鹿児島編
第18話 じゃーん! 佳純ちゃん登場っ!
鹿児島編へと突入します。
+――+
「やっべぇ! 父ちゃん見てみろよ、雲の上だぞ?! 俺ら飛んでんぞ!!」
「……そうだな。こうして翔太と一緒に空を飛べて父さんは……父さんはな……」
「おいおい、父ちゃんよ? そうやってすぐにしんみりするのはやめようぜ? な? 空の旅、超楽しい! いえーい! だろ? ほら言ってくれよ、いえーい!」
「お、あ……い、いえ……ーい!」
「お、おう。なんか無理させちまったみたいで、ごめん……」
「……あ、ああ、そ、そう見えたか? す、すまん。ま、まあ何か欲しいものがあれば遠慮なく言うんだぞ。機内食のお菓子やジュースも好きに頼んでいいんだからな」
「ん? だからいいって食いもんは。プリン食ったからしばらく何もいらねー。つーかもう、おなかいっぱい! へへ」
まさかこんなにも笑顔で鹿児島へ行けるとは思ってもいなかった。
――最終戦績、一五六勝一五〇敗。
最後の勝負は本気でぶつかった。
ちゃんとお別れをして、再会を誓った。
大粒の雨が止むと、どちらからともなく言葉もなく、お互いほんの少しだけ「ふっ」と、気まずそうに笑って、拳をそっとぶつけて――。
俺たちはぶつかった。
いままでで一番激しかったかもしれない。
そんで俺は勝っちまった。
あいつは悔しそうにする素振りも見せず、何度目かわからない言葉を、最高の笑顔で言った。
「勝ち逃げは許さない」
……まったく。ふざけた野郎だよ。
この期に及んで、わざと負けやがって。
おまけに、お、俺に――。ぷ、プリンを「あーん」とかしてきやがってからに……!
ほ、ほんとに、困ったやつだよ。
ま、まあ……だから、あれだな。あれだよ、あれ。
負ける必要なんてなかったんだ。あいつは負けず嫌いだからな。
俺が勝ち続ける限り、どこかでまた、いつか。……必ず会える。
俺とお前は戦友で、宿敵と書いて『トモ』だからな!
でも――。
ひとつだけ、嘘をついてしまった。
なんで、あんな嘘をついたのか。
……まあ、日頃から嘘ばっかついてるからな。身から出た錆ってやつだ。
……違うな。今回ばかりは、望んじまったんだ。
お前と、もっと話していたいって。
少しでも、お前を近くに感じていたいって。
だから、正直に話すっきゃねえ!
「と、父ちゃん」
ポケットで握りしめていた紙切れを、勢いよく差し出す。
「こ、これ! と、常夏の……で、電話番号! 聞いたんだ……!」
「おっ、連絡先交換したのか! 気軽に会える距離じゃないけど……翔太が望むなら、こうして飛行機に乗って、旅行になるが……帰ってくることだってできるんだからな」
「お、おう……でも、そうじゃねえんだ。お、お、俺!」
「どうしたんだ……?」
「す、す、す……」
「す……?」
「っっス――。マホが欲しいんだ!!」
「……まったく。改まるから何かと思えば。そんなことか」
なんだよ、その呆れ口調……くっ、だめだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
常夏と約束したんだ。連絡するって、約束しちまったんだ。スマホ買ってもらえるって、言っちまったんだよ!
「頼むよ。そこをどうにか父ちゃん頼む……! 一生のお願いだ。俺、大きくなってバイトできるようになったらスマホ代も通信費も、全部ぜんぶみんな必ず返すから……! 買ってくれなんて言わねえ。貸してくれ……頼む……!」
「翔太……なにを馬鹿なことを言ってるんだ。返すとか借りるとか、そういう寂しいことは今後一切言わないと約束しなさい」
「で、できねえ。スマホがないと、スマホがないと、俺……。頼むっ。必ず返すから! 後生だよ、父ちゃん……」
「……スマホは買う。最新の一番いいやつを買おう」
「え……?」
「でも、貸すとか借りるとかじゃないんだ。いいか、翔太。欲しいものは“欲しい”って言えばいい。それだけのことなんだよ」
「と、父ちゃん……! わかったよ! でも俺、一番安いのでいい! ネットも見ない。メッセージさえ使えればそれでいいんだ!」
「翔太……。まったく、お前って子は……空港についたら携帯ショップに行くぞ」
「おぉ! サンキュー父ちゃん! 恩に着る!」
「恩だなんて言うのはよしなさい。……家族なんだから」
「ん? わかった! よくわかんねえけどサンキュー父ちゃん!」
良かったぁ。けど父ちゃんってばやっぱ、ところどころ変なんだよなあ。なーんか会話に穴がある感じ⋯⋯。まあ、細かいことはどうでもいっか! これで離れていても常夏と連絡が取れる!
