈍い痛みが這い上がってくる。


 ……授業なんか受ける気にならねえ。

 学校に来る意味なんて、あるのかな。そんな考えが、一瞬だけ脳裏をかすめた。


 ……馬鹿野郎。

 こんな姿、あいつに見られたら笑われちまう。


 行かないと。そう思っても、節々の痛みが腰を重くして、なかなか立ち上がれなかった。



「五時間目ってなんだったっけかな」


 不意にこぼすと、意外な声が返ってきた。


「さーんすう」


 佳純だ。


「なんだよ、見てたのかよ」


「うん。最初からずっと」

「はは。そりゃどーも」


 観戦料でも請求してやるか。そう思った矢先、


「なにがおかしいの? なんで笑ってんの?」


「……なにがって、笑えるだろ」


 お前にだけは、笑われてもいい。

 笑ってくれたほうが、まだ気が楽だ。


「ふぅん。約束破っておいて、謝りもしないんだ?」


「……悪い」

「は? それで謝ってるつもり?」


 なんだよ。勘弁してくれ……。


「ごめん」

「違うよね? ごめんなさい、でしょ? 言えよ。早く」


 ……本当に、勘弁してくれよ。

 俺、今、そんな余裕ねえんだよ……。


「ごめんなさい。約束破って。俺は嘘つきです」


「うん。偉いね。格好いいよ、今の君」


「ちょ、なんだよ? やめろよ」


 怒っていたはずの佳純が、急に頭を撫でてきた。


「痛っ」


 避けようとするも、節々が痛くて佳純の手をどかせない。


「いい子ついでにさ、剛場にも謝っちゃおっか。土下座はしなくて済むように頼んであげるから。ね?」


 ……そういうことかよ。回りくどい真似しやがって。


「……できねえ」


 それに、まだ俺には――。手段が残ってる。




「あいつはやるって言ったらやるんだよ。明日も明後日も、君の心が折れるまでやり続ける。一週間後も、一か月後も、君がこの町にいる限り続く。しかも明日、君が折れてなかったらノッポたちはぶっ飛ばされる。わかる? みんな必死になって君を殴る蹴るするようになるんだよ? 今日とは比べ物にならないくらいにね」


「……そっか。そしたら少しは骨のあることになりそうだな。猫ちゃんパンチの応酬じゃ、あくびが止まらなかったぜ。……へへ」


「いいって、そういうの。もうさ、折れるフリしちゃいなよ。それでいいじゃん。よくわかったでしょ?」


 フリってなんだよ……。


「……できねえ」


「誰も見てないって。それにわたし、身の程を弁えた男は嫌いじゃないし。べつに弱いともダサいとも思わないよ。立派だよ」


 ――嫌だ。


「……果たし状だよ。あんなデブ、ワンパンだ」


「ねえ、話聞いてた? それに君じゃ剛場には勝てないよ。誤解してるみたいだから、はっきり言ってあげる」


「…………俺が、負ける?」


 佳純は首を横にし、呆れ顔のまま吐き捨てた。


「もう好きにしなよ」


 そして――。


「嘘つき」


 去り際の一言だけが、今までに聞いたことのない響きで胸に突き刺さった。


 ……話は変わらない。シンプルだ。

 果たし状だ。俺が勝てばいい。ただ、それだけだ。

  



 泥と埃にまみれた服で教室に戻ると、椎名先生は一瞬だけ驚いた顔を見せ、すぐに視線を逸らした。


 そこへ剛場が、にやりと笑って声をかけてくる。


「おいおいチーター? 授業サボって遊んでちゃだめだろ? 先生に怒られちまうぞ? なあ、先生?」


「そ、そうだな」


「え? 授業サボっても怒らねえの? 遅刻だぞ? 遅刻? ……なあ、先生、遅刻って言葉、知ってるか?」


 机をドンッと叩く。

 給食のときとはまるで別人だ。


 ……このデブの中の“正義”がわからない。


 椎名先生が、口ごもりながら言う。


「た、田中……授業の時間には遅れないように」


 先生は悪くねえ。弱いだけだ。弱いことは、悪いことじゃねえ。


「ごめんな、先生。次から気をつけるから」


 椎名先生は苦い顔を見せた。


「だってよ、授業にはちゃんと遅れず来いよ、チーター?」


 釘を刺すような声音だった。


 今はただ、睨み返すことしかできない。……でも明日は、果たし状だ。



 お前がこの中でボスだって言うのなら、一対一の男同士の戦いを断れないはずだ。


 断った瞬間、お前はもうボスじゃない。

 ただのデカいだけの負け犬になるんだよ。


 


