第7話 残業と後輩
一難去ってまた一難という言葉があるが、今日の私ほどこの言葉が似合う人間もそういないのではないかと思わずにはいられない。
田村さん達との出来事から早数時間、課長に押し付けられた資料は驚くほど進んでいなかった。
他部署への説明のためのパワーポイントだなんだ言っていたが、そもそも資料を作るために必要な分析から終わっていない。
しかも極めつけは分析に必要な資料が点在しているせいで探すのに時間がかかることだろうか。やっと半分くらい終わったところだ。
デスクに戻ってから根を詰めてやっていたので気付かなかったが、他の社員たちは全員帰った後のようで、私の席の周りだけ明かりがついている状況だった。
「皆、薄情だなあ~」
誰もいないことを良いことに大きな声で愚痴を言う。
まあ私が他の社員の立場だったとしたら面倒ごとは勘弁だし絶対に手伝わなかっただろうなとも思うので、彼らの気持ちは分からなくもない。
ただし諸悪の根源である課長は絶対に許さない。
たんすの角に小指をぶつけて悶絶してしまえと心の中で呪いをかけつつパソコンと向き合う。
ずっと画面とにらめっこを続けているからか目が滑って仕方がない。
はあ、と大きめのため息をつく。
その音と同時にフロアの扉がぎいっと鳴った。
全員帰ったはずのフロアの扉が開くだなんて。
しかもこの時間帯は警備員も巡回は行っていないはず。
夜遅いオフィスに一人取り残されている中、この間見たホラー映画の描写がフラッシュバックする。
ホラーが苦手なのに気になって見てしまった弊害がこんなところに出るとは誰が予想しただろうか。
かといって、いくら怖くてもやはり音源は気になるもの。
ホラー映画を見てしまった時と同じように『怖いもの見たさ』で開かれた扉をゆっくり確認する。
暗くて輪郭がぼやけてはいたが、そこには見慣れた人影がちょうど私の席の方へつかつかと歩み寄っているところだった。
「薄情ですみませんねえ~」
いつも男性と話しているときのような猫なで声ではなく、地を這うような低い声で夢子はふてぶてしく言い放った。
さっきの独り言を夢子に聞かれているのも恥ずかしいのだが、それよりもなぜ終業後、いの一番で帰ったはずの彼女がここにいるのか。
このくらいの時間ならどこかのちょっとお高目なレストランで男性と食事(水島さん的に言えば、『食事以外も』だろうか)をしているかと思っていた。
「あれ、聞こえちゃってました? そんなに大きな声で言ったと思ってなかったのですが……」
「ばっちり聞こえてましたよ〜。てか、随分でっかい独り言でしたけどぉ?」
「お恥ずかしい限りです」
「あとぉ、課長がたんすの角に小指ぶつけて悶絶しろ、とかも言ってましたけど?」
まさかそこのくだりも口から外に出ていたとは。
完全にフロアに一人になったと思い込んでいたので気が抜けていたみたいだ。
「うっかり口から出てしまっていましたね」
「ま、私以外誰もいなかったから良いんじゃないんですぅ? でも意外。先輩でもそんなコト言うんですねえ~、ちょーウケるぅ。」
果たして本当にウケているのか問いただしたくなるテンションの低さだ。
彼女的には『ウケる』といっているだけで本当に面白いとは思っていないのだろうけど、例えそのことを直接本人に言ったとしても「だから何なんですかあ?」と言われそうなので、心の中だけで感想をとどめておくことにした。
ガサガサと夢子の方から音がしたので視線をやると、どうやらコンビニの袋を漁っているようだった。
「先輩、はい。コレどーぞ」
そういうと夢子はサンドウィッチとホットコーヒーを渡してくれた。
「え、あ。ありがとうございます。」
「どーせ、ずっと資料作成してて何も食べてないんじゃないですかぁ? 気が向いたら食べてくださぁい。……で、どこまで終わってるんですかあ? 資料。」
ポカンとしている私など気にも留めずに彼女は私の隣の席に腰をかけ素早くパソコンを立ち上げ、淡々と言った。
ただでさえ夢子から差し入れをもらったことで驚いているのに、手伝おうとしてくれているこの事態に追い打ちをかけられ脳がキャパオーバーになっている。
彼女は私に目もくれていなかったが流石に返事がないのが気になったようで私の顔を見た。
そして思いっきり顔をしかめた。
どうやら顔に「え、手伝ってくれるの!? あの夢子が!?」とでも書いてあったのだろう。
彼女はぶすっとしながらも私の手元を覗き込み、「あー。なるほどです」というと自分のパソコンに視線を戻した。
「分析に必要な資料なんですけどぉ、先日本田さんから頂いたので、分析自体には多分そんなに時間はかからないと思いまぁーす。私やるんで、都先輩は説明用のパワポのひな形作っちゃってくださあい」
「すみません、ありがとうございます。私ひとりじゃ終わらなかったでしょうし、夢子さんが戻ってきてくれて良かった。本当にありがとうございます」
「まだ終わってないのにお礼言うなんて気が早くないですかぁ? さっさと終わらせますよ」
感謝を素直に伝えたものの彼女は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
尻すぼみになっていた彼女の声色は普段よりも優しく、2人ぼっちのフロアに響いた。
◇
