舜夏醜灯

秒夏 瞬

●八月が生き絶える







つまらない話だよ。でも、聞いて欲しいんだ。


サスペンスのような緊張感も、パズルじみたミステリのトリックもない。ラブロマンスなんて入り込む余地もない二人の話を。


彼女、キタノ ヒカリと、

オレ、モリヤ ヨシトのどうにもつまらない物語を。

結局オレは、彼女を最後まで理解できなかったんだろう。彼女は事情を説明したがらなかった。それに、向こうだってオレを理解できたはずがない。オレはずっと嘘をついていたから。

他人だったふたりが出会い、そして十七時間後に、やっぱり他人のまま別れる。たったそれだけの物語だ。

なのに、君に話しておきたいんだよ。

すぐに忘れてもいい。それでも君に聞いて欲しいんだ。

八月十九日、午後三時四五分。天気予報は晴れのち雨。

物語はありふれた街角から始まる。

そのとき彼女は黄色いタイルで舗装された道路を歩いていた。



















ー キタノ ヒカリ ー



なんだか落とし物みたい。

というのが、少女への第一印象だ。

ヒカリは黄色いタイルで舗装された道路を歩いていた。

きっと造られたばかりのころは、異国の街角を連想させるような、素敵な道だったのだろう。でもそれから何十年かたって、タイルは薄汚れ、しなびたバナナみたいな色に見える。


ー汚れっていうのは、綺麗だった物ほど目立つのよね。

なんて、わかった風なことを考えていたとき、声をかけられたのだ。すみません、とシンプルに。

ヒカリは声の主を捜して振り返る。

三メートルほど後方に少女が立っていた。中学生ぐらいに見える。白いTシャツにとても短い丈のスカートをはいた少女だ。

その少女はなんだか落とし物みたいに見えた。

だれかの手元から、あるべきではない場所にぽとんと落とされたようだった。

周りには不釣り合いな、あまりに美しい少女だ。顔立ちも、まっしろな肌も、長い黒髪の質も。部分のひとつひとつが、美しかった。道端に転がった、お洒落なデザインのシャープペンシルみたいに、少女は現実から浮いてみえた。

彼女はとても真剣な表情を浮かべて、「道を教えて欲しいのです。」

カタカナの羅列を読み上げるような口調で、ある町名を告げる。

ヒカリはその少女をじっと観察していた。ヒカリには気になったものを集中して眺める癖があった。

目の前の少女からはリアリティが欠如している。例えば彼女の肌は白すぎる。血液にさえ色がついていないのではないかと疑ってしまうくらいに。顔の作りはどこか、日本人とは違ってみえた。具体的にはわからないけれど、とにかく遠い国の住民みたいだ。