 +


 放課後。


「じゃあ、しつけとけ~。田中んところの爺さんに出て来られると面倒だから顔はやめとけよ? それから帰り、誰か送り届けてやれな~? ってことで佳純ちゃん、途中まで一緒に帰ろうぜ~。もうあんな馬鹿のことを気にする必要ないぜ~?」


「……そうだね」


 胸がちくりとした。――なんでかはわからない。

 二人が並んで歩いていく背中を見送るうち、じわりと胸が痛くなった。



「行くぞ」


 ノッポの声がして、背中をぽんと叩かれる。――気にすんな、とでも言うように。



 ……今日はいい。明日だ。


 明日、勝てばいい。それだけでいい。

 話はシンプルだ。


 そしたら佳純との約束だってチャラになる。

 全部、元通りになる。俺は笑って、あいつも笑って――。




 ……果たし状だよ。





















 +


 その日は、佳純がスマホを借りにくることはなかった。

 珍しいな、と思いつつも、胸の奥がちょっとだけざわつく。


 家に帰ると、爺ちゃんはもう風呂に入っていて、居間はテレビの音だけが流れていた。

 靴を脱ぎ、軋む廊下を通って自分の部屋に向かう。

 ドアを開ければ、いつも通り何もない四畳半。机の上には朝置いたままのスマホが転がっている。


 画面には見慣れない通知がいくつか並んでいた。


「……なんだよ、デイリーって。未消化?」


 ゲームか何かのミッションらしい。

 よくわかんねえけど、やらずに置いておくのも気持ち悪くて、つい消化してしまった。


 ドキドキプリンセスと七人の執事。という、聞いただけで頭が痛くなるようなアプリだった。

 暇つぶしには……まあ、丁度よかったかもしれない。


 布団に転がりながら、指先で画面をなぞっているうちに、考えはまた同じところへ戻ってくる。


 四の五のいらねえ。御託もいらねえ。

 勝てばいい。ただそれだけだ。


 なにも考える必要はない。明日、すべてが丸く収まる。

 明日だ、明日。




 ……なあ、常夏。







 +


『登校三日目にしてドンの孫をも配下につけちまったぜ! こいつは子悪党だからな。仲良しこよしってわけにはいかねえ。仕方ねえから右腕にしてやったぜ! 100人の翔太ファミリーがお前を出迎える日は近いかもな』