彼女の言った通り分析にはさほど時間がかからなかった。
ひと段落したところで先ほど夢子にもらった軽食を食べることにした。
どうやら彼女も夕食をまだ食べていなかったようで、私にくれたものとは別の種類のサンドウィッチをほおばっていた。
「先輩」
「なんですか?」
「はい」
「え? うわっ、と。」
サンドウィッチをくれた時よりもそっけなく声をかけられて振り向くと、なんの脈絡もなく絆創膏の箱が私めがけて飛んできていた。
急なことでビックリしたが、何とかキャッチできた。
私の反射神経が思ったより良かったのか、はたまた夢子のピッチャー力が高かったのか。
「どうして、急に?」
「手、怪我してるみたいだったんで」
夢子はそういうと私の右手の手の甲を指さす。
トイレで田村さんにボイスレコーダーをひったくられた時に怪我をしていたことをすっかり忘れていた。
「あ、忘れてました。ありがとうございます」
「いいえ~。先輩がキーボードをタイプするたび視界に入ってうっとおしくってぇ、気になってたんですよねぇ。気が散るんで、貼っといてくださぁい」
いつもの夢子節がさく裂する。
言葉はキツイが彼女が善意で絆創膏をくれたのが分かっているため、つい笑ってしまう。
彼女はそんな私がお気に召さなかったのか「何笑ってんですか」と眉をひそめていた。
「笑ってる暇があるんなら、手を動かしてくださぁい」
「承知しました」
なおも笑顔のままの私に何を言っても無駄だと思ったのか夢子は頬を膨らませたままそっぽを向くと作業を続けた。
私もこれ以上彼女の機嫌を損ねないために手元のパソコンに視線を戻し、資料作成を再開した。
◇
「お……終わった……」
パワーポイントのWチェックを夢子にしてもらい、何回か誤記やレイアウトを変更してやっと完成した。
終電は諦めていたのだが、この時間なら間に合いそうだ。
「夢子さん、手伝って下さり本当にありがとうございました」
「どういたしましてぇ~」
相変わらずそっけない態度だが言葉の端に棘はない。
「今度なにか奢りますね」
「え~?ホントですかぁ? じゃあ、六華亭の焼肉でお願いしまぁーす!」
「え゛、六華亭ってあの、六華亭ですか?」
六華亭とはミシュランなどでも紹介されている都内屈指の老舗焼肉店だ。
政府官僚や大企業の社長御用達のお店ということで勿論お値段も高い。
松坂牛をはじめとするA5ランクの超高級牛肉を仕入れているのだが、月によって仕入れる肉が変わる。
店主曰く「その時々によって味が違うんだ」とのことで、こだわりぬいた牛肉たちは珠玉の一品。ここで食べたら他では肉を食べられなくなると評判なのだ。
まあ夢子と私二人なら出せるかもしれないが、なんせ連れていくのが夢子となると絶対に遠慮などしてくれなさそうなのが怖い。
時価のモノばかり注文してお会計がうん十万になると流石に私の財布も悲鳴を上げてしまう。
「嘘ですよぉ~。てか先輩、顔ちょーこわ」
どうやら冗談だったようで彼女は私の顔を指さしながら爆笑していた。
生活費と家賃との兼ね合いを一生懸命頭の中で計算していたというのに失礼な話だ。
夢子はひとしきり笑った後、急にスッと真顔になった。
正直私の顔よりも夢子の七変化の方が怖い気がするのが、そこはあえて突っ込まずにいよう。
「あのぅ、話変わるんですけど。先輩って私のこと嫌いなんじゃないですかぁ?」
話題が180度変わってビックリした。
本人に直接「嫌いですか?」と聞いてくるあたりが夢子らしい。
「嫌いじゃないですよ」
「ふーん。私はてっきり嫌いなのかと思ってました」
「どうしてそう思ったんですか?」
「だってぇ、先輩、私の後を追ってきたり、待ち伏せしたりしてたんでぇ。嫌がらせされているのかと思いましたぁ」
「そんなつもりは全く。嫌いな人間だったら追いかけたりしないですよ」
どうやら逃げ回っていたのは私が夢子に危害を加えると思っていたからのようだ。
追いかけまわしていた方としては悪気は全くなかったが、普通に考えればただのヤバい奴である。一歩間違えればストーカーとして警察に突き出されていたかもしれない。
「というか、その節は本当に申し訳ありませんでした……」
「べっつに。もう気にしてないんでぇ」
「すみません……」
己の行動を思い出し、いたたまれなくなる。
縮こまる私など露知らず、夢子は眠そうにあくびを漏らした。
「ていうか先輩、終電の時間大丈夫なんですかぁ?」
そう言われ腕時計を見ると、もう終電の15分前になっていた。
「そうですね。もう駅に向かわないと」
「じゃ、さっさと帰りましょー」
一つ大きく伸びた後、彼女は一足先に扉に向かっていった。
普段からそうだが、夢子は帰り支度がものすごく早い。
シャットダウンしたパソコンを仕舞っているところで、先ほどの彼女の発言をふと思い出す。
そういえばなぜ「自分を嫌っていたのではないか」などと聞いてきたのだろうか。
他人の目を気にしていないような発言や行動ばかりなので、彼女の口からそのような質問が出てきたこと自体が不思議だった。
結局、理由は分からずじまいで終わってしまったがいつか聞ける時が来るだろうか。
その時まで私がこの話題を忘れていないことを願うばかりだ。
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