言葉も、文化も、常識も、なにもかもが違っている国の住民。

少女は眉間に皺を寄せて、もう一度繰り返す。

「道を教えてもらえませんか?」

とたん、ヒカリは自分がとても失礼なことをしているのではないかと思い当たった。年下の同性でも、初対面の相手をじろじろと観察するのはマナー違反だろう。

「ごめんなさい」

幸い、少女が先ほど口にした町名には聞き覚えがあった。

ヒカリは早口で答える。

「この道をまっすぐ進むと、自転車屋さんがあるの。ミヤモトサイクル。その角を、右に曲がった辺りだよ」

ありがとうございます、と会釈をする少女に、質問を付け足す。

「どうして、私に道を訊こうと思ったの?」

ヒカリは今、肩から大きめのボストンバッグを下げている。あまり現地の人間にはみえないだろう。

少女はきょとん、と音が聞こえそうな瞳を再びこちらに向ける。その姿はウサギに似ていた。ウサギはいつもきょとんとしているように思う。

「だって貴方は、ここで生まれ育ったのでしょう?」

驚いたその通りだ。

ヒカリは三年ほど前、十八歳の頃までこの街で暮らしていた。

久しぶりに、ヒカリ自身の誕生日に合わせて戻ってきたところだ。

「どうして知ってるの?」

「見ればわかります」

「わかるわけないよ」

少女は首を傾げる。

こちらがなにを疑問に思っているのか、理解できないようだ。

ヒカリは内心でため息をつく。

「私も同じ方向に行くの。歩きながら、話をしていいかな?」

理由はよくわからない。でも、なんだか気になる少女だ。簡単にはすれ違いづらい。

思えば昔から、ヒカリは落とし物を無視して歩くのが苦手だった。ふたりは並んで、町名が二回変わるくらいの距離を歩いた 。

ヒカリはそのあいだに、少女についていくつかのことを理解した。

少女の名前はマスモトで、高校二年生で、最近はアイスクリームに興味があるらしい。

どこにもおかしな部分のない話だった。生涯を通じて高校生を経験しない人は稀だし、今は八月だ。八月は多くの人がアイスクリームに興味を持つ時季だろう。

でも、その少女、マスモトがヒカリの出身地を言い当てられた理由はよくわからなかった。

「匂いのようなものです」

と、マスモトは言った。

「匂い?」

「はい。つまりそれは、直感的です。花の匂い。人の匂い。アイスクリームの匂い。どれもロジカルではありません。言語化することは困難です。でも匂いを嗅げば、それだとわかります」

ああ、そうかもしれない。たしかに匂いは、いくつかの手順をすっとばし、直接記憶と結びつく。

ヒカリは「ええっと」と口ごもってから、尋ねる。

「私からは、この街と同じ匂いがするってことかな?」

だがマスモトは首を振る。

「違います。匂いはただの例え話です。貴女とこの街が同質のものだというのが、直感的にわかるのです」

ほら、やっぱり、理解できない。どれだけ説明されても、マスモトがヒカリの出身地を当てられたことに理由があるとは思えない。ただの勘か、さもなくば超能力だ。

「貴女は太陽の匂いがわかりますか?」

尋ねられて、頷く。

「わかるよ」

布団や洗濯物を日干しにした後の匂いだ。

「それと同じです」

マスモトは少しだけ得意げに、人差し指を立てる。

「貴女は行ったことのない太陽の匂いを知っています。そういう風に、直感でわかることはたくさんあるのです」

まったく違う、とヒカリは思った。

太陽の匂いというのは、布団や洗濯物に付着した汗や洗剤なんかが、熱と光によって分解されたものの匂いだと聞いたことがある。だから太陽の匂いとよばれているものは、実のところ汗や洗剤の匂いだ、直感はわかった気になるだけで、本当はなにも教えてくれない。

でも、そんなことをまだ子供と呼べる歳の女の子に指摘しても仕方がない。

ヒカリは口元で頷く。

「なるほどね」

それから、太陽の話が出たからだろう、ほとんど意識もせずに空を見上げた。

深い青空だ。視界がちかちかするくらい。

「しっているかな?こんなによく晴れてるのに、今夜は雨が降るんだよ」

マスモトは首を振る。

「知りませんでした。どうして、わかるのですか?」

「ん。直感」

嘘だ。本当は天気予報をみただけ。

腕時計に視線を向ける。もうすぐ午後四時になるころだ。

ヒカリは交差点で足を止めた。曲がり角に自転車屋がある交差点だ。

「だいたいあの辺りが、貴女の行っていた住所だよ」

と赤信号の向こうを指す。

マスモトは頷いた。

「わかりました。ありがとうございます」

彼女は横断歩道の先、赤信号の下に視線を向ける。

ヒカリもなんとなく、マスモトの視線を追った。こちらを向いて信号を待つ人々の中に、目を惹く青年がいる。

青年はヒカリよりも幾つか年上に見えた。おそらく二十代の半ばだろう。黒のオーバーサイズのパーカーにヒラヒラのズボンを履いていて髪は不自然な金髪だ。総じて活力のない若者のような風貌だ。