やったぜ!
+
鹿児島の空港に着くと、なんだか季節が変わったような気がした。
暖かい風が肌をなでて、遠くの山がぼんやり霞んで見える。
ここがもう埼玉じゃないって、嫌でも実感してしまう。知らない土地。知らない匂い。ほんの少しだけ、胸の奥がざわつく。
でも――。
そんな気持ちに浸るよりも、初めて鹿児島の地に降り立ったことよりも――。
俺の頭の中はスマホと常夏のことでいっぱいだった。
「と、父ちゃん! 行こう。携帯ショップへ! さぁ、行こう今すぐに!!」
「ははは、まったくもう。スマホは逃げたりしないから大丈夫だぞ」
「いいから早く、父ちゃん!」
そんなこんなでタクシーに乗って連れて行かれたのは、大っきな電気屋だった。
店に入るとすぐ、スマホコーナーがドーンと構えていて俺のテンションは最高潮!
もう飛びつくみたいに駆け出して、
「こらこら、危ないから走るんじゃない」なんて父ちゃんに言われてもおかまいなし。
「父ちゃん、こっちこっち!」と急かして、ズラリと並んだ実機に手を伸ばす。
「す、すげー……!」
興奮しながらいろんなスマホを触っていたら、ふと気づくと、父ちゃんと店員さんが真剣な顔で話してた。
なんか……もう、話まとまってる……?
まさか……え、ちょっと待て。もう買う流れになってる?! 早くね?! たぶんまだ二分も経ってなくね?!
なんて思っていると案の定――。
「では、こちらへどうぞ〜」
店員さんの爽やかな笑顔とともに、まさかの奥の契約ブースへ案内されてしまう。
そしてまた――。
二分と経たずに、俺は驚愕してしまう。
「に、に、二十四万?! こ、こここ、こんなのいらねえよ!! あそこ! あそこの看板に書いてある一円スマホってやつにしよう! 決まりだ、決まり!」
「翔太、スマホはなハイスペックなものを使っておけば間違いないんだ。見てみろ、これ。縦折りで画面が二つ。タブレットサイズにもなるんだぞ?」
「い、いらねえって! お、俺はメールができりゃそれでいいんだ!」
「なあ、翔太。父さんのわがままだと思って、もらってくれないか? 翔太から何かをせがまれるなんて……思えば、初めてじゃないか」
いや、まあ。今朝は唐揚げせがまれて、あげたけどさ?! わらしべ長者にしてもこれはやり過ぎだろ!
こんなのは絶対の絶対にだめだ!
「無茶言うなよ! そうだ! 昔父ちゃんが使ってたお古のスマホでいいよ! あんだろ? べつに今日じゃなくてもいいから! それにしよう。よし帰ろう父ちゃん、今すぐに!」
「こらこら、じっとしてなさい」
「だ、だめだ父ちゃん……! だ、だめだああああ! 帰る、帰るんだああああああ!」
その様子に、店員さんが苦笑しながら言った。
「将来は勘定奉行にでもなりそうな立派なお子さんですね! それとも会計士さんかな?」
適当なこと言いやがって……! 父ちゃんをそそのかしやがってからに!
