第22話 真言

咄嗟に開耶は男の腕を掴んでいた。


「おたあ様はどこ?」


男はまろやかに口の端をもたげた。美しく、でもどこか恐ろしげな含みを持たせた奇妙な笑み。


「さて。何処にあろうと、そなたの母ではない。我らのもの」


言って、薄桃の光に象られた羽根を広げる。


「駄目、返して!」


手を伸ばした開耶の二の腕を掴み、男はふわりと浮き上がった。あっと思う間もなく、開耶の足は地から離れる。



「待て!」


重隆が手を伸ばすのが見えたけど、開耶の指はそこまで届かない。開耶は男に掴まれたまま木立の間を抜け、気付けば高木のてっぺんを見下ろしていた。


昇り始めた月が山の端から顔を出したのが目の端に映る。異様に大きくて赤い月。凶兆だと思った。京の都では陰陽師たちが加持祈祷を行なっていることだろう。


その時、足下の江間の屋敷から焔がチロリと上がるのが見えた。紅く照らされた壁にくっきり浮かぶ女の影。上空を見上げたその面はまごうことなき母のものだった。和らげに緩められた目元にポツンと染みのようなホクロ。


「おたあ様!」


だが母は叫ぶ開耶の声など聞こえぬのか、クルクルと舞いながら、その手の中の小さな焔をフゥッと吹き飛ばしていく。あちこちに吹き飛んだ焔が、まだ燃えていないものを求めてチロチロと蛇のように舌を伸ばす。


「止めて、おたあ様!」


叫ぶが、こんな上空に居てはどうにもならない。でも止めなくては。開耶は懸命に祈りを口にした。


「オウム アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ バンドマ ジンバラ ハラバリタヤ フウム」


「オウム アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ バンドマ ジンバラ ハラバリタヤ フウム」


万難を排してくれる光明眞言。


——どうか、おたあ様を止めて。


左の目の奥が熱い。光が漏れ出す。そこに浮かび上がる文字。それを開耶は詠み上げた。


「李李」


開耶の口が発した言葉に、はためいていた翼が突如その動きを止めた。羽根をピンと伸ばしたまま、由比の海に向かって滑るように、斜めに落ちていく。眼下では迫り来る火の手に逃げ惑う人々が数多見える。振り返れば、北の山の方、鶴岡若宮にも火が燃え移って明るく昼のように辺りを照らしていた。



「そなた、名を取ったか」


男の声が頭の中に響く。


「え?」




クルクルと回り、落ちていくのか昇っていくのかわからなくなる。ただ、どこかの刹那、光る海が見えた。その煌めきを胸に焼き付けて開耶は目を閉じた。


——おたあさん。助けられなくて、ごめんなさい。


私、死ぬんだ。あの日の母のように。




夜の丸い月光を浴びた白銀の世界。冷たく固まっていく母の体。泣きむせぶ幼い少女。


共に死んでしまおうと思った。


でも——


「立って!立ちなさい!」


誰か女の人の鋭い声がして、開耶は弾かれたように顔を上げた。


「そんな所で蹲ってたら死んでしまうわよ」


差し出された綺麗な手に掴まって立ち上がる。


「さぁ、おいで。こっちは安全だから」


優しい声、どこか懐かしい声。


あれは、わたし。


その刹那、開耶は瞼を開いた。


紅い焔が迫ってくる。逃げ惑う人混みの中に何故か開耶は立っていた。


見れば、大きな荷を抱えて逃げ惑う人たちの足下に幼い少女の姿。今にも踏み潰されそうなのに誰も構わない。構えない。少女は頭を抱えて蹲ったまま。


そんな所で蹲ってたら死んでしまうわよ」


そして開耶は手を差し出した。



「さぁ、おいで。安全な所へ行こうね」


少女の手を引いて駈け出す。でも、大きな荷物を引いた押し車が飛び出してきて、危うく引かれそうになる。少女を引き寄せて懸命に横によけるが、その車に脚がぶつかり、開耶は低く呻いた。

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