▶︎リサンシャ【渡辺正太郎】
Chapter One: Abandoned 夜明けのディアスポラ
目が醒めたら異世界にいて、英雄になるはずだった。
或いは、テロリストに誘拐されて殺されるはずだった。
そういう分かりやすい筋書だったら、よっぽど納得できたんじゃないか。
オレンジ色に暮れなずむ黎明の空が地平線まで続いていた。気温は低く、吹きつける風が砂を巻き上げては時折顔に叩きつけた。
果たして自分がどうやってここに来たのか全く分からない。不意に視界が歪んで、渦巻くどす黒いナニカに自分が吸い込まれたようだった。直前まで何をしていたのか、記憶がすっぽり抜けおちてしまっていてどうも思い出せない。
とにかく辺り一面に砂漠が広がっているという現実が、もうすぐ夜が明けるということが、今の俺にとっては死活問題だった。
「さて、と……。どうしたもんか」
飛んでくる砂が入ってきて口の中がざらつく。独り言を呟くも半径数十キロ以内に俺以外の人間はいないに違いない。
幸い完全な砂の砂漠ではなく、木が生えているところもある。草むらに身を隠しながら進んでいけば、直射日光による消耗を少しでも抑えられるのではないだろうか。
意外と冷静に考えているが、俺が今おかれている状況がとんでもなすぎていまだ現実感がないのだ。
目覚めた場所の近くに乾ききった
ダメだ。完全に詰んでる。
これほどまでに絶望的な状況だと逆に笑いがこみあげてくる。
何か恨まれるようなことでもしただろうか。ただの会社員の俺が、こんな世界の果てみたいな場所に放り出されるほどの恨みを買うとは思えないのだが。
しかし漫画か小説のワンシーンみたく頬をつねってみても引っぱたいてみてもかなり痛いので、これはおそらく夢なんかじゃない。
日差しは非常に強く、ジリジリと肌を焦がす勢いで焼いていく。少しあたりを歩いてみたが、屍から頂戴した靴はお世辞にも地面の熱を防いでくれるとは言い難く、足を一歩進めるごとに中に砂が侵入する。
遠く空を悠々と飛ぶ鳥の群れが見える。翼があれば楽に移動できるのにとか、やっぱりこれは夢だとか現実逃避が止まらない。どうせ三百六十度砂漠が広がっていて、あてもなく歩いたところで干からびてすぐ行き倒れしそうではある。
「死」という文字が頭の中に大きく浮かび上がる。このままアイツの餌になって終わりなのか。
だが待て。生物がいて死体があるということは、近くに――どの程度近いのかはわからないが――人の暮らしがあることは間違いない。
俺は意を決して、途方もなく広い砂漠を大股で歩きはじめた。
少しは運命に抵抗してみよう。どこまで続けられるかは分からないが。
●
もう一度状況を整理してみる。
自分の名前は思い出せる。
自分が住んでいた町も思い出せる。埼玉県三郷市出身、現在は東京都杉並区在住。大学を卒業して、都内でシステムエンジニアをしていた。
簡単な計算をしてみたが、三ケタの足し算も普通にできるし九九もできる。健康状態に別に異常はない。しかし強力な麻酔薬でも盛られたのか、二〇一五年九月二日以降の記憶がない。あの日は普通に仕事をして、いつものように九時ごろ家路についただけだ。
それに加え、今持っているものは何もない。財布や身分証はおろか食料も水もない。
俺の家族は別に大金持ちじゃないし、お世辞にも優秀な人材とは言えない。そんなごく普通の俺が砂漠に身一つで放り出されてしまった。
なぜなのか、思い当たる節がないか考えてみたが、何も思いつかなかった。
歩き始めて何時間経ったか分からない。とにかく太陽が空の真上に来ていることから、昼頃だということは分かる。太陽の動きを見ながら、同じ方角に向かって歩き続けてはきた。光を遮るものも何もないのに、その場にとどまってもという思いからだった。
