第32話 奈落への階段


 真夜中の明かりの消えた部屋、初めて使う慣れないベッドの中で、僕は迫水先輩への発信履歴を見つめている。


 あれからずっと真実を探る勇気は持てないままだ。夕子さんへの報告は、赤いうねりと堰根の事を簡潔に説明するにとどめた。どうしても答え合わせをしたくなくて、先輩の件を問うどころか、口を開くことも最低限になってしまう。そんな僕の態度を疲れていると解釈してくれたのか、夕子さんは優しく微笑み、多くを聞かなかった。

 部屋に戻って寝なさい、と言われてから1時間はたっているが、はっきりと目は覚めたままだ。


 きっとこうするまで眠れやしないのだ。僕は勇気なんてないまま、目を閉じて一息、深呼吸をする。そのまま画面を見ないで、発信ボタンがあるはずの液晶に指をちょんと乗せた。

 発信音が響いた時間はわずかだった。


「…………」


 繋がったようだが、謎の沈黙が重苦しい。

 

「先輩、遅くにすみません」

「マサキなら全然いいよ。どうしたの?」

 

 拍子ひょうし抜けするくらい、本当にいつもの声色で先輩は応えた。


「あ、いえ、また雨が酷くなってきたから、大丈夫かなと思って」

「オレは大丈夫だよ。むしろマサキこそ心配なんだけど……。あー、でもそうだ。やることは増えてるな」


 先輩は自分自身と話しているように考えてから、


「マサキ、ニーちゃんの世話って頼める?」

「えっ、大丈夫ですけど……?」

「よかった。じゃあまた明日」

「あっ、はい、おやすみなさい」


 せかすように電話を切られた。つい二つ返事で了解してしまった。少なくとも実際に彼の家に行くのは絶対に避けなくてはならない。

 電話越しの先輩は、あまりにも普通すぎたのだ。彼が関係者なのは間違いなく、その上でただの被害者なら、今こんなに平然としていられるだろうか……。

 


 

 次の日、天気は朝から雨、予報では午後から警報級の大雨。それ以外にも衝撃のニュースが目についた。地下道がもう頭まで冠水したとの報道。急いで着替え、朝食を夕子さんの部屋まで運ぶ。最初に話題に上がったのもこの件だった。


「昨日の夜の地下道の冠水は、用水路が一部詰まって第三工場周辺から水が流れ込んだことが原因。ということにしました」

「実際は違うと?」

「ええ。物理的には不自然な現象でしたから」

「なら堰根はその現象を上から確認するために展望台にいた……。何が起きたのか、見にいかないと」

「貴方が向かう必要はないわ」

「幹也さんがもう行っているからですか?」

「……………………ええ」


 随分と返事に間があった。何かを隠しているのだろうが、理由を問い詰めても仕方ない。

 そもそも今は僕の方にも隠し事があるだろう。胸がちくりと痛んだ。


「それと堰根の件ですが、監視カメラにはまだかかっていません。特に工場や関連施設の周りにいたなら、警察の協力を待つ前に私達が管理しているカメラで分かりますからね。冠水の現場はちょうどその辺りです」

「なるほど……それ縁宮ふちみや学園も分かりますか?」

「あの学校にはカメラと出入りの記録を提供させています。それと詳細を話してはいませんが、堰根は出入り禁止にするように要請しました。やはり金曜以降に学校に来た記録はありませんね」


 あの男はなぜ学校の保健室なんかにいたのか。ただの表の職業ということは今更考えにくい。先輩との接点のため……いや、それ以外の理由だって十分にあり得るじゃないか。

 

「なら僕は学校を見てきます。あんな人の多いところに、何か仕掛けられていたらまずいので」

「…………そうね」

 

 夕子さんは少し考えてから、行き帰りの車を手配してくれた。



 学校は日曜日でも部活と自習室のために開いている。休日の施設利用も制服着用が義務だ。なんの変哲へんてつもない学校の日常景色が流れている。

 保健室の扉をそっと開ける。がらんとした部屋の真ん中の机には、誰でも使える救急箱が置いてあり、引き出しや薬品のある戸棚には鍵がかかっていた。集中してみるが、変な気配はしなかった。

 だが本命は人の出入りが多い保健室よりも、堰根から教えられた裏口だ。もちろん堰根自身も使っていたのだろう。そこを迫水先輩の所へ向かわせるために、わざわざ僕に教えたという事実。どうしても深まっていく疑惑に心が重く沈む。

 

 透明なビニール傘をさし、神経をとがらせて校庭を歩く。裏口に着いたが、もちろん誰もいない。だがなんだろうか、ここは保健室よりも嫌な感じがする。集中して地面や倉庫の影に、呪いの痕跡がないか探していると、

 

「あれ、マサキ。こんなところで会うとはね」


 背を向けていた門の向こう、とてもよく知る声がした。振り返ることもできず、その場に凍りつく。


「もしかして、堰根先生を探してた?保健室にいた?」

「い、いなかったです」

「そう、オレも聞きたいことあったけど、まぁいいか」


 門が金属のきしむ音をさせて開く。馬鹿だ、なぜ僕は鍵が開いていたことに最初に気がつかなかった。もう遅い、彼が近づいてくる。意を決して振り返るしかない。


「先輩……?」

 