彼がヒカリの目を惹いたのは、何かを高く掲げているからだ。なにか・・・A4サイズほどの、薄っぺらなもの。おそらくスケッチブックだろう。

信号が青に変わる。

マスモトが足を踏み出す。ヒカリも後に続いた。予約しているビジネスホテルが、そちらの方向にあったのだ。

横断歩道を渡り、青年の前を通り過ぎるとき、スケッチブックに並ぶ文字が見えた。

「幸せの伝播」と、荒々しい筆致で書かれている。

青年は大声で叫ぶ。

「オレの話を聞いてください」

なにか宗教の勧誘だろうか?

通行する人たちは彼から目を背け、足早に通り過ぎていく。誰もが彼をいないものとして扱いたがっている。その中で彼一人だけが、スケッチブックを掲げて叫び声を上げている。

「お願いします。オレの話を聞いてください」

ヒカリも彼から目を背けた。前だけをみて歩く。他の通行人と同じように。

なのに、

「あの」

なぜだか青年は、ヒカリを追いかけてきた。めのまえに回り込まれる。仕方なく、ヒカリは立ち止まった。

「ほんの一、二分でいいんです。お願いします。話を聞いてください」

スケッチブックが目の前にある。『幸せの伝播』。でも彼に話しかけられたことは、どちらかというと不幸だ。

なんだか奇妙に情けない気分になる。

心の中のぼやきが、ついそのまま口から漏れた。

「どうして私なんですか?」

交差点には何人もの通行人がいる。なにもその中から、私を選び出さなくてもいいじゃないか。

青年は平然と答える。

「誰でもいいんです。話を聞いてもらえれば」

「なら私じゃなくてもいいでしょう?」

「貴女でもいいんです」

滅茶苦茶な言い草だ。

ともかく早く、この場を逃げ出そうと思った。

でもヒカリが歩き出すよりも先に、青年は口を開く。

「幸せな人っていると思いますか?」

「そりゃ、どこかにはいるんじゃないですか」

「どこかって、どこに?」

「知りませんよ」

「考えてみてください。貴女の知り合いに、幸せな人っていますか?」

つい真面目に考えそうになるが、思い留まる。相手のペースに合わせてはいけない。

「幸せな人に会いたいなら勝手に探してください」

それでは、と言おうとしたけれど、彼に遮られる。

「ああ、違います。オレは別に、幸せな人を探しているわけじゃなくて。ちゃんと考えてみると、幸せな人って、とても少ないんじゃないかと思うんです」

「そうですか」どうでもいい。

そういうことは政治家か、どこかの国際的な組織に所属している、何か無闇に大きなことを考えている人たちが統計でも取ればいい。


なのに青年は真剣な瞳でこちらを見つめている。

「オレは、たぶん幸せではありません。でもオレが幸せになる方法は知っています。オレの夢の叶え方、とも言えます」

はあ、と相づちとため息を兼ねたような言葉で、ヒカリは答える。

青年は気にした様子もなく、続けた。

「お願いします。オレの夢を叶えるのを、手伝ってくれませんか?」

思わずヒカリは笑った。

きっと「貴女を幸せにしてあげます」という風なことを言われるんだと思い込んでいたのだ。自分が幸せになるのを手伝えなんて図々しい話だなんて。

なんとなく興味が湧いて、ヒカリは尋ねてみた。

「私はなにをすればいいんですか?」

「オレの話を聞いてください」

「それだけでいいの?」

「いえ。他にもあります。でも、まずは、オレの話を聞いてください」

彼はあからさまに怪しい。『幸せの伝播』なんて書いたスケッチブックを掲げている男がまともだとは思えない。

そして、怪しい人の話は、できる限り聞くべきではない。

わかりきっていることだ。でも。

ー考えてみれば、私が厄介ごとにまきこまれることなんて、もうあり得ない。

彼がどれほど馬鹿げたことを言い始めたとしても、関係ない。ほんの短い時間だけ、全く知らない青年の夢に付き合って過ごすのは、そう悪いことではないように思える。でもやっぱり面倒だという思いもあって、悩んでいると声が聞こえた。