『ほんっと毎日無理ばっかして! わたしはね、元気な翔太ひとりに会えるだけでいいんだから! 他の人なんていらなーい! ぽいっ』

『ははっ。おまえは最近どうなんよ? プロレスごっこはしてんのか?』

『してない。翔太としたのが最後』

『技に磨きを掛けとかねえと、また俺様に負けちまうぞ?』

『負けたらまた会いに行くからいいもん。冬休みも春休み会いに行くからいーもん!』

『やれやれ。伝説の翔太ファミリーのボスはそんなに暇じゃないんだけどな。来るっていうなら仕方ねえ。もてなしてやんよ!』

『その日だけは翔太を貸し切りにできる?』

『しょうがねーな? 特別だぞ?』

『ふふん。じゃあ特別にわたしのことも貸し切りにしてあげる!』

『はいはいそりゃどーも』

『まったく素直じゃないんだから。嬉しいくせに』


『そ、そ、そんなわけないだろ! う、嬉しくなんかねねねねーよ!!!!』












 +


 登校三日目の朝。

 玄関を出ると、婆ちゃんが腰に手を当て首をかしげていた。


「あら、今日は佳純ちゃんじゃないのねえ……」


 縁側から差す朝の光に照らされて、婆ちゃんの眉間の皺が深くなる。

 ――どうやら、ノッポが俺を迎えに来たらしい。


 昨日の帰りも、俺の後ろをずっとついて歩いて来やがった。まるでストーカーだ。正直、うっとうしい。


 とはいえ婆ちゃんの前で変な素振りはできねえ。


「じゃあ、婆ちゃん! 行って来るな!」

「……うん。気を付けてね」


 何か言いたげな顔で見送ってくる婆ちゃんを背に、俺はノッポと並んで家を後にした。


「つーか道はもう覚えてるから、わざわざ迎えに来なくていいぞ。うっとうしいだけだからな」

「……迎えじゃねえよ。監視だよ」

「は?」

「剛場くんのお達しだ。……お前が逃げないように見張っとけってな」


「逃げる? 笑わせんな」

「……馬鹿が。考えなおせ。今ならまだ間に合う」


 急に両肩をつかまれた。指先が強張っている。


「は?」


 少なくともこいつは他の奴らとは違う。人を殴る痛みを知っている人間だ。


「剛場くんはな、やるって言ったら本当にやる人なんだよ。いい加減気づけよ……これ以上、俺にお前を殴らせるな」


 泣きそうな目だった。俺のことをよそ者と嫌っているはずなのに、どうしてそんな顔ができる。


「俺のこと嫌いなんだろ?」


「嫌いだからって、お前を殴っていい理由にはならない。当たり前のことだ」


 ――ここまでわかってる奴が、暴力を振るう。


 だったら、なおさらやるっきゃねえ。


「知らね」


「どうしてお前ってやつは……」


 沈黙が重く落ちたあと、ニヤリと笑ってやる。


「ちなみに、お前のへなちょこパンチな、ちーっとも痛くねえかんな。いっちょ前に罪悪感なんざ覚えてんじゃねえよ。おこがましいんだよ、雑魚が」


「……馬鹿が」


 そしてまた、小さく吐き捨て――。距離をとって後ろを歩き出した。





 教室についた俺は、迷いなく剛場の席へ向かった。

 取り巻きが進路を塞ぐ暇も与えず、真っすぐ、駆け足で――。


「剛場ぁぁあ!」


「あ?」


 席にふんぞり返ったまま、俺を見上げる。


「果たし状じゃあああ!」


 机の上に叩きつける。

 紙がバサリと跳ねた瞬間、剛場は椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がった。


「てめえら! しつけはどうなってやがる?!」


 俺には目もくれず、ノッポの胸ぐらを掴むと、ためらいなくぶっ飛ばす。

 鈍い音を立ててノッポが床を滑った。


「この野郎ッ!」


 飛びかかろうとしたその時――。足首を掴まれた。

 振り返れば、倒れたままのノッポが必死に腕を伸ばし、首を横に振っている。

 額に汗を滲ませ、まるで「行くな」と全身で訴えていた。


「離せ!」


 必死に足を振り払おうとするが、その手は決して離れない。


 剛場は俺に構うことなく、取り巻きの方へ詰め寄った。


「来いよオラァ!」


 ――完全に視界から外された。狙いは、俺じゃない。


 剛場は、取り巻き共を殴る蹴るしていた。


「連帯責任っつったよな? ああ?! てめえらこんだけいて、しつけすらできねえのかよ! やり方をよ、俺が直々に教えてやるよ!」


 さっきまで俺を痛めつけていた奴らが、今は無抵抗でぶん殴られている。

 ノッポまでもが、俺の足首を放して立ち上がった。


 そして、ふてぶてしい笑みを浮かべたまま言う。


「よく見とけ。お前のせいで、今日から毎日、これが続くんだ」


「……は?」


 そう言い残し、殴られに行くように剛場の前へ歩き出すノッポ。

 果たし状は、床の上で踏まれていた。


 ――なんだよ、これ。


 ……なんだよ?!


