初音

 ルカ姐の出してくれたカクテルは、すごく甘くて少し酸っぱくて、ちょっとだけ苦い、あの日々を思い出すような味がした。


「……来たかな」


 カウンター越しに呟くように言ったルカ姐の声に、男の人が反応して音もたてずに玄関へと向かう。ちょっとだけ時間があって、私がもう一口、カクテルを舐めているとそれは起こった。


 照明が急にひとつ増えた。しかもこのバーの穏やかで雰囲気のある照明じゃなくて、ダイナモみたいなビカビカとした光。いや、実際はそんなことはないのだけれど、そのくらい、ミク先輩が発しているオーラがすごくて、本当にそんなふうに見えた。


「こんばんは。お待たせ」


 ゴシックロリータ風の白いフリフリが付いた黒いワンピース。スカートは二重になっていて、外側に白い刺繡があしらわれている。シルクハット風の小さな帽子には、赤い糸の四角い模様がいくつも。音符の形をした銀色のイヤリングがアクセントになっていて、目を離さずにはいられなかった。緑白色の髪の色とのコントラストは、まるで1枚の有名画家の絵画でも見せられているようだ。


「相変わらず、芸能人オーラの消し方も分からないようね?」


 ルカ姐が目も合わそうとせずに、口角を上げながらそんなことを言った。


「あら、貸し切りにしたお客様に向かって最初に言う一言がそれ?」


 ゴスロリ装備にはそんな攻撃など一切ダメージが通らないとでも言うようにミク先輩は微笑んで、こちらに近寄ってくる。給仕の男の人が私から1つ空けたところにあるイスを引いたのだけれど、ミク先輩は自分でその透き通ったような手を伸ばして、私の隣のイスに「よっ、と」なんて言いながら座った。


 先輩二人がカウンター越しに対峙した形になった。


「コーヒーにギムレットを入れたのをちょうだい。ミクスペシャルって名付けて売り出してもいいわ。使用料はとらないから」


「なにそれ。アマレットカフェみたいなこと?……マズそ」


「む……。バーテンダーがお客にそんなこと言っていいわけ?」


「私はこの店のオーナーで、バーテンダーじゃないもの。はい、ホットミルク」


 ことり、と置かれた小さなマグカップからは湯気が立ち上っている。腕組みをしたルカ姐が、心底楽しそうに意地悪に微笑んだ。あれはエスプレッソ用のカップでは?


「また子ども扱いして。昔からそう。私の方が先輩なのに」


 セリフのわりに子どもみたいに唇を尖らせるミク先輩。そのままカップを上品に手に取って、ドラマのワンシーンみたいに唇をつけた。二人の間に火花が散っているような気がして目が離せなかった私は、その仕草がなんだか微笑ましく思えて、先輩が飲んだ牛乳みたいに少し心が温まったような気がした。


「……私ね、常識がないから、こんな時にどんなふうに貴女に言葉をかければいいか分からないの。でも、元気そうで安心した。……10年ぶり?」


 ミク先輩が私の方も見ずにそんなことを呟いた。


「ご無沙汰してます。お久しぶり、です」


 急に話を振られた私は、その整った顔立ちとつぶらな深緑の瞳を見ているのが急に恥ずかしくなって、カウンターに視線を落とす。


「ずいぶんと大人になっちゃったわね?昔は、私に勝とうとして必死に喰いついてきて、態度だけは大きいじゃじゃ馬で。それが今は、服装も落ち着いちゃって、そんなしおらしい挨拶もできて」