「もういい帰ろ…………いや、ちょ、待てよ? あそこに0円って書いてあるぞ! ぜ、ぜ、ゼロ円スマホ?!?! そんなのもあるのか?!」
「こらこら、静かにしないと託児所コーナーに閉まっちゃうぞ? あーもう閉まっちゃおうね」
「と、とうちゃあああああああああああん」
+
願いは虚空へと消えていき、勘定奉行の完全敗北で幕を閉じた。
俺たちは、電気屋の自動ドアを抜けた。
来るときはあれほどまでに夢希望未来に溢れていたのに、今はもう絶望しかない。
さっきから手が震えて止まらない。……やべぇ。やべーって……。
まるで生まれたての仔猫でも抱えるように、両手でスマホを持ってしまうのは当然のことだった。
「落としたり壊したりしても父さんは怒ったりしないから。それに保証にも加入しているから、翔太が心配するようなことはなにもないぞ? だからそんなにおっかなおっかな持たなくていいんだ。なっ?」
父ちゃんは、横で優しく言った。
いつもの調子で、さも当然のように。
「ほ、保証ったって……。……こ、これ……に、に、に、二十四万円だぞ?!」
声が裏返った。もう一回言っても信じられない金額だ。
「いいか、翔太。それにはもう二十四万円の価値はない。購入して手に取った瞬間に中古品になるんだ。だからもっと気楽に使いなさい」
中古品……? そ、そんな考え方あるか?
「そ、そうなのか……ちゅ、中古品。って、いくらくらいなんだ?」
「もう気にするな! 男だろ! 今の翔太を常夏さんが見たらきっと笑うぞ?」
「……うっ。そ、そうだよな……お、俺は男……だ。お、お、お、男だ……」
震える手でスマホをぎゅっと握りしめる。
父ちゃんの言う通り、俺は男だ。……男なんだ! 常夏と唯一渡り合える、男なんだ⋯⋯!
+
そこからはあっという間だった。
初めてのタクシー! 初めてのフェリー! 初めての海ぃー!
今日は初めてがいっぱいだ。飛行機だって初めてだったしな。
思えば、埼玉を出たのも初めて。鹿児島に来たのも初めて。す、す、スマホも初めて……!
すげー……! 世界は広い! 海は青い! 地球も青い! なんて謎の悟りを開いているうちに、爺ちゃん家に到着!
ここではいったい、どんな初めてが俺を待ってるんだ? とりあえず、爺ちゃんとは今日が初対面。どんな人なんだろ……ワクワクすんなぁ!
なんて、思っていたのに――。
「けぇれ! 二度とその面見せるなっていっただろうが! バカタレが! どの面下げて玄関を跨いでやがる! 二度と跨がせねぇって言ったろうが!」
え。えええぇぇぇぇぇえええええええ?!
玄関に足を踏み入れた途端、すさまじい怒号が飛んできた。怒鳴っているのは、どう見ても爺ちゃんと思しき人物。
「ほらお爺さん、孫の前でそんなに怒鳴るのやめなさいってば」
慌てて止めに入ったのは優しそうな婆ちゃん。けど、爺ちゃんはさらにヒートアップ。
「なぁにが孫だ! こんちきしょうがァ! 出てけぇっ! 婆さん、塩持ってこい! 塩!!」
「……ははは。ま、まぁ口は悪いけど、優しい人だから」
た、頼むぞ父ちゃん……。ほんとに大丈夫かよ、ここ。
なんて思ってすぐに、
「けぇれ! ばかもんがァッ!」
爺ちゃんはさらに怒鳴ると、今度は本当に塩をぶん投げてきた。俺と父ちゃんは咄嗟に身を翻し、左右に飛びのいた――。そのときだった。
「回覧板でーす……」
タイミング最悪。ちょうど玄関先に現れた女の子に、爺ちゃんが投げつけた塩がぶつかった。
「うわっ……これは……塩? あ、いえ、大丈夫ですよー」
女の子は顔をしかめるでもなく、パッパッと塩を払うと、まるで何事もなかったかのように、のんきに笑った。見たところ、たぶん俺と同い年くらい。
に、しても……この状況で笑えるって、すげえな。なんなんだ、こいつ。
「ああやだやだ、大丈夫かい、佳純ちゃん? 大バカのせいで、まったく。申し訳ないよ……」
婆ちゃんが慌てて駆け寄ると、回覧板の子は首をすくめて笑った。
「うん、まぁ。なんか楽しそうなんで、水は差しませーん。続きどーぞ!」
「す、すまねぇな。せがれが孫さ連れてきてよ……」
爺ちゃんが申し訳なさそうに言うと、回覧板の子はぴくっと顔を上げた。
「孫……あー! もしかして噂のシティボーイですかぁ? すっごく嬉しそうに話してましたよね〜」
「べ、べつに、嬉しそうどぁ……なんて……っ。い、言った覚えはねぇっ……」
すると父ちゃんが俺の肩に手を置き、そっと耳元で囁いた。
「な? あの人は昔から素直じゃないんだよ。何日か一緒にいれば、すぐにわかるようになるから。心配はいらないぞ、翔太」
そう言う父ちゃんの顔は、なんだか優しかった。
いや、もしかしたら、笑ってる? こんなふうに笑う父ちゃん、初めて見るかもしれない。今日なんて、ずっと沈んだ顔してたのに。
……そっか。なら、大丈夫だな。父ちゃんが言うなら、きっと間違いない!