汗が体中から噴き出して、思ったよりかなり速いスピードで水分が失われているようだ。正直もうかなり意識が朦朧としてきている。
しかし問題は目の前の蛇だった。さっきたまたまフェネックと思しき小動物を見かけて、追いかけまわしていたら出くわしてしまった。血をすすれば水分を補給できるんじゃないかとか、今思えば浅はかだった。
こんな砂漠の真ん中で、俺たちは命を懸けて対峙していた。俺の目の前にいるやや大きめの茶色い蛇は、こちらを睨みながら間合いを詰めようとしていた。
久しぶりの食料、ってか。
俺は目をそらさないように、気づかれないほど恐ろしくゆっくり距離を離していった。今丸腰で勝てる保証はほぼない。噛まれたら応急手当をすることもできない。
つまり、逃げるしかない。
五メートルあるかないかぐらい離れたところで、俺は踵を返し最後の力を振り絞って全速力で走りだした。
途端、目も止まらぬ速さで蛇も走り出した。足もついてないのに、まるでチーターのように敏捷な動きで俺を追跡する蛇――俺は前に向き直って、必死で目もくれずに逃げた。
走れ、走れ、走れ。
頭の中がパニックになって、俺は息を切らしながら砂漠を駆けた。途中何度も砂利に足を取られてこけそうになったが、どこへ向かうわけでもなく俺は走り続けた。
しかし巨大な砂利の尾根を駆けあがったところで、運悪く地面が脆くなっている場所を踏んでしまった。
ガクッ、と大きく沈み込んだ俺の体はそのまま斜面を転げ落ちて、回転しながらどこかに向かって下っていた。
どこかにぶつかるたび体のあちこちに鋭い痛みが走り、完全に宙に投げだされたときは死んだと思った。
ところが、ザブン、という音がして一瞬で世界から音が消えた。口の中に容赦なく入ってきたそれが、息を止めようとする。
水……?
考える余裕もあまりないまま苦しくなって、俺は太陽の光に向かってがむしゃらにクロールした。
気がつくと、俺はどこかの川の水面から顔を出していた。崖の下を通るその川は、地平線へと向かってずっと流れていた。
水だ。しかも真水だ。
茶色い泥水で汚いし水量もそんなにあるわけではないが、砂漠のど真ん中にいるというこの状況では水を見つけたことはかなり幸運だった。
「うぉおおおおーっ!!」
これで死なずに済むと思って、俺は歓喜の叫び声をあげてジャバジャバ水を蹴りながら泳ぎまくった。
陸地に上がってから、俺はもう一度川のほとりでしばらく水を飲んだり、木陰に座って休んだりしていた。
そうしている内、また涼しくなってきて夕方になったことに気づいた。改めて見てみると、だだっ広い砂漠に沈む夕日というのは、今までの人生の中で一、二を争うほど壮大な光景だった。
本当だったら今の時間、パソコンにかじりついて残業に追われてる時間なのにな。
水のおかげで脳が活性化してきたのか、ようやく落ち着いてきた。あたりには植物も生えているし、なんとか生き残れるかもしれない。
一日目はまだ楽観的にそう考えて、疲れに身を任せて眠りに落ちた。
●
そのまま二、三日が過ぎた。俺は草をつかって文字通りの隠れ蓑を作り、直射日光を防ぎながら移動していた。相変わらず食料は見つからず、結局川沿いにずっと同じ方角へ向かって歩き続けていた。
空腹でかなり頭がおかしくなっていたと思う。あまりにもひもじくて、枯れ木の下にいる蟻やハエ、蜘蛛を食べたこともあった。
はるか彼方に雪山が見えることを除いて、行けども行けども砂と砂利しか見えない火星のような光景が続いていて、俺は半ばあきらめかけていた。
ここで死んでたまるか。