「私も、ついて行ってもいいですか?」

気がつくとすぐ隣に、マスモトが立っていた。

彼女はずっとそこで話を聞いていたのだろうか?よくわからない。こんなにも美しいのに、奇妙に目立たない少女だ。

ヒカリがなにかを言う前に、

「ええ、もちろん」

と青年が、元気よく頷いてしまった。結局、カフェに入ることになった。

青年が場所を変えてじっくり話をしましょうと言いだしたのだ。

四人がけのテーブルに、まず青年が腰を下ろす。ヒカリは彼の向かいに座った。マスモトはヒカリの右側だ。

三人はそれぞれ飲み物を注文してから、青年は財布を開く。なにかカードを取り出し、テーブルの上に置く。それをこちらに向かってスライドさせた。

「モリヤ ヨシトと申します。」

ヒカリはしばらくそのカードを眺めてから、彼・・・モリヤ ヨシトに視線を移動させた。

「なんですか、これ」

「運転免許証です」

そんなことみればわかる。

「どうしてこんなものを?」

普通、自己紹介と一緒に差し出すのは名刺ではないだろうか。

モリヤはあっけらかんと答える。

「だって、オレを信用できないでしょう?」

もちろん。

でも素直に頷くのも気が引けて、困っていると彼は続けた。

「街中でスケッチブックを掲げて、幸せがどうこう言いだす奴なんて、避けて通りたいに決まっています。普通は信用できません」

まったくだ。自覚していたのか。

「なら、名刺なんて用意しても意味はないでしょう?そんなのいくらでも勝手に作ってしまえるんだから、そこで運転免許証です。クレジットカードを作れる程度には、信用のある身分証です」

モリヤは誇らしげに運転免許証を掲げ、コピーしましょうか?と首を傾げた。彼の言っていることは理解できるが、余計変人だと思った。

なんだか気圧されながらヒカリも名乗り、隣に座っている、マスモトに視線を向けた。彼女は席に着いてからずっと、メニューのページを往復している。

ケーキの写真を見比べながら、

「マスモトです」

と少女は言った。

モリヤは戸惑った風に笑う。

「食べたいものがあれば、遠慮なく注文してください」

マスモトはまだメニューを見ている。

「欲しくなれば、自分で購入します。私のことは気にせず、話を続けてください」

そうだった。モリヤが言うところの、「オレの夢の叶え方」について聞くために、ヒカリはここに来たのだ。

「ああ、うん。そうですね」

モリヤはテーブルの上にあった運転免許証を財布にしまい、わざとらしく一度、咳払いをした。

「ヒカリさんは、ネズミ講を知っていますか?」

思わず顔をしかめる。

「詐欺、ですよね?」

彼は簡単に頷く。

「そうです。犯罪です。」

モリヤの夢というのは、犯罪で金を稼ぐことなのだろうか。別に彼がどんな悪人でも関係ないけれど、少しがっかりだ。

店員が注文していた飲み物を運んでくる。ヒカリはオレンジジュース、マスモトはソーダフロート、モリヤはアイスティー。マスモトはようやくメニューを手放し、真剣な面持ちでスプーンを握った。慎重にソーダフロートのアイスクリームをすくい上げる。

それを横目で眺めながら、モリヤは言った。

「ネズミ講のどこが犯罪なのか、知っていますか?」

首を振る。

なんとなくわかるが、うまく説明できる自信はなかった。

「ネズミ講は、正式には無限連鎖講と呼ばれます。例えばある人が、二人の会員を募り、会員たちからお金を徴収する。会員たちは、さらに下位の会員を二人ずつ見つけてくる」

彼は淀みなく話しながら、スケッチブックを取り出し、マジックでそこに図式をかいた。

まず、一人の親がいる。その下に子が二人、さらに下に四人の孫が。ピラミッド型に幅を膨らませながら、彼の描く図は伸びていく。

「子は親にお金を払い、孫は子はと親にお金を払います。その構図がどこまでも続いていく。会員になった人は、一時的にお金を支払わなければならないけど、さらに下位の会員が増えればお金をもらえて、みんな得をする。そういう構図です」