「うん! 俺の爺ちゃんだもんな!」
そう言った直後だった。
「タダ飯食わせるほど、俺は甘かねぇぞ。いいな、掃除に洗濯、とにかく婆さんの手伝いしろ! わかったか?」
おお! でも掃除に洗濯? ん……? それが飯の種になるのか。自由に食べ残しは
「父さん。ちょっと、話が……電話でも言ったと思うけど、そういうのは――」
「バカ野郎めが!」
突然、爺ちゃんが足をドンと踏み鳴らした。父ちゃんも、俺もびくっと肩を跳ね上げる。
「だからおめえはバカ野郎だってんだよ! こっち来おお! “甘やかす”んと“優しさ”を同じに考えおってからに、このバカ息子がぁ! そんなんだからなあ、そんなんだからなあっ!」
「ちょ、父さん……! 落ち着いてくれよ……」
父ちゃんが必死になだめようとするけど、爺ちゃんは聞く耳を持たない。
「いいや、落ち着いてられるかってんだ! 孫の前だからって遠慮するか! この子はなあ、今から“ここ”で生きていくんだ! 甘えも逃げも許さん! そういう覚悟があってここに連れてきたんじゃねえのか、おめえは! どうなんだよ? 馬鹿息子がぁっ!」
爺ちゃんの怒鳴り声が、もう一発響いた。婆ちゃんが間に割って入ろうとするけど、まったく止まる気配がない。
「父さん……!」
父ちゃんが低く抑えた声で、強く訴えかけるように言った。
「翔太の前ではやめてくれって……。わかってないのは父さんのほうだ。いいから、こっち来て。電話じゃちゃんと伝わってなかったみたいだから」
そのまま父ちゃんは婆ちゃんと爺ちゃんの腕を引いて、玄関の奥へと消えていった。「すぐ戻るから、待ってるんだぞ」と、俺に言う父ちゃんの顔はさっきまでと違って、少し怒っているように見えた。
そして、パタンと引き戸が閉まる音がした。
……残されたのは俺と、回覧板の子の二人だけ。
気まずい。視線のやり場に困って、思わず足元を見つめていると――。
「久々の家族水入らずって感じでエモいね〜」
ひょっとして、俺に言ってる……? エモ要素なくね? なんて思って顔を上げると――。
「ふーん。君が噂のシティボーイだぁ?」
全身を観察するような目つきで、無遠慮にじっと見ていた。
あまりに堂々としてて、見世物にされてる気分だった。
「は?」
無性に腹が立ち、強めに返したけど……まるで効いてる気配がない。
「まあ見た目はそんなに……って言うか、服装も普通? うーん? シティ要素どこ?」
「な、なんだよ?」
顎に手を当てたまま、不思議そうな顔で俺のまわりを一周、二周と回る。
「ねえ、それ。手に持ってるやつ、なになに? ひょっとしてスマホ?! もっとよく見せて!」
突然、興味を示して目を輝かせながらグイっと身を乗り出してきた。
「べ、べつにいいけど……壊すなよ?」
正直、渡したくなんてなかった。だって、に、二十四万円だからな。ま、まあ今となっては中古品だけど……。
それでも……見せつけてやりたい気持ちのほうが勝っちまった。
だって俺は、瞬足の翔太。
常夏と唯一、まともに渡り合える存在。
舐められちゃいけねえんだ。どこにいたって、誰が相手だって。……なぁ、常夏。
「え、これって君のスマホ? まだ三年生でしょ? お父さんの借りてるとかじゃなくて?」