 カウンターの木目を見つめていても、ミク先輩がこちらを向いていないのがわかる。いや、昔から彼女はこっちなんて見ていない。芸能界の頂点だけを目指して活動してたっけ。


「あなたが……、成長してないだけでしょ?」


 グラスを傾ける音を途中でさせながら、ルカ姐が指摘する。


「うっさいな。ルカは黙っててくれる?」


「はーい。……怒られちゃった」


 小さな舌を出すルカ姐。飲めば飲むほど可愛くなる病が出始めている。こうなると止めても飲むんだよな、この人。


「いまはなにしてるんだっけ?……介護士?」


「……そうです」


 私はまだ、カウンターに視線を落としている。ミク先輩の方を向くことが、どうしてもできない。


「貴女が急に引退なんてしたから、そこから1ヶ月くらい、芸能人生で5番目くらいに忙しかったのよね」


 ため息を吐くように、ミク先輩はカップを両手で持ち上げながら言った。見えないけれど、カップを見る彼女の冷たい視線が、私に向いたような気がした。謝罪のために先輩を見ると、その通りの姿だった。


「す、すみません。ご迷惑を、おかけしちゃって……」


「ぜんぜん。もう大昔のことだから、気にしてないけど」


 私の謝罪を遮るように、吐き捨てた言葉がミルクの湯気と一緒に消える。私への視線が外されて、コトリ、と再び白い小さなカップがソーサーに音をたてて置かれた。

 私は1/3くらいまで減ったルカ姐が作ってくれたカクテルに、そそくさと口をつける。


「ふう。……なんで辞めちゃったの?もし私をおびやかすとしたら、きっと貴女だろうなって、こっちはずっと思ってたんだけど?」


 眉根を上げて、こちらも見ずにそんなことを言い出す。私はカクテルを吹き出しそうになった。


「そ、そんな……っ。私は、ミク先輩には絶対に勝てないなって思って…………」


 目が合った。ものすごい意志のこもった眼力に負けそうになる。この瞳が、日本を魅了し続けているスターの碧眼。


「嘘はやめて。覚えてる?私たちの初仕事。結婚式場の会社のやつ」


「お、覚えてます」


 私がいまだに出会いもなく結婚もできないで行き遅れてるのは、あれのせいだったんじゃないかってよく思ってるから。


 はあ、と露骨なため息を吐いて、ミク先輩は小さな頭を細い指で支えた。


「今だから言っちゃうけど、私はね、貴女のウエディングドレス姿を見て、この子にはいつか追い抜かれるんだろうなって、すごく怖くなった。双子が配信サイトで数千万、数億再生された時だって、ルカがビルボードで1位を獲った時だって、そんなこと思わなかった。私に唯一、勝てないかもしれないって思わせたのは、貴女だけだったんだよ?」


 小さなカップに視線を向けている。テレビで毎日のように見る彼女とは違って、自分の弱いところを少しだけ曝け出したようなその可愛気が、私の心に響いた。響きはしたけれど、そんなことを今さら言われたって困る。


「それは……。いまやスターのミク先輩に、そんなこと言っていただけるなんて……、光栄です」


 そう返して、お茶を濁すことにした。


「大人っぽいこと言わないでよ。つまんない」


「あ…………、す、すみません」


 じゃあ、なんて言えばよかったんだ。本当にワガママな人。こっちはもう芸能人じゃないんだ。普通の世界で、安月給の介護士として、毎日働いてるだけの女なんだ。アンタとはもう、別の世界の人間だっていうのに。

 私はイスに座りなおして、カクテルを飲み干す。


「でも、私はもうアイドルじゃないし。ミク先輩やルカ姐みたいにキレイじゃない。この手を見て下さい。お二人とは違って、毎日使ってる消毒液で荒れちゃって、もうボロボロ。芸能人の手じゃない。ただの一介の勤め人なんです。毎日毎日、お年寄りがご飯を食べるのを手伝ったり、オムツのお世話をしたり……。お二人が住む世界とは、私はもう、違う世界にいるんです」


「………………」

「………………」


 二人とも、黙ってしまった。


 最初から、場違いなことをしていたんだ。だからこんな気持ちになる。

 もうたくさん。

 今日のことは、夢だったと思うことにしよう。

 私はイスから立ち上がって、黒髪を押さえながら軽く頭を下げた。


「帰ります。……今日はどうも、ありがとうございました」


「待って。……ねえ、人生をやりなおしたいと思う?」


 そんな、ただただ格好悪い私に、座ったままのミク先輩はそんなことを言ってきた。

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