「素晴らしいですね」

感銘を受けた風に、マスモトは頷く。

だがそんなことが、上手くいくわけがない。

「それは会員が増え続けるなら、ということですよね?」

いつか、会員が増えなくなれば、後ろの方でお金を払った人は損をする。

それにモリヤが書いた図では、親が一人、子が二人、孫が四人だ。その調子で増え続けなければならないなら、次の代が八人、さらに次の代が一六人・・・新しく獲得しなければならない会員の数が、飛躍的に増加していく。

ヨシトは力強く頷く。

「新たに必要な会員の数は、たったニ七回目でこの国の人口を超えます。三三回目には世界の総人口でも足りなくなります。構造的に、みんな得をするなんてあり得ない。だからネズミ講は詐欺なんです」

「わかっているのに、そんなことをするんですか?」

「わかっているから、するんです」

モリヤは蓋をしたマジックで図を叩く。

「反対に考えてください。たった三三回足らずで、世界中のみんなを会員にできるんですよ」

オレンジジュースに口をつけてから、尋ねる。

「親になれば、世界中からお金を取れるということですか?」

モリヤは首を振る。

「金はとりません。儲けることが目的じゃない。会員を増やすことだけが目的です」

「なんの会員ですか?」

「名前はないんです。いろいろ考えてみたけれど、どんな名前でも、つけた途端に胡散臭くなってしまう。だから、その会に名前はありません。でも・・・」

彼は照れた少年のように頭を掻いた。

「でも、簡単に言ってしまえば、良い人の会です」

ヒカリは眉をひそめる。

「良い人?」

モリヤはグラスを手に取った。

「ね?胡散臭いでしょう?」

ストローで一口、アイスティーを飲んで、彼はグラスをマジックに持ち替える。

先ほどの、ネズミ講のピラミッドの隣に、「良い人」と書き足した。

「こういうことです。つまりオレは生涯をかけて、二人の会員を作ります。会員の役割は、いつも良い人でいること。そして一生のうちに、二人会員を増やすことです。三三回目には、人類みんながいい人になります」