 傘、どうしたんですか。

 迫水先輩はずぶ濡れの制服姿で、それなのに、なんでもなさそうに微笑んでいた。


 雨の幽霊みたいだ。

 

 まるでとらわれているように、二度と陽の下には出られないと思えるほどに、その姿からは生気を感じなかった。

 

「マサキ、ちょうどいいからこのまま家に来てよ」

「え……」

「ニーちゃんの面倒見てくれるって言ったじゃないか。他にも話したいことがあるし」


 迫水先輩は僕の手を掴む。濡れた彼の手は酷く冷たく、だが確かに肉として実在している。そのまま引っ張られて、転びそうになってしまうほどに、彼の力は異様に強かった。


「ま、待って!待ってください」

「早く。また塞がってしまうから」


 何が?先輩は何のおかまいもなしに僕の手を掴んだまま歩き始める。親が駄々をこねる子供をひっぱって連れて行くように、有無を言わさぬ力の差だった。中学生と高校生のそれではない。

 僕はつんのめりながら学校を出てしまい、誘導されるがままにすすんでいく。前に見えるのは、あの細い地下道への入り口だ。


「地下道!?先輩、ここはもう通れないです!」


 地下道は冠水しているはずだ。通路は繋がっているから、水深に差はあれど、一部だけ無事なんてありえない。


 ついに階段が目前に迫る。奥の明かりが完全に消えていて、真っ暗闇への穴になっていた。あるはずの底が見えない。入ったら最後、奈落の底まで落ちていくのではないか。

 

 流石にこの中には絶対に入れない。僕は渾身こんしんの力で先輩に逆らい、足を踏ん張った。


「来て」

「痛っ!うわっ!」


 下の段にいる先輩がぐいと、手を引く。当然バランスを崩し、僕の体が浮く。重力はその隙を見逃さない。視界がぐるりと回り、地面が迫る。


「危ないな」

 

 頭が激突する前に、先輩の腕が僕の体を支えた。倒れ込む形になるが、彼は何の苦もなく受け止めてる。

 落下という生命への根源的な恐怖は、僕の抵抗心をくだくのに十分だった。震える足がすべらないよう残りの階段を降りる。

 

 最後の段を降りても水溜まりはなかった。だが地上からさす光がわずかにでも届くのはここだけで、地下道の奥は本当に光がまったくない暗闇だ。正気じゃない。こんなところを通ってきたのか?


「この道は通れるようにしたから大丈夫。流石に上を迂回うかいするのは面倒だし」

「通れるように……した?」

 

 意味がわからない。

 それから彼は黙って、僕をくいぐい奥に引きずり込んでいった。もう僕の腕も、掴んでる先輩の姿も見えない。

 目の前にいるのは本当に迫水辰なのか?


「迫水さん!あなたは何をしてたんですか?」

 

 僕の大声が、ぐわんぐわんと反響する。

 そのいびつな音にようやく先輩は足を止めた。


「あぁ、マサキはどこまで知ってるんだっけ?気にしてるのは昨日の晩に君の親戚に殺されかけた話?それより前から?」


 聞き間違えであって欲しかった。

 

「気色悪い化け物を用意してきたから、こっちも同じ手で乗ってやったのに、最後は銃って。さすが大人はやることが汚いね」


 先輩はくすくす笑いながら、確かに言った。昨日学校であったちょっと面白いことを話すように。

 

 幹也さんがそうしたことに、もはや驚きは無かった。せざるをえない理由は目の前で起きている。

 だから今知りたいのは一つだけ。


「…………それで、あなたを狙った人は」

「殺した」


 ころした。ころした。

 先輩の短い言葉は、すっと闇に溶けて消えた。だが僕の頭の中では何度も何度も反響して、いつまでも音節が鳴り続ける。その先にある、理解という段階に入れることを拒むように。


「君の親戚なの知ってたからさ、流石に手加減したのに。やり返しただけだよ」


 呼吸が苦しい。


「二人いたけど、君が気にしてるのは地下道の中にいた奴か。あんな所で襲ってくるから、おかげで公共の場が水浸しになってしまった。あぁ、出たところを襲われて、オレは回復まで動けなかったから、水を使って地下道の中までやり返したって流れなんだけど」


 どうしてこんなに饒舌じょうぜつなんだろう。暗闇の向こうで、どんな顔をして僕の大切な人の殺し方の説明をしているのだろう。


「水を入れるのは結構簡単だったけど、抜いたり、退けたりするのは意外と面倒で、このへんは中央通路に近いから特に――

 さっきから黙ってるけど、大丈夫?」


 限界だった。これ以上何も聞きたくないし、この先に進みたくなかった。


「…………もう離して」

「置いていっていいの?」


 まるで駄々をこねる子供をあやす母親のように、怒りのない声色だった。


 その時、真っ黒な視界の下側で、ちらちらと揺らぐ不吉な赤色が見えた。あっという間に、僕の足元に到達したそれが、靴の中に染みる。

  

 置いていっていいの?こんな所に。

 地下の底、暗闇の奥、下水の中、幹也さんの死体の隣。

 

 水が迫っている。瞬く間に足首まで水位が上がる。このまま取り残されたら、この水は容赦なく僕の命を奪うのだろう。 

 最初から、僕には行動の選択肢など与えられていなかった。


「よかった。じゃあ急ごう」

 




 

 

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