ヘレンさんは語る

 僕がホームズさんに半ば引きずられるようにして連れて行かれたのは、同じ階にある入院患者用の一部屋だった。

 ノックをするとすぐに扉はガラリと開いた。現れたヘレンさんは、自分の服の裾をぎゅっと握りしめながら、切羽詰まった様子で話し出した。


「ホームズさん! お待ちしておりました!

どうか私を助けてください。この状況が続くのはもう耐えられません。いい加減気がおかしくなりそうなんです。でも、私には頼れる人が誰もいなくて……恋人が一人おりますけど、彼は全く取り合ってくれないんです。いいえ、慰めてはくれます。でも、それだけなんです……彼は、全部私の妄想だと決めつけています。そんなことないのに!

ホームズさん、私は貴方のことをファーントッシュさんからお聞きしました。あの方は、『私はホームズさんに救われました。この御恩は一生忘れません』と仰っていました」

「ファーン……?」


 不意に話を振られて、ホームズさんはキョトンとした顔をした。多分、「一生忘れない」と言ってくれたその人のことを、ホームズさんの方は忘れているんだろう。 

 一瞬、気まずい雰囲気が漂った。ヘレンさんは「あっ言わなきゃ良かったわ」みたいな顔をしている。ホームズさんは「あっ思い出さなきゃ失礼なのか」と思ったらしく、天井をじっと見つめて黙っている。


 え、どうすんのこれ。僕が何か言ってとりなさなきゃいけないのかな……


 気を揉んでいると、「と、ともかくですね」と言ってヘレンさんが咳払いをした。


「その方がホームズさんのホームページを教えてくださったんです。三年ぶりにご活動を再開されると知って、いてもいられず家を出ました。まさかあの様にご迷惑をおかけしてしまうとは思いませんでしたが……」

「いや、事故のことは気にしないでください」とホームズさん。

「大丈夫ですよ。建物の方は何とでもなると大家さんも言っていましたから!」と僕も言う。

「とにかくお怪我がなくて何よりでした」

「ありがとうございます……」

「では、どんな細かいことでも結構です。一見お悩みと関係がなさそうなことでも構いません」ホームズさんは細い指を組んだ。


「どうぞお話を聞かせてください」





「グリムズビー・ロイロットは、私の実父ではありません。若くして未亡人となっていた母の再婚相手です。母が義父とどのように出会ったのかは知りません……その頃私と双子の姉ジュリアはまだ二歳だったものですから。


 母は死んだ父から相続した、年に千ポンド以上の運用益がある巨額の動産を持っていました。母は全てにおいて準備をしなければ気が済まない性格でしたから、再婚後間もなく弁護士を呼んで遺言書を作成しました。内容は、全額を死後に義父に譲るというものでした。ただし、私達娘が結婚する際には、それぞれに規定の年額を分与するという条件がついていました。


 ……その母は、八年前に列車事故で亡くなってしまいました。その後私達と義父は、ロンドンから田舎にある先祖代々の古い家に戻りました。

 私と姉はロンドンに残りたいと言ったのですけれど、義父があれこれと理由をつけ、承知しなかったのです。でも、『母がいなくなって寂しいのだろう』と思いましたから諦めました。


 私達は悲しみに深く沈みました。

 しかし、母が残したお金は生活費としては充分過ぎるほどだったので、問題なく幸せな暮らしができるはずでした。



 しかし、この頃から義父は、私達に暴力的な側面を見せ始めました。私達が旧家へ戻った時、近所の人たちは『昔のように仲良くしましょう』と歓迎してくださったのですが、義父の存在が全てを壊してしまいました。

 義父はむっつりして家にひきこもり、たまに外出しても、誰彼なしに酷い言い合いをするのです。いいえ、言い合いで済むのならまだ良かったのですが、義父は相手を怪我させてしまったり、川に投げ込んでしまったり、とにかくとんでもないことをするので、事件が警察裁判にまで持ち込まれたことがありました。


 そんなことですから、姉のジュリアと私は、なにひとつ楽しいことのないまま日々を送っておりました。町の人は義父の姿を見るだけで逃げてしまうというありさまでしたから、友人さえ作れません。私達も肩身が狭く、日が明るいうちは、なるべく外出をしないようにしていましたので、ロンドンの旧友達とネットで連絡を取り合う他は、寂しい思いをしておりました。


苦しい日々が続いたからでしょう、姉は死んだ時、まだ三十歳でしたが、髪には今の私と同じように、もう白いものが出始めていました」


「お、お姉さんは亡くなられているんですか……?!」


 僕は息を呑む。ヘレンさんは切なげに頷き、「はい」と言った。


「姉は三ヶ月前に死にました。今の私の悩みは、ひょっとしたら、姉の死に関係があることかも知れないのでお話します。


 今ご説明した通り、その頃の私達は、友人にすら満足に会うことが出来ませんでしたが、親戚の叔母が一人いました。彼女はロンドンで、アパートなどの幾つかの不動産を管理しております。母の妹なのですが、五十過ぎからリウマチに悩まされており、ヘルパーを雇って暮らしております。

 私達は義父から、短い期間なら、叔母の家にときどき泊まりに行くことを許されました。

 ジュリアは二年前のクリスマスに叔母の家に行った際、叔母が近所の人達と開いたパーティーで素敵な男性と出会い、婚約することになりました。義父にその事を話したのは、私達が帰ってからでしたが、特に反対する様子はありませんでした。


 けれども、結婚式当日まで二週間を切った日の事です。突然、姉が『最近、誰かにつけられている気がするの』と私に相談して来たのです」

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