僅かな希望を胸に、一日同じ距離――おそらく十から十五キロ程度、だが直線距離ではないので実際に移動したのはもっと短い距離かもしれない――を目標に、ひたすら同じ方向へ進んでいった。時折水に入って体温の上昇を防いではいたが、どうしてあんな適当なサバイバル・テクニックで生き残れたのかは分からない。あの時に関しては、本当に運がよかったとしか言いようがない。
確か五日目か六日目ぐらいだったと思う。かなり遠くの方、砂や巨礫でできた岩山に囲まれた川沿いの丘陵に、小さな街らしきものが見えた。土の壁ででてきた四角い建物の群れが見える。複雑に複合した家々はまるで城砦で、ヤシのような植物が周囲に点在していた。オアシスといったところか。
最初は蜃気楼かと疑ったが、何度目を凝らしてもやはりそうだった。視力だけはいいので間違いないと思う。
しかし、行ったところで歓迎されるのだろうか。
街に近づくと、民族衣装のような色鮮やかな服を着た黒人たちが歩いているのが見えた。最初文明のあまり進んでいない世界なのか、と思ったが、どうも様子がおかしい。
その城砦都市は確かにかなり古く、いかにも古代都市だった。しかし川の対岸にある小さな建物に続く細い橋は明らかにコンクリート製で、アンテナのついている家もある。歩く人の中にはカメラをもって写真を撮っている人もいるし、看板に書いてある文字は明らかにアラビア文字やアルファベットらしかった。別にみんな合成繊維でできたTシャツを着ているし、なんと観光客――だと思う――の白人たちも見えた。かなり規模の小さな町でビルや政府の庁舎のような建物はない。
例の橋によじ登って、行きかう人々の間を歩いていたが、こんなボロボロの格好のせいでかなり浮いていた。
ここは現実世界なのか?
ではなぜ俺はこんなところにきてしまったんだ?
俺が再び悩み始めたのとほぼ同時に、黒人の男が話しかけてきた。身なりは完全に現代人で、サングラスをかけてスマホを片手にガムを噛んでいた。
「You, Chinese?(オマエ、チュウゴクジン?)」
男は白い歯をむき出してニヤニヤと笑っていた。明らかに客引きという感じで、その後しばらく英語で何かをまくしたてていたが、あいにく俺は英語が苦手なので聞き取れなかった。
訛りのキツイ英語を話しながら、彼はモルタルの塗られたロッジの方へ向かって俺に並走してきた。
「Wanna come with me?(イッショニクルカ?)」
ここだけ分かったので、なんとか状況を把握することができた。おそらくここは中東かアフリカの観光地で、この黒人の男は彼なりに常識的に考えて俺をただの旅行者だと思っている。
ならば、やることは一つだ。
「No, thank you. Goodbye!(結構だ。じゃあな!)」
英語はできないので、とりあえず適当にまくことにした。
急ターンして逆走し、遺跡の方へ向かって走った。ふらふらした足取りだったせいもあって、途中何度も人とぶつかった。狭い入口を通り抜け、赤茶けた要塞の中に侵入した。
中にはもう人は住んでいないらしかった。時折見えた地元の人はおそらく観光客に何かを売っていただけだろう。
適当な建物の影に逃げようとしたが、通路がかなり複雑に入り組んでいて道が分からず、人気のない袋小路に出てしまった。
あまりしつこければ街の警察に届け出るか、と思った瞬間後ろから目隠しされた。しまった、という声も出さずに続けざまに誰かにいきなり腹を何発も殴られた。
金持ってない人間にこんなことしてもな……。そう思いながら、疲れが限界に達していたこともあって俺は簡単に意識を失った。
●
あれが夢の中の出来事だったのかは、今でも分からない。
とにかくあの時、誰かが無言で右手をこちらへ差し伸べてきたように感じた。
お前は、誰だ……?