彼はまっすぐにこちらを見て、身を立て乗り出して、

「オレの夢は、いい人ばかりの世界を作ることです」

そう、言い切った。

馬鹿げている。反論ならいくらでも思いつくはずだ。そんなことが上手くいくはずがない。だが、頭が混乱していた。言葉が見つからない。

結局ヒカリは小さな声で尋ねた。

「どうして、そんなことを?」

モリヤは得意げに笑って、スケッチブックのページをめくる。

「だって、幸せじゃないですか。自分も周りのみんなも全員が良い人なら、その世界に暮らす人はきっと幸せです」

彼が開いたページには、荒々しい文字で大きく、『幸せの伝播』と書かれている。

「世界平和は、人類の夢ですよ」

たしかに、それは夢だ。決して現実にはならない夢だ。

ヒカリはどうにか反論を思いつく。

「良い人って、なんですか?」

質問の意味が伝わらなかったらしい。「ええと」と呟いて、モリヤは頰のあたりを掻いた。

少し大きな声で、ヒカリは補足する。

「人によって良いことなんて違うでしょう?良いことと思ってしたことが、別の人からは悪いことに見えたりもします」

客観的に「良い人」を定義づけるのは、とても難しい。そして定義のないものに成れというのは、ちょっと無茶苦茶だ。

モリヤは大きく頷いた。

「まったくです。善悪を明確に区別するのは難しい。だから何が良いことなのか、どんな人が良い人なのかは、各々が勝手に決めてしまってかまいません」

「人によっては随分意見が違いそうですが」

「いろんな意見があるでしょうね。正反対のことを言いだす人たちだっているかもしれない」

「それで、いいんですか?」

「俺はいいと思います」

モリヤは笑う。

「多少のすれ違いがあったとしても、みんなが自分は良い人だ、と胸を張って言える世界にになれば、今よりはずっと暮らし易いはずですよ」

それは、まぁ、そうかもしれない。

彼は続ける。

「それにね、倫理的なことって、表面は違っても根っこはだいたい同じだと思うんです。そうじゃないと、みんなが同じ物語で泣いたり笑ったりできませんよ。ドラマも漫画もヒットしません」

ヒカリはモリヤの顔をじろじろと眺める。

「それで、貴方は良い人なんですか?」

彼はしばらく、躊躇してから、でも頷いた。

「少なくとも、オレの考える良い人でいられるように心がけています」

「たとえば?」

また口ごもってから、彼は羅列する。電車の座席はいちばんに譲り、できるだけ積極的に募金する。困っている風な人を見つけると必ず声をかけるけれど、だいたい三分の二くらいの確率で、怪しげな目で見られる。

「それからー」

彼は真剣な目で、光の顔を覗き込む。

「例えば貴女のために、なんだってする覚悟があります」

意味がわからず、ヒカリは少し身を引く。

「どうして、私のためなんですか?」

モリヤは視線を落として、答えた。

「結局、誰だって自分のために行動してくれた人を、良い人だと判断するんです」

当たり前だ。

ただ隣をすれ違うだけなら、相手が善人かどうかもわからない。

「だからオレは決めたんです。誰かのために、なんだってすることを。本気で、命がけで、誰かのために行動しようと決めたんです。たぶんそういう方法でしか、オレが欲しい会員は増やせないんだと思います」

「それは、相手が私である理由にはなっていません」

誰だって良いじゃないか。

そのあたりを歩いてる人、誰でも。

モリヤは頷く。

「はい。貴女でなくても、構いません。でも、とりあえず、貴女に話してみることに決めたんです。」

ああ。

確かに彼は、初めから誰でもいいと言っていた。

ほんとうに、なんの理由もないんだ。

ただ、なんとなく、私なんだ。

不意に勢いよく、モリヤは頭を下げた。彼がテーブルに両手をついたから、グラスに入った三種類の飲み物が同じように揺れた。

「お願いです。もしオレが、貴女から見て良い人だと思たら、会員になってもらえませんか?一緒に、世界平和をはじめてもらえませんか?」

つい笑ってしまった。

世界平和を始めるなんて、あまりに大げさな言い回しだから。

慌てて、真顔を取り繕って、ヒカリは尋ねた。

「本当に、なんだってしてくれるんですか?」

モリヤはまだ頭を下げている。

「はい、もちろん」

助けを求めるような心境で、隣のマスモトに目を向ける。だが彼女はソーダフロートをほんの少しずつ飲んでいるだけだ。

混乱していたのだと思う。たったひとつだけ思いついたことを、ヒカリは告げた。

「明日、この街で、私に朝陽を見せてください」

モリヤはそっと顔を上げる。

「それで会員になってくれるんですね?」

「ええ。とても難しいと思うけれど」

明日の朝、降水確率は一〇〇パーセントだ。天気予報によれば今夜遅くから雨が降り始め、次の日まで降り続くらしい。雨が上がっても当分は曇りで、朝陽なんて見える余地はない。