「お、俺のに決まってんだろ! スマホくらい普通だっつーの!」
……だから、強がってしまった。
いや、これ……だせぇな。……ダサすぎだろ、俺。
「へぇ。東京ってやっぱりすごーい! しかも縦折りスマホの最上位モデルじゃん。これは間違いなくシティーボーイだねぇ。うんうん。シティ要素確認しましたっ!」
ふざけて敬礼なんかしてくる姿が異様に腹立たしくて、情けなさを感じながらも、さらに続けてしまった。
「フン。こんなの当たり前だっつーの」
……もうしょうがねぇ。
さっきまでぶるぶる震えてスマホ持ってたことは、俺と父ちゃんだけの秘密ってことで……。
「いいなぁ。わたしも東京に生まれたかったなあ!」
そして――。今度は打って変わって、羨望のまなざしで俺を見てきた。
つーか俺、東京じゃなくて埼玉なんだが……?
……まあ、いいか。なんかここで埼玉とか言ったら、ださいたまとかしょうもないこと言われそうだし。
「なぁ、つーか。さっきから言ってるシティボーイってなんなんだよ?」
「うん? ねぇ君さ、これでも私、年上だからね? 学年は同じでも、わたし遅生まれの最前線。四月二日生まれ! だからあんまり生意気な態度取るなよ~? お・姉・ちゃんって呼んでみる?」
どこかで聞いたような言い回しに、胸の奥がざわっとした。……冗談じゃねえや。
「はぁ? 誰が呼ぶかよ。回覧板置いてさっさと帰れ」
「なに急に拗ねちゃってんの? 弟扱いがそんなに嫌だった? まぁそういうとこ。ガキっぽくて嫌いじゃないけどね~」
からかうような口ぶりとは裏腹に、
続いた言葉は、妙に冷静でひんやりしていた。
「社交性ゼロ。そんなんじゃ君、この先、この島じゃやってけないよ?」
「はぁああああ?」
――これが、スナックシリウスの一人娘。
佳純との、最悪な出会いだった。
このときの俺はまさかにも思ってもいなかった。
俺は彼女に何度も助けられ、命さえも救われ、生きる理由がなくなったときには、生きる理由さえも与えてもらうことになるとは――。
+
父ちゃんは仕事が残っているらしく、「夕飯くらい食べていきなさい」という婆ちゃんの誘いも断って帰ってしまった。ただ、帰り際に父ちゃんがこう言ったんだ。
「必ず迎えに来るから」
そして俺の頭をぽんぽんと撫でた。だから俺は言ってやった。
「父ちゃんは父ちゃんの好きに生きてくれよ。俺なら大丈夫だ! 心配すんな!」
そしたら父ちゃんってば、また――。
「……すまない」
なんて下を向いちまってさ。すかさず爺ちゃんに頭を引っぱたかれてたよ。
なんかよくわからねえけど、すっげえ仲良しに見えた。これが親子ってやつなのだろうか。俺と父ちゃんも、いつかこんな風になれるのかな。……なれたらいいな。
そんなこんなで、鹿児島での生活がはじまった。
俺の寝床になったのは二階の奥の部屋。昔、父ちゃんが使っていた部屋らしい。
畳は少しだけ湿っぽくて、土壁には古い傷が残っていた。古びた机にちょっとだけ父ちゃんを感じた。気のせいか、父ちゃんがすぐそばにいるような気がした。
婆ちゃんは毎日、信じられないくらいのご馳走を用意してくれた。煮物に焼き魚、炊き込みご飯に味噌汁、そして名産らしい海の幸!
