(34)

 ガエターノの屋敷の前ではよく見知った顔――ミルコが待っていた。それでも運転席に座るアントーニオは億した様子を見せない。仮に内心及び腰の様子でもそんなことはおくびにも出さないだろうことは、アントーニオの性格的にじゅうぶんあり得るだろう。


「……ボスがお待ちです」


 ミルコはいつもの無表情のままそう言ってティーナを先導する。アントーニオの顔を見てもミルコはなにも言わなかった。ミルコがカノーヴァファミリーのボスの息子であるアントーニオの顔を知らない……ということはあり得ないような気がした。


 ――イヤな予感がする。


 それでもティーナはなにも言わなかった。言えなかった。ポケットの中にあるスマートフォンはアントーニオのものと通話状態にある。迂闊なことはできない。


 ミルコはアントーニオとティーナの結婚の話が出ていることを知っているのだろうか? 知っているから、アントーニオの顔を見てもなにも言わなかったのだろうか。


 なにもかもがわからなかった。ティーナは霧に沈む森にいるような気持ちになった。


 あのとき、レオンツィオに連れて行かれて一度だけ足を踏み入れたガエターノの執務室。その扉がすぐそこまで迫っているのが見えて、ティーナの心臓は大きく脈打つ。


 扉の前で足を止めたミルコは、軽くノックしてティーナがきたことを告げる。


 それに答えたのはレオンツィオの声だった。ガエターノの電話に出たのだから、レオンツィオがガエターノの執務室にいるのはなんらおかしいことではない。


 それでもティーナはなぜか冷や汗が止まらなかった。


 執務室の重厚な扉が外向きに開く。奥にある黒檀のしっかりとした造りの机の前にレオンツィオが立っている。ティーナは知らず、肩に入っていた力を抜き執務室に足を踏み入れた。


 ……けれども、それ以上歩を進められなかった。


 それでも、無情な音を立てて執務室の扉が閉まる。


「レオンさん」


 ティーナは喘ぐようにレオンツィオの名を呼んだ。しかし、それ以上は言葉にならなかった。


「レオナ」


 レオンツィオは親しげな様子でいつも通りティーナの名を呼んだ。その手にあるスマートフォンを顔の横に掲げ、なにも言わずもう片方の手で画面を指差す。


【私に話を合わせて。アントーニオが聞いているんだろう?】


「……ちょうどよかった。レオナに話しておかないといけないことがあってね」

「そ、う……ですか。……ちょうど、わたしも話したいことがあったんです」


 メモ帳アプリだろうか? スマートフォンの画面に表示されたテキストをティーナはぼんやりと見つめる。文字列がなかなか頭の中に入ってこない。それでも必死に理解しようと頭を回転させる。


「お客人もいっしょなんだって? ミルコから聞いたよ」

「ええ……そうなんです」


 レオンツィオは再びスマートフォンの画面を操作して文章を作る。


【アントーニオをこの部屋に呼びたい】


「……ぜひ、ガエターノに会って欲しい人がいるんです」

「それは……いい人ってやつかい?」

「ええ。そうなんです。結婚を……考えているんです」

「そんなに親しいひとがいたとはおどろきだね」

「わたしも、おどろいています……」

「あはは。……そうだね。そのレオナに選ばれた幸運な男には自ら足を運んでもらおうかな。なにせ、大切なお嬢様を嫁に出すんだから」


【アントーニオを呼んでくれる?】


「車で待っているはずなので……今呼んできますね」

「スマホは? 電話で呼べばいいだろう?」

「……あ、そうでした。それじゃあ失礼して……かけますね」


 ティーナは通話状態を保っているスマートフォンをスカートのポケットから取り出した。一度通話を切ってから、再度アントーニオの番号にかける。スマートフォンを持つティーナの手はかすかに震えていた。


『――ティーナ。どうしたんだい?』

「……レオンツィオがあなたに会いたいと言っているの」

『……わかった。すぐにそっちに行く』


 スピーカー越しにかすかに舌打ちする音が聞こえたような気がした。


 アントーニオには話の流れが伝わっているはずだ。ティーナのすぐそばにレオンツィオがいることもわかっていることだろう。となればここでティーナの呼び出しを断るのは不自然だと察したに違いない。


 あるいは断れば「尻尾を巻いて逃げた」とでも思われるんじゃないか――。そんなことまでアントーニオが気を回すだろうことはティーナには手に取るようにわかった。


「ミルコ。お客人を迎えに」

「はい、ボス」


 ティーナが通話しているあいだにレオンツィオは部屋の外に控えていたミルコにそう命じる。


 これからどうなるのか、ティーナには薄っすらわかっていた。しかし、その波に抗うすべはない。今ティーナにできることはただひとつ。流れに身を任せることだけだった。


 ティーナはアントーニオと通話を終える。その表情に生気はない。青白く染まった顔で、ティーナは手の中にあるスマートフォンを見る。


 そんなティーナを見かねたのか、レオンツィオはティーナの頭を軽く撫でて微笑む。


「レオナ……心配することはなにひとつないよ」


 それでもティーナの顔は白いままだった。


 やがて執務室に控え目なノックの音が響き渡る。ミルコだ。アントーニオを連れて、ここまできたのだ。


 レオンツィオはなにも言わずティーナを部屋の奥へと引き寄せて、後ろから腕でティーナの口を塞いだ。突然の出来事だったので、ティーナは悲鳴を上げることすらできなかった。


「入っていいよ」


 レオンツィオの返答後、一拍置いて執務室の重厚な扉が開く。


 アントーニオは人好きのする笑みを浮かべて執務室へ一歩、足を踏み入れた。


 そして――その顔のまま死んだ。

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