俺はそれに向かって手を伸ばした。
再び目を覚ました時、まず感じたのは鈍い痛みだった。気づいていなかったが、あの時の俺の体は擦り傷や切り傷、そして体中に殴られた痕があってボロボロだった。
おずおずと瞼を開くと、ぼんやりとした視界の中に人が見えた。何人いるのかも分からないが、なぜかこちらを攻撃してくる気配はなかった。
次第に意識がハッキリしてきて、今までのことを思い出してきた。
俺はきっと、何かの犯罪組織に人身売買目的で売り飛ばされたに違いない――勝手にそういう確信を持って、俺は目の前にいた老人を睨みつけた。
こいつもその一味だろう。
腹にかけられた毛布を取っ払ってつかみ掛かろうとしたとき、その老人は優しい目でスープの入った皿を差し出した。
「.اشرب」
そのあと現地語で何かボソボソと言われたが、口調に敵意は全くなかった。彼はかなり高齢のようで、褐色の肌は皺だらけで腰も大きく曲がっていた。そこまで気づいて初めて、彼が俺を傷つけようとしているとは考えにくい、という結論に達した。
「……すみません」
通じているかどうかは分からないが、俺は謝った。そして久しぶりの飯を口に掻っ込んだ。あの豆の入った赤いスープは、今まで食べたどんな食事よりもうまく感じた。老人は二つの茶色い瞳で俺を見つめながら、ニッコリと笑った。
どうして自分がそこに来たのかは、そのあと数日その家に泊まってから判明した。
このお爺さんはこの家に妻と二人で暮らしているらしく、他の家族はいなかった。そしてどうやら、俺が彼の家の近くの
おそらく、俺を袋叩きにした例の黒人の男たちは俺が本当に何も金品を所持していなかったので、気を失った俺をそのまま適当な場所に捨てたのだろう。とにかく殺されなかっただけよかった。
しかしこれで、今度はそもそも俺がこの国に来てしまった原因がまったく分からなくなってしまった。もし俺を誘拐する目的なら、そもそも奴隷として売り飛ばすはずでただ殺すようなことはしないだろうからだ。
そのまま数日間、泥水を飲み続けていたせいもあって激しい熱と下痢に苦しめられた。その間も老人と妻であるお婆さんが看病してくれた。
老人の家は貧しいようで、家の中には擦り切れた絨毯とラジオぐらいしか物がなかった。土壁はところどころ割れてはがれ、レンガがむき出しになっていた。しかし彼は一日に何度か、家の隅に置かれた例の絨毯の上で神に頭を垂れることだけは欠かさずに行っていた。酒を飲まず、豚肉も食べず、生活を見ていてもやはり彼は敬虔なイスラム教徒なのだろう。
俺の家は仏教徒で、家族でお祈りをすることもあった。多少は理解できるが、やはり国や文化が違うと共感はしづらい。
だが彼が自分の食べるものもままならない中で、誰とも分からない俺に衣食住を用意してくれたことには感謝すべきだ。そういうことを美徳とする感覚は、全人類に共通することだろう。
『遭難』から十日目――。
健康状態が回復したので、荷物をまとめて老人の家を出ることにした。と言っても、老人からもらったリュックサックには衣服と水、それからビスケットなどの軽食程度のものしか入っていないが贅沢はできない。
別れ際に、老人とお婆さんがそこから一番近い街まで見送りをしてくれた。老人は俺の右手に手書きの地図と、小さな袋を握らせた。中には少額だがお金が入っていた。
アラビア語の印刷されたこの皺くちゃな紙幣がこの後役に立ったのだが、あの時の俺はそんなことは知らない。俺は最初受け取れないと思ってお金だけ彼に返そうとしたが、彼は俺の手を強く握ってこう言った。
「.بسلاما」
今なら分かる。この言葉はアラビア語で「神のご加護を」という意味で、つまり老人は「さよなら」と言っていた。
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