どれもこれも給食で出てくるようなものや鬼が食べ残したものとはまるで違った。
テレビや常夏ん家で見たような、夢にまで見た組み合わせばかりだった。
特に一番驚いたのが唐揚げ&ポテト! そんなの俺の人生じゃ一度も並んだことのない黄金タッグだ。それが何も言わずに当たり前のように食卓に並べられるってんだから驚いたよ。……なんなんだよ、これ。ここ、天国か? ってな!
そういや父ちゃんが言ってたな。
――毎日好きなものだって食べられるぞ。
冗談だと思ってた。
大層な夢を語り出しちまったなって、笑い飛ばしちまった。
でも違った。ここでの暮らしは本当に夢そのものだった。
だからこそ、爺ちゃんの言葉が身に染みる。
――「タダ飯食らいは許さねえ!」
……だってのに、俺と来たらさ。
料理はほとんどやったことがなくて、手伝おうにも包丁の持ち方から「あぶねえ!」ってダメ出しされる始末。
結局。まともにできたのは洗い物くらいで、俺の貢献なんて、その程度。
それでも、朝起きたら必ずあったかいごはんが用意されている。
昼まで腹がもつのは不思議だったし、こんなにも身体が軽いのは初めてだった。
だからこそ、婆ちゃんの役に立ちたかった。
……でも、料理はできねえ。洗い物だけじゃ物足りない。
あぁ……、どうすりゃいいんだよ……。
そんなことを考えながら、昼下がりの居間でゴロゴロしてたら――。
不意に、声をかけられた。
「翔太おめえ、ずいぶん家事の手際がいいらしいじゃねえか。婆さんが驚いてたぞ。掃除に洗濯、その手際の良さときたらよ」
「家事? 料理はてんでできねえよ……。俺、毎日ただ飯ばっか食って申し訳ねぇよ……しかも超うめぇしよ……」
「あん? 掃除に洗濯してんべ? なにがだめなんだ?」
「へ? そんなのは当たり前だろ? なに言ってんだ爺ちゃん」
「ああ?! バッキャロー! 子供は遊ぶのが仕事だっつーのによ。おめえと来たら! 遊びもしねえで、婆さんの手伝いばっかしやがってからに! 家中ぴかぴかじゃあねえかよ!」
「いてっ! ちょ、な、なにすんだよ?!」
「遊んでこー! いげえっ!」
「ちょっ、なんだよ?! や、やめっっ」
いったい何が爺ちゃんの癇に障ったのか――。
よく分からないまま、俺は家を飛び出していた。
でも、行くあてなんてどこにもない。
この土地のことなんか、何一つ知らないんだから。
遊び場がどこにあるのかも分からないし、そもそも誰一人として知ってる奴なんかいない。
「遊ぶっつってもなあ……」
ぽつりと漏らした声は、あっけなく風に流されていく。返事なんて、もちろんない。ただ一人、知らない坂道をとぼとぼと下っていく。
静かだ。耳が痛くなるくらいに。
遠くから聞こえるのは、海の匂いと、名前も知らない鳥の声だけ。
そうして俺は、家の周辺をぐるぐると歩き回った。何かを探すように。何も見つからないと知りながら、それでも足を止められなかった。
すると――。
「シティーボーイー!」
唐突な声に、ぴくっと肩が跳ねた。
そういや一人だけ居たな。知ってる奴。
声のした方を見上げると、二階の窓から顔を出していたのは、やっぱりあの女だった。
じわっとにじんでいた背中に、別の汗が追加される。
「……いや、だから!」
途中まで言いかけて、やめた。
シティーボーイってなんだよって言おうと思ったけど、たぶん言い方からして東京が絡んでそうなんだよな。
俺は東京じゃなくて、埼玉。
父ちゃんの職場はたぶん東京なんだろうけど……。
わざわざ説明するのもなんか変だし。
それに言ったら爺ちゃんの立場がなくなっちまう。シティボーイって自慢気に言いふらしてるみたいだしな……。
つーか爺ちゃんも俺が埼玉って知らなさそうなんだよな。……もう笑うしかねー。はは……。
肩を落としていると再び二階の窓から、声が落ちてきた。
「なーにしてんのっ?」
「なにも。あえて言うなら暇してる」
「ひょっとして誘ってんのー?」
「ば、ばっか! んなわけ!」
「あはは。焦っちゃってわかりやすー。ちょっとそこで待ってて」
正直、苦手なタイプだった。
好きか嫌いかって言われれば、まあ嫌いなんだけどそれ以上に苦手。
もっぱら俺と言えば、女子からは嫌われ者で通ってたからな。まあ戦争してたし、仕方ねえさ。