でも、

「朝陽がみえなければ、私は会員になれません」

物理的に不可能だ。

明日、朝陽が見えなければ、ヒカリは死ぬ予定なのだから。



































ーモリヤヨシトー



明日の夜明け前にもう一度、ヒカリに会うことになった。

カフェの前で彼女と別れ、角を曲がったすぐ後に、モリヤは大きく息を吐き出した。

コンビニ前のゴミ箱に『幸せの伝播」と書き、掲げていたスケッチブックを突っ込む。邪魔だったのだ。

そのままコンビニでいつもの銘柄のタバコをひと箱買い、すぐにまた外に出た。駐車場の片隅にあった灰皿の前で封を切ったとき、少女が現れた。

「お疲れ様です」

「まったくだ」

ほんとうに疲れた。

モリヤは妙に熱血ぶった人間が嫌いだ。

嫌いな人間を演じるのは、そう難しいことではなかった。自分が苛立つように話していればよいのだから。でも、とても疲れる

工場で大量生産されたタバコを一本くわえ、ポケットに入っていたライターで火をつける。

「お前、マスモトなんて名前だったのかよ?」

「いえ。私に固有の名前はありません」

「じゃあ偽名か」

「はい」

思い切り煙を吸い込む。タール七ミリグラムの煙が脳細胞のいくつかを殺す。酔いに似た感覚は、別に心地よくもない。

口元を歪めて、モリヤは笑った。

「死神だと名乗ってやればよかったんだ」

彼女は首を振る。

「死ぬ予定のない人間に名乗ることは禁じられています」

「オレが伝えたらどうなる?」

「おそらく本気にはされないでしょう」

「それはお前が言っても同じだ」

「はい。ですか、ルールはルールです」

「そうかい」

口を開くたびに煙が漏れた。

肺の中身をすべて吐き出し、もう一度タバコに口をつける。

パッケージには喫煙の危険性を説明する警句が書かれている。推計によると、喫煙者は脳卒中により死亡する危険性が非喫煙者に比べて一・七倍高くなります。

・・・でも、タバコよりもずっと、オレの方が死に近い。

手を伸ばせば届く位置に、本物の死神がいるのだから。

「死にたい奴は死なせてやればいいんだ」

大抵の人間は、死にたくもないのに死ぬ。

死神はもう一度、首を振った。

「彼女はおそらく、死にたいわけではありません」

「でも自殺志願者だろう?」

死にたくない人間が自殺なんてするものか。

「彼女は極めて例外的です」

灰皿の上でタバコを弾く。長くなった灰が落下して、オレンジ色の炎が露出する。

午後五時になるころだ。深みを増す空に雲が増えつつある。天気予報によれば、雨が降り出すまで、あと四、五時間といったところだ。

死神は言った。

「人間は、生きているものです」

「ま、そうだろうな」

「生きている方が自然で、楽なものです」

死神が言いたいことがよくわからなかった。

モリヤが黙って煙を吐いていると、彼女は続けた。

「疲れ果てて、何もかもがゼロになった時、多くの人間はまだ生きています。生きているよりも死ぬ方が大変だから、本当に疲れている時には自殺もできません」

「そうかもな」

適当に同意して、モリヤは指で挟んだタバコを唇に押しつける。

死神はずっとヨシトを見つめている。

「でも、稀に、例外がいます」

その瞳はあまりにまっすぐで、モリヤは彼女が本当に自分を見ているのかわからなくなる。仕方なくまた煙を吸い込んだ。

「例外ねぇ」

何となく話はみえていたが、視線で先を促した。

死神は続ける。

「例外とは、生きているよりも、死んでしまう方が楽な人間です。本当に疲れ果てて、何もかもがゼロにになったとき、簡単に死んでしまえる。つまりは、本質的には、生きているよりも死んでしまった方が自然な人間です」

「そんなの、いるのか?」

「はい。少しだけ」

「どうしてそんなのがいるんだ?」

「わかりません。植物が種のない果実を作るように、初めから、普通よりも少しだけ生から遠い人間なのだと思います」

種のない果実は、つまり受精できなかった果実だ。分かり易い理由がある。人の心の問題とは違うように思えた。

でも指摘するのも面倒で、モリヤは結