 ただ、そこに立ち尽くすしかなかった。


 鼓動の音だけが、やけに大きく響いている。

 視界の端で誰かが息を呑む。


 気づいたときには、剛場の“しつけ”はもう終わっていた。


「朝の会はいなくてもいい。一時間目までに戻って来い」


 低く、怒気をにじませて告げると。

 すぐさま「……はい」と、小さく答えた。


「行くぞ、転校生」


 痛みに顔をしかめ、腕を押さえる者。

 足を引きずる者。肩で荒く息をする者。

 全員が満身創痍のまま、苛立ちを引きずりながら教室を出ていく。


 通りざま、ノッポが俺の背中を軽く叩いた。


「……ここから先は、地獄だぞ」


 その背中は「来るな」と告げていた。


 床に落ちた果たし状が目に入る。拾い上げた瞬間、喉の奥が熱くなる。――こいつは卑怯者だ。


 挑まれた勝負から逃げるなんて、許されるわけがない。


 ――そうだよな? よっちゃん先生。


 だから俺はノッポに背を向け、踏み出す。


 そして――。


「戦えよ! 逃げてんじゃねえぞ、クソデブ!」


「あ? ああ?! お前らぁぁああああ!」


 剛場の怒号が、瞬時に教室を震わせる。

 廊下へ出ていたはずの取り巻きが、獣のような勢いでなだれ込んできた。


「なにやってんだよ! お前何見てた?」

「お前はこっちだろ? 脳みそついてんのか?!」

「死ね死ね死ね死ねよお前!」

「空気読めねえなら学校来んな! 死ね!」

「帰れよ? 今すぐ下校しろ!」

「この足を潰すまで、俺は何度でも踏み続ける!」


 ノッポの言葉は、最悪の形で現実になる。


 本当の地獄が、始まった――。







 +


 朝から校庭裏に連れて行かれた。


 どいつもこいつも剛場にやられてボロボロのくせに、昨日までとは明らかにパンチの重みが違う。

 顔つきも、目も、構えも。すべてが変わっていた。


 ……でも効かねえよ。

 こんなの、あいつのパンチに比べたら痛くもねえ。

 布団叩きの棒以下だ。


 おまけに言葉も――。


「仲良くできねえなら帰れよ!」

「お前、嫌われ者の自覚ある?」

「なんで引っ越してきたんだよ? いらねえんだよ!」

「死ね死ね! 死ねーッ!」

「歩けなくしてやる! 踏んづけてやる!」


 ……効かねえよ。

 悪口のセンスがねえ。鬼を見習えっての。あいつは俺の存在を、何度も何度も否定してきた。何度も何度も何度も――。


 それに比べりゃ、帰れ? 死ね? ……くだらねえ。

 同じことばかり繰り返しやがって。壊れたオウムかよ。



「だからお前は! 足ばっかやってくんじゃねえっ!」

「ぐががががががあああああ!」


「あ、諦めない……お前の脚を……壊す!」


 昨日までとは違う。

 鼻血が出たくらいじゃ泣きもしねえ。

 剛場の“しつけ”で、痛みにはもう慣れちまってるんだろうか。


「壊す壊す壊す! お前の脚ぃぃぃぃいい! 壊してやるぅぅう! ペェグシビャアアア!」

 


