第2話 向日葵の

「それでね、もう、今日はおかしくて」

 俺の隣でころころ笑っているのは八代真花やしろまなか。二十四。いくつか年上で、付き合ってもうすぐ一年になる。

 彼女の友だちの菜穂子なほこさんのやっているスピリチュアルな雑貨屋で働いている。仕事は気楽なようだ。


「すごく真剣な顔した男の子が入ってきたから、ははーん、女の子になにかプレゼントするんだなって初めから思ったわけよ。中学生くらいの子だったのよ。なっちゃんと肘をこつきあいしながら必死で笑顔を作ってたの。だってかわいいな、と思ったから」

「そういうのって『かわいい』んだ? 子供っぽいってこと?」

「そういうわけじゃないけど……そうだなぁ、微笑ましいというか。他人のことなのに自分のことみたいな」


「それで?」

「それでね、彼はお店の中をすっごく緊張した顔で三周くらい物色してから『あの』って、やっと声をかけてきたの」

 ああ、そういうのは俺もあったかもしれない。初々しいってやつだ。今でもまだこなれない、酸っぱい思い出。

「それでね、彼女の誕生日にアクセサリーをプレゼントしたいんだって言ったの。だから念の為、もう付き合ってるのか聞いたら、告白するんだっていうからもう、こっちもドキドキしてきちゃって」


「で、結局どうしたの?」

 真花のこの手の話は本当に長い。どこかでこっちから終止符を打ってあげなくちゃいけない。それは、俺がその話をもう聞きたくなくなる前のタイミングでだ。

 真花はえーと、と少し混乱したように両手を胸の辺りまで上げてごにょごにょと指を動かした。よく喋るわりに、先の道筋を考えてない。


「個人的にはペンダントがいいかなと思ったんだけど、まだ付き合ってないんならキーホルダーかストラップがいいかなってちょっと迷って。それでそのまま彼に言ったの。そうしたら彼はペンダントにするって迷わず言って、ローズクォーツを手にしたの」

「ああ、ピンクの」

「さすがえいちゃん、よく知ってるね」

 いや、一年も付き合ってる彼女が天然石を扱う雑貨屋で働いてたらね、そういう知識もつくよ。毎日こういう話、聞くし。


「ローズクォーツ。恋のお守りだよ。あの子、元々、知ってたのかなぁ」

「バーカ、知らなかったから店の中ぐるぐる回ってたんだろう?」

「そうかあ。じゃあ深い意味はないのかな? 彼女の誕生石とか、そういうのとかさ」

「呆れた。『恋のお守り』って書いて売ってるじゃない」


 女ってすぐそういうの気にするけど、要はあれだ。『彼女に似合いそうだったから』。そして、『喜んでくれそうだったから』。

 ギフトの多い雑貨屋に勤めてて、そんなことに気付かないなんて――いや、それが職業病なのかもしれない。

「ご予算は?」から始まるトークの中で、「彼女に似合いそうだから」とは到底言えまい。もちろん予算はあるけど、あげたいものというのもあるんだ。

 でもいい話でしょ、と上機嫌で真花はずっと喋り続けた。


 ビルに備え付けられた大型ディスプレイでは、今日も『研究家』とやらが来ていて、事態をどうしたら回避できるのか専門用語を混じえて熱く語っている。

 回避できないと諦めるように育てられた俺たち世代は、誰もディスプレイなんか観ない。そこにあるだけ。どうせ毎日同じような日の連続だ。

 信号待ちをしながら真花はずっと喋っていて、俺はすっと肩に手をやった。しばらく真花は俺の顔をまじまじと見ていたけれど、するりと腕の中に収まった。

 七月の蒸し暑い夜で、信号の明かりが心なしかくすんで見えた。




 ――夢を見た。

 ここはどこだ? 一面の草原と、向日葵の黄色が目に刺さる。

 バカみたいな女が目の前で笑ってる。距離が近い。逆光。風に飛ばされそうな麦わら帽子を片手で押さえて、白い顔にそばかすを浮かべてほんのり日焼けしてる。

 ふわっとしたまとまりのない髪が風になびく。

 バカだなァ、お前。

 会いに来たってダメなんだよ。

 バカだなァ、そんなに笑ったって俺たちもう終わったんだって。忘れたのかよ。

 ――忘れてないよ。

 ……忘れてないのかよ?

 ――忘れてない、わたしたち、別れたの。でも約束したじゃない、ずっと。

 ずっと?

 ずっとなんだよ?

 ――瑛太えいた、タバコやめたんだね。肺がんリスク下がるよ、よかった。

 バカだなぁ、俺たちもう、ひとり残らず死ぬんだよ。肺がんリスク、関係ねえよ。どうせみんな死ぬんだよ。

 ふわっと押さえつけてた帽子が風に攫われる。彼女の目がそれを追って手を伸ばす。

 ――バイバイ、わたしの王子様。先に死んじゃダメだよ。元気でいて。


 はい、またね。

 目を開くとそこにそいつの顔はなくて、代わりにあったのは天井だった。

 なんだあれは、天国か? あんな穏やかな風景、見たことない。

 うーん、とTシャツに下着姿の真花が壁際に向かってタオルケットを丸めて抱え込み、なにやらむにゃむにゃと呪文を唱えた。

 タバコ……と手を伸ばして、思い出せば手の行き場はなかった。そうだ、夢の通り。タバコは二ヶ月前にやめた。だけどなんでアイツがそれを知ってるんだ?

 考えてみて、答えを得る。

 ああ、夢だったからだ。

 夢でもなければもう会わないよな。俺もずいぶん変わったし、あいつも三年前とはきっとすごく変わって……。綺麗になったんだろうか? なったんだろうな、男から男へ乗り換えて。

 そんな考え方は最低だ。その女を好きだったのは俺だ。要するに棄てられた。

 スマホで時間を確かめると、まだ三時だった。

 肺がんリスク、か。バカらしい。

 そっとベッドを抜け出す。真花は目を覚まさない。新しいタバコのフィルムを開けてトン、と箱の角を叩いて一本取り出す。未練みたいに持ってた一箱。

 ――なにが禁煙したんだね、だ。お前こそいま、なにやってんの?

 火をつけるのを躊躇う。唇の先に挟んだタバコから、茶色い乾燥した葉がおがくずのようにぱらりと落ちた。

 会いたいかって?

 ……そうだな。別れた時みたいに拒絶されないなら会いたいかもしれない。元気なのかどうかを確かめるくらいなら会ってもいいかもしれない。

 いま、どこでなにやってるんだ?

 ――会いたい。

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