だからこうしてフレンドリーに来られるのは、違和感しかない。
まぁ、待つ必要なんてないし。どっか行くか。……とは思うも行くあてがないのが今日の俺。
そういえば、名前なんつったかな。なんて思っているとすぐに答えは飛んできた。
「じゃーん! 佳純ちゃん登場っ!」
「お、おう」
「東京生まれ東京育ちのシティーボーイに、このクソ田舎を案内してあげましょー!」
「お、おう?」
ん? 今、クソって言ったのか。さすがに聞き間違いか。
なんて思っていると、「こっちこっち、神社いくよー!」と軽やかに言い放ち、歩き出していた。
慌てて追いかけて、気づけば並んで歩くかたちになる……ん? 微妙に、俺より背が高いのか? おいおい、まじかよ……。冗談じゃねえぞ……。
「ていうかさー、シティーボーイも散々だよねえ。こーんなクソ田舎に連れて来られて」
――って、聞き間違いじゃなかった!
「そうか? いい所だと思うけどな」
毎日ご馳走食えるし、常夏に会えないことを除けばパラダイスだろ。
「へぇ、田舎で空気も美味しくて最高ってわけ?」
「べつに。そんなんじゃねぇよ。毎日、婆ちゃんの美味ぇ飯が食えるから、それだけだ」
「なっっっっにそれ! シティーボーイ、面白すぎ!」
「つーかお前な。俺の名前は翔太。シティーボーイなんて名前じゃねーから」
「あーはいはい翔太くんね。了解でーす! ちなみにわたしも“お前”じゃないからね? 佳純ちゃんって呼ぶよーに!」
本当に苦手なタイプだ。
恐れも遠慮もまるでなし。……あいつじゃあるまいし、まじで勘弁してくれ……。
いいようにペースに飲まれないように気を付けねーと。
「佳純ね。おっけー」
「あー……呼び捨て、かぁ……。それはちょっとまずいかも? まあ、二人きりのときならいいけど。学校始まったら佳純ちゃんって呼ぶこと!」
「いや、ちゃんとか付けて呼ぶ趣味ねーし」
「いやいや、冗談抜きで忠告してるの。わたし、翔太くんのこと嫌いじゃないし? てか、シティーボーイってだけで好感度チート級だからさ」
マジで何言ってんだこの女……。
「佳純ちゃん呼びが嫌なら、苗字で晴海さんでもいいけど、どうせガキだから“さん”付けで呼ぶのも嫌なんでしょ? ってことで名前呼ぶの禁止。ちなみに、お前呼びもNGワードなんで覚えておくように!」
「はあ? 意味がわからねえんだけど? なにそのルール?」
つーかさらっとガキ扱いしやがって……。まあ確かに、苗字にさん付けとか呼びたくねえけどさ……。
「ん? みてわからない? わたし、超可愛いでしょ?」
「お、おう……?」
マジで何言ってんだよ、この女……。
「みーんな、わたしのこと好きになっちゃうの。いわゆるモテモテってやつ? でさ、ちょっと、うるさいのがいるんだよね。とびきりうるさいのがさ」
ふーん。そういうことか。
「なんだよ。そういうのなら構わねーよ。……ひとつだけ確認な。佳純は、そいつのこと好きなのか?」
「え、大嫌いだけど? 好きとかないない。むりむり!」
「じゃあ話は早ぇな。俺がそいつんこと、やっつけてやるよ。だから“ちゃん”付けの件はチャラな」
佳純は一瞬きょとんとしたかと思えば、急に吹き出して、くっと肩を揺らして笑い出した。
そして。
笑いが止まると、空気が変わった。
「……ほんと、君って面白いね。東京の人だから? それとも、君が特別なの?」
背筋に、冷たいものが這い上がる。
軽さのあった笑顔が、一瞬で“別物”になっていた。
「……わかんねぇけど。特別なんじゃん」
「ふーん……じゃあ忠告。
言葉は淡々としていたけど、
その目だけが冗談を許さない色をしていた。
「ちゃんと約束してくれるなら、そーだなぁ……」
人差し指を、俺の唇に当てて。
「――キス、してあげる」
「はぁ?! なっ、なに言ってんだお前?!」
「ふふっ、反応かわいすぎ~。冗談に決まってんじゃん! 翔太くんって本当にガキだよねえ」
けらけらと笑う声は、またさっきまでの“軽さ”を取り戻したように見えた。……けど、俺はもう笑えなかった。
「……まっ、冗談はさておき。君のこと、気に入っちゃったからさ」
「は……?」
冗談の、冗談……? つまりどっちだよ?!
「君になら、ファーストキスをあげてもいいくらい、守ってあげたくなっちゃったの」
するとまた――。人差し指で、そっと――。今度は唇をなぞられた。
「この乙女心、わからないかなぁ?」
「わ、わ、わっかるわけねぇだろ!!」
やばい。こいつ、さっきから何考えてんだ――!
この女はだめだ。危険だ。
「じゃあ、わからなくてもいいからさ。剛場には逆らわない。約束できる?」
そのくせ、なんでそんな顔するんだよ。
なんで――。そんな、切ない顔をするんだよ。
「わ、わかんねぇよ。嫌な奴だったら仲良くなんてできねぇし。それにお前だって大嫌いなんだろ? そいつのこと」
「そっか。見たくないなぁ。君がボロボロになるところ」
その言葉には、妙に現実味があった。
まるで――。すでに全部、見えているかのようで恐ろしさすら感じる。
だから――。
「悪いが俺は、前の学校じゃ瞬足の翔太って言われててな。誰も逆らえない学年のバーサーカーをもねじ伏せた男だ。みんなは俺を光輝く一等星カシオペアと崇めた。だから、期待には応えてやれそうもないが?」
「……そっか」
ぽつりと返されたその声には、さっきの切なげな響きがまだ残っていた。
その目は、先ほどと寸分たがわず、まるで俺がボロボロになる未来を見ているようだった。
……意味わかんねぇ。
まあ、要は勝ちゃいいんだろ? 簡単な話じゃねーか。
剛場って奴が何者なのかは知らねえが、俺は常夏と唯一渡り合える存在。負けるわけがない。
……なあ、常夏。
俺らも、舐められたもんだよな。困っちまうよなあ、ったく。
ま、ここで俺が返事をしなきゃ、こいつの笑顔は戻らねぇ。
俺は光り輝く一等星、カシオペア。
女の笑顔も守れないような、ヤワな男じゃねえ。
だから――。
「まぁ。お前がそこまで言うなら、約束してやってもいーよ」
約束を反故にしても、俺が勝ちゃいい。
シンプルな話だろ?
「ふぅん。嘘つきって顔に書いてあるけど? でも、信じてあげる。そのかわり、指切りね? わたし、約束守れない男は大嫌いだから。先に言っておいてあげる」
「ああ、いいぜ!」
……この時の俺は、傲っていた。
常夏と唯一渡り合える――。その自信が、すべての間違いだったのかもしれない。
井の中の蛙、大海を知らず。
ここから先は、地獄だった。
思えば俺は、あの頃からずっと、嘘ばかり吐いていた。
+
なぁ、佳純。
お前が居てくれたから、たぶん俺は今もまだ、生きている。
でもさ、あの日。
お前がくれた生きる理由。高校の入学式でなくなっちまったんだよ。
それで今、俺が生きてる理由ってのは――――。
きっと、お前が知ったら怒るだろうな。
それとも、鹿児島に連れて帰ろうとするか?
……本音を言うとさ、俺、もう……疲れちまったんだよ。
お前には、全部透けて見えてそうで……。
それだけが、ちょっと、怖いよ――。
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