 ……だめだこいつ。壊れてやがる。




 …………やるっきゃねえ。あいつは俺との一対一の勝負を避けてやがる。だったら、こっちから作ってやるまでだ。

 闇討ちでも奇襲でも、卑怯だのなんだの言われようが関係ねえ。


 邪魔が入らない場所で、ぶっ潰す。








 +


 それから一週間、好機をうかがい続けた。

 けれど剛場がひとりになる瞬間なんて、ただの一度もなかった。


 休み時間は取り巻きが机を囲み、トイレに立てば必ず二、三人がついて行く。

 放課後は決まって佳純と帰って、俺は校庭裏に連れて行かれる。


 一人になるのが怖い、臆病で卑怯なやつ。


 そのせいで、苛立ちは日ごとに増していく。

 このままじゃ永遠にチャンスを逃す。そんな焦りが胸の奥をじりじりと焼いた。


 そんな日々の中で、ドキプリ執事のデイリーを消化して、特にやることもなく机に突っ伏していると、スマホが鳴った。


 常夏からのメッセージかな……と思ったが、聞き覚えのない着信音だった。


 画面には、――着信中〈常夏花火〉。


「ちゃ、着信?!」


 初めてのことに持っていてスマホを落としそうになるも、既んでのところでキャッチして、息を整いて通話ボタンを押す。


 間髪入れず、受話口から飛び出すように――。


「翔太っ!」

「お、おう……」

「ふふんっ、翔太っ!」

「……お、おう?」

「なーにしてんの?」

「べ、べつになにもしてねーよ! て、天井眺めてた……かな」

「そーなんだ! じゃあいっぱい電話できるねっ!!」


 電話口の常夏は普段聞きなれない声で妙に甘えてくる感じだった。

 どうにもそれが慣れなくて、たじろんでしまう。


 電話は苦手だ。と思いつつも、何故かこいつの声を聞くと元気が出た。


「ねえ、昨日の夕飯はなに食べたの?」

「マグロの煮つけ」


 話す内容はあってないようなものだった。


「そっちはなに食べたの?」

「えーっとね、……何食べたんだっけ?」

「いや、俺に聞かれてもわかるわけないだろ!」

「もーう。翔太にはもっとわたしを知ってもらいたいのに!」

「む、無茶言うなよ! わかるわけないだろ!」


 他愛もない、安らかな時間。でも――。


「なあ、上級生にさ、卑怯な奴がいてよ。俺とサシで戦おうとしないんだよ。いつだって取り巻き使ってガードしてきやがる」

「また喧嘩の話? しかも上級生?! もうやめなよ!」

「俺様っつったら最強だからな。敵がいない平和な日っつーのは簡単に訪れないのよ」

「……バカ。でも翔太なら脚が速いんだから、追いかけっこすればいいんじゃない?」

「追いかけっこ……」

「みんな疲れて、最後に残るのは翔太だけ!」


 考えもしなかった。


「す、すげー……」

「ふふんっ。翔太のことなら任せない! だから昨日のわたしの夕飯がわからなかった翔太は罰ゲーム決定!」

「いやだから! わかるわけねーだろって!」

「好きっていってごらん?」

「は、はぁ~?!」

「なに? 罰ゲームなんだよ? べつにいいでしょ。罰ゲームなら!」

「む、む、む、無茶言うなよ!」

「まったくもう、照れちゃって!」

「て、て、照れるとかじゃねーの! そそそそそそういう問題じゃねーの!」


 勝利の女神だと思った。


 これで剛場をぶっ倒せる。


 そしたらお前と、夏休みに会える。


 そしたらお前に、好きって……伝えられるかな。


 この日が――。常夏と連絡を取った、最後の日になった。












 +


 さっそく翌日の昼休み。校舎裏に連れて行かれた俺は走った。走った。とにかく走った。


「逃げてんじゃねえよ!」

「こんなところ剛場くんに見られたら、やばいって」

「やべーよやべーよ……こいつまじはえーよ……」

「死ね死ね!逃げるなー! 控えめに言って死ねー」

「踏ませろ! 足踏ませろ! 踏ませろ踏ませろ踏ませろーッ! アジャバグビャアアア!」


 ひとり、またひとりと脱落していく。皆が息を荒げて校庭に横たわる。


 勝者だけが立つことが許される。


「鬼さん、こちら」


 小さく言って、懐かしむ。


 そうだ、俺は瞬足の翔太だ。この中の誰よりも脚が速い。


「……剛場、覚悟しとけよ」


 そして教室へと向かう。


 何度も通ったはずの廊下が、今日だけは――。この瞬間だけは、違って見えた。

 心臓が、さっきからうるさいほど鳴っている。

 靴底が床を踏む音さえ、やけに響く。


 ウイニングロード。……ははっ、もう勝った気になってやがる。


「いや。勝つんだよ」


 負けるわけがねえ。

 今日だけは、絶対にな。


 廊下を歩きながらも、まだ胸の奥がドクドクしている。

 そして、教室の引き戸を開けた瞬間――。目に飛び込んできた。


「でさでさ佳純ちゃ~ん!」

「……そーだね」


 鼻の下を伸ばして、間抜け面で笑うデブ。佳純の机に肘をつき、やたら距離が近い。


 胸の奥が、ちくりと突き刺された。

 一瞬で全身が熱を帯び、まるで血が沸騰して耳まで真っ赤になる。

 この感情の正体はわからねえ。だが今だけは、こいつに感謝してやる。


「剛場ぁぁあああああ!」


「あ?」


 完全に一対一が出来上がった。

 俺は信じて疑わなかった。自分の勝利を疑っていなかった。


 助走をつけ、机の上を蹴って駆ける。机の天板がガタガタと揺れ、教室中の視線が一斉に集まる。


 剛場の瞳が、わずかに揺れた。


 ――今だ。


 机の端を踏み込み、反動で体を浮かせる。

 視界が一瞬、天井だけになる。


 そのまま、全体重を乗せて爆裂ドロップキック! ――お前の十八番シリーズ、今日だけ借りるぜ!


 膝から先が、肉を叩き割るみたいに剛場の胸に沈む。

 鈍い衝撃が足の骨を通して伝わってくる。手ごたえは十分。


 剛場の身体が大きくよろめき、そのままずどんと床に沈んだ。


 間髪入れずにマウントを取る。

 両膝で胴を押さえ込み、拳を振り下ろす。


「剛場! 剛場! 剛場ぁぁぁぁぁぁ!」


 殴る。頬が揺れる。

 殴る。皮膚が赤く腫れあがる。

 殴る。拳が熱を帯びて、感覚が薄れていく。



 ……なのに。


 未来が、一瞬で指の隙間からこぼれ落ちる。



 あろうことか、剛場は悠々と上体を起こし、そのままの勢いで俺の身体ごと吹っ飛ばした。


「痛ってーな! 突然なにしやがる? せっかくの佳純ちゃんとのトークタイムを邪魔しやがって!」


 すぐさま構え直す。

 けど――。目の前の剛場は、まるで効いている素振りがない。

 頭の中が一瞬で真っ白になる。


 何発殴った? 全力パンチだった。それだけじゃない。

 ドロップキックだって……間違いなく入った。


 ……あれ?


 剛場が首をいち、にと左右に捻る。

 骨がバキバキと、やけに大きな音を立てた。


「あいつらはどうした?」


 その声に、思わず一歩下がる。


 ……ああ。そうか。


 思えば俺は、ただの一度も真正面から戦ったことはなかった。

 癖を読み、怒りを誘い、カウンターや不意打ち。そればかり。


 しかも、あいつとは体格がほとんど変わらなかった。

 でも、このデブ……何キロある? 背も俺より十センチは高い。


 まともにやったら、勝てねえ。

 目つぶしか、金的か……それとも噛みつくか……。


「どうした? もう終わりか? 佳純ちゃんとのトークタイムに戻ってもいいか?」


 現実は残酷だった。

 剛場は、そもそも俺を相手として見ていなかった。


 そうだ――。俺は常夏と互角じゃない。

 全力で正面からぶつかれば、何度やっても負けた。

 一度だって、勝てたことなんてなかっただろ……。


 俺は常夏よりも、ずっと弱い。


 でも、だからって――。

 ここまで来て引き下がれるか。

 ここで下がったら、もう二度と、お前に……。


「う、……あああああああ!」


 渾身の声とともに前へ踏み出した、その瞬間――。

 背後から何かが飛びつく衝撃。両腕が胴体をがっちりと締め上げた。


 振りほどこうと暴れると、耳元で息がかかる。


「やめろ! やめろ!」


 ……ノッポだった。


 もがく俺をよそに、剛場がちらりとこちらを見た。


「終わりだな。んじゃ俺は、楽しい楽しいトークタイムに戻るぜ。――佳純ちゅわぁあああん!」


 ……ふざけるな。


「離せ! 離せよ!」

「もういい。もういいんだ!」

「なにがいいってんだ?! 邪魔すんな!」

「最初から見てた!」


「……は?」


 振り返ると、ノッポが泣いていた。


「止められたのに、俺はお前に期待した。もしかしたらこの地獄が終わるかもしれないって。⋯⋯⋯⋯思ってしまったんだ……」


 ぽろぽろと涙が落ちる。腕に込められた力は弱まらないまま、声だけが震えていた。


「だから……俺のせいなんだ。このままお前を行かせて、剛場くんにぶっ飛ばされたら……俺が止めなかったせいで、お前がズタボロになったら……全部、俺のせいなんだ……」


「べつに、お前のせいには……」


 わかってる。ここから先は、ただの自殺行為だ。

 勝てる要素なんて、ひとつもない。


 それに――。


 ――卑怯者は、俺のほうだったんだ。



 立ち尽くしていると、剛場と目が合った。


 剛場が、困った顔をしていた。

 ノッポの声も俺の声も全部聞こえている。


 違う。あれは困ってるんじゃない。

 哀れみ、同情……俺が一番欲しくなかった顔だ。


 ネオン街の仔猫……。

 胸の奥で、何かがきしんだ。


「ノッポ。お前とは埼玉で出会いたかったよ」


「……なんで、埼玉」

「なんでも」


「てかノッポって誰だよ」

「知らねえ」


 俺たちは、校庭裏へと戻って行った。


 俺たちの間にあるのは、しつけ――。ただそれだけだ。








 +


 さらに一週間、二週間。時間が過ぎれば過ぎるほど、地獄は当たり前になった。

 殴られ、蹴られ、罵詈雑言。

 それでも朝は来るし、授業は始まる。

 昼になれば腹は減るし、昼休みになれば校庭裏だ。放課後になれば、また校庭裏だ。


 ――そうやって、己の無力と、どうにもならない現実だけが、ただ延々と続く。



 でも――。今日だけは違った。

 放課後、いつものように校庭裏へ連れて行かれ、いつも通りフルボッコにされ、土の冷たさを背中に感じながら、ひとりで空を仰いでいた。


 まぶしい西日が、じりじりと顔を焼く。

 視界の端で、風が土埃を巻き上げ、影がひとつ俺の上に落ちた。


 その中で、垂らされる一本の蜘蛛の糸。


「珍しいお客さんだ」

「なに、その言い方?」


「ははっ。笑えよ。笑えって。頼むから……」


 俺はこいつに笑ってほしかった。

 嘘つきで、約束を破った哀れな男の末路を見て、せめて笑ってほしかったんだ。


「笑えないよ。ちっとも」

「そっか。そりゃ、残念だな」


「もう懲りたんじゃない?」

「……どうだかな」


「あーあ。これはちっとも懲りてないって男の顔だ」

「……はは、バレちまったか」


 そこで会話は途切れた。五秒、十秒……一分。

 どれくらい経ったかもわからない。俺は身体を起こすのも面倒で、ただ雲を見ていた。


 こいつと一緒に帰るのは、今はもう気まずい。

 間が持たない。だからただ、空だけを見て、足音が遠ざかるのを待った。


 気づけば、すっかり日は落ち、校庭裏の空は群青に染まっていた。

 そのとき、ぽた、と顔に何かが落ちてきた。


 雨かと思った。けど――。


「……ねえ、もうやめてくれないかな?」


 震えを帯びた声。

 視線を合わせられず、言葉が消えた。


「…………」


「お願い……」


 声も、肩も、小刻みに揺れていた。


「…………」


「わたしのためにやめてくれないかな? もうこれ以上、君がボロボロになる姿、見たくないよ……」


 その言葉は耳じゃなく、胸の奥にずしりと響き、息が詰まった。


「わたしのために仕方なく剛場のいいなりになるの。君の望むことなら、なんだってするよ? だからわがまま、聞いてよ……お願い……」


 これは蜘蛛の糸なんかじゃない。


 掴んだ瞬間、すべてが終わる。

 地獄も、傷も、過去も。なにもかも。……なにも、かも――。



 ――この手を掴んだら、きっと毎日が楽しくなる。


 ノッポの奴と一緒に剛場の陰口を叩いたりなんかして笑ってさ、学校帰りに駄菓子屋に寄って、ブタメン取り合ったりして。

 そこに佳純が現れて、とんこつ味は好きじゃないなんて言い出して、俺とノッポが目を合わせて言うんだよ「わかってねえ~な」って。


 佳純が『スマホ貸して』って毎日、俺ん家に来てドキプリ執事やってさ。

 たまに俺がデイリー消化しておくと「ありがとう」なんてお礼言われたりしてな。

 婆ちゃんの飯は毎日美味しくて。爺ちゃんの舟に乗って一緒に漁をしたりもしてさ。


 んで。


 釣った魚で婆ちゃんが最高の料理を作ってくれるんだ。

 

 俺が釣った魚だーなんて言って、佳純とノッポに振る舞ったりしてさ。


 もう、あざが増えることもない。

 鏡を見ても、青痣も切り傷もない。

 笑って寝て、笑って起きる。


 ……そんな日々が当たり前になる。


 ――そして、俺は剛場の取り巻きの一人になる。




 …………そこにはもう、お前はいない。










 ……お前だけがいない。










 ……常夏。












「……できねえ」


 どうしてだろう。

 どうして、この子は泣いてくれるんだろう。


「……約束したのに……したのに!!!!」


 こんな俺のために……。

 なのに、どうして。止まれないんだろう。


 スマホは電池が切れたまま、机の上でほこりをかぶっている。

 あいつと俺を繋ぐものなんて、もうどこにもない。


 このまま剛場に逆らったところで、あいつに続く道は閉ざされている。

 あの日、一対一の勝負に負けた日。すべてが終わったはずだ。


 それなのに、どうして――。


「こんなことしたって、どうにもならないよ。……もうやめようよ。やめてよ……やだよ……もう……君の傷つくところ……みたくないよ……お願いだから……」


 視界の端で、雫がぽたぽたと落ちている。

 土に黒い染みをつくりながら、じわじわと広がっていく。

 


 どうして俺は、止まれないんだろう。



 それさえも、もう――。わからない――。





「……できねえ」





























 +



 あの日、佳純の手を取らなかった日から一か月が過ぎた。


 朝の光はやけに白くて、冷たかった。

 窓から差し込む陽が、ただ肌を刺すように痛い。


 学校に着くと廊下からはいつもの笑い声や、靴音、チャイムの予鈴。

 誰かが「おはよー!」と叫ぶ声も聞こえる。


 ――俺の教室だけが、違う世界みたいだった。


 自分でもわからないうちに――。

 気づけば、日々、少しずつ削られているようだった。


 剛場がにやにやしながら言うんだよ。


「もう少しって顔してんな? さっさと落ちちまえ。らくになるぜえ」


「……うるせえ」


「食いたいもん考えとけよ。お前が落ちたら好きなもん腹いっぱい食わせてやるからな。好きなゲームもやらせてやるよ。早く遊ぼうぜ~」


 こいつはもう完全に、俺を玩具かなにか……いや、犬だな。そんな風に見ている。


 そして上機嫌に、剛場が指を鳴らす。


「よーし、お前ら並べ! 一人十発ずつなあ!」


 剛場の“しつけ”は、朝一番に始まる。

 その恨みも苛立ちも、ぜんぶ俺に向けられる。

 ――さしずめ、一日分のエネルギー注入ってやつだ。


 そんな中――。ノッポだけは笑っていた。もう正気じゃないのかもしれない。


 ごめんな。お前まで壊したくなかったのに。

 お前は優しすぎるからな。耐えられるわけねえよな。……わかってたのに。


 

 俺さえ折れれば、誰も殴らない。誰も壊れない。誰も泣かない。わかっているのに――。


 それでも止まれない俺こそが、もしかしたら――悪、なのかもしれない。






 そして――。

 それからさらに一か月。地獄は日常に。日常は地獄に。もはや、なにが当たり前かわからなくなっていた。


 そんな中でまた――。一本、蜘蛛の糸が垂れてきた。


 今度は、本物の“歪な糸”。



 その朝、教室の空気が妙だった。

 この頃の剛場と言えば、決まって不機嫌そうな面をしているのに、今日は何故か満面の笑みで、しかも拍手までして俺を迎えた。


 乾いた音がやけに響く。――場違いすぎて、胸の奥がざわつく。


「感服したぜ~。お前はきっと明日も明後日も、それこそ夏休みに入っても根を上げねえだろうな。そんなお前だからこそ、特別ミッションを発令してやる」


 なにもない毎日だった。殴られ、蹴られ、ただそれだけの繰り返し。

 悪いたくらみが透けて見えても、耳を傾けずにはいられない。


「それ、クリアしたらどうなる?」


「お? 内容よりも先に報酬が気になるってか? いいじゃんよお! 見事クリアできたら、認めてやるよ」


 心臓が跳ねる。


「……認めるって、どういう意味だよ?」


「言葉どおりだ。男として認めてやる」


 耳の奥まで脈が響く。


「お前が、俺の下につくのか?!」


 剛場は吹き出した。


「だあーっははははああああああ!」


 苦しそうに腹を抱えながら、言った。


「俺はよ、嘘はつかねえんだ。例えクリアできねえミッションだとしても嘘だけはつかねえ。お前の下につくことは絶対にねえ!」


 ほんの一瞬でも期待した自分が、笑えてくる。


「……じゃあやらね」


「まーまー、聞けって。対等だ。仮に俺がボスだとしたら、お前もボスだ。それでどうだ?」


「……俺が、ボス?」

「ああそうだ。お前はボスだぜ!」


 その瞬間、世界の音が消えた。


「おっ、やるって面だな?」


 剛場の口角がさらに上がる。


「いいぜ。ミッションは度胸試しの、ひもなしバンジーだ!」


 息を呑む教室に、剛場が叫ぶ。


「飛べたら認めてやる! さぁ、どうする? やるっきゃねえよな?! おいっ!」


 教室の空気が、ぐらりと揺れた。


 そのとき――。ノッポが机を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。

 椅子がガタンと後ろに倒れ、金属の脚が床を引っかく嫌な音が響く。


「ダメだよ剛場くん?! このバカ本当に飛んじゃうよ?!」

「うるせえな! 本当に飛んだって死にはしねえだろうが、口ごたえしてんじゃねえ! 今いい所なんだからよ!」


 へえ……そっか。

 死ななくて、いいのか。


「……いつ、どこへ行けばいい?」


「だめだ、行くな!」


 ノッポが机越しに俺の肩を掴む。


 俺は静かに首を振った。


「……馬鹿が」


 ノッポが小さく言った瞬間、剛場の拳が横から突き抜けた。身体が机ごと吹っ飛ぶ。


「だからうるせえっての!」


 床に転がったノッポの顔面を、剛場がためらいなく蹴り上げた。鈍い衝突音が響き、頭が横に跳ねる。


「ぐっ……がっは……」


 重く、くぐもった声が漏れる。

 

 ……ノッポ。ごめんな。いつも。


「……なあ、俺がボスになったら、こういうのは金輪際やめるって約束できるか?」


「あ? なんだそれ」


「今、蹴っただろ」


 一瞬、剛場が目を細める。すぐに、腹を抱えて笑い出した。


「あははは! いいぜ、やめてやるよ! でも飛べなかったら、お前、今後は俺の言うことを全部聞け。この町に居る限り、ずっとだ。いいな?」


「ああ」


「よっしゃ! 決まりだ決まり! ギャラリーは多いほうがいいからな。明日の放課後はあけとけよ! 鎮ヶ瀬橋しずがせばしに集合な!」 



 鎮ヶ瀬橋。


 それが明日飛ぶ橋の名前か。


「……ははっ。知らね。どこだよそこ。初めて聞いた」













 +


 夜。自分の部屋。

 カーテンの隙間から月明かりが差し、机の上でほこりをかぶっていたスマホが淡く照らされていた。


 いつからだったか。前を向くのをやめていた。

 殴られて蹴られても、ただ下ばかり見ていた。


 ……でも今日は違った。


 どれくらいぶりだろう。スマホを開くと、未読の通知が雪崩のように溢れた。


『翔太、どうしたの? スマホこわれちゃった?』

『ねえ、翔太、連絡ちょうだい』

『やだよ、翔太。居なくならないでよ』

『ねえ、わたしなにか悪いことしたかな? 謝るから戻ってきてよ』

『ごめんね翔太……ごめんなさい……』

『ねえ、翔太。やだよ。やだ……』

『連絡して……翔太がいないとわたし、生きていけない』


 ……………………………


 ……………………………


 ……………………………


 そして一番上に、最後のメッセージ。


『好き。本当はずっと翔太のこと好きだった』


 ……バカだな。そんなの、知ってるに決まってるだろ。

 本当にバカだな、お前は……。


 俺もお前が好きだ。

 大好きだ。


 ――そう打ちかけて、指を止めた。


 今じゃない。

 今の俺はまだ、お前の隣を歩ける男じゃない。


 でも、大丈夫。

 もうすぐだ。もうすぐ、そこまで行く。


「……もうちょっと待っててくれな、花火」


 ただ、飛ぶだけでいい。

 話はシンプルだ。


 最初となにも変わらない。



 今度は間違わない。……絶対に。


 



 なにが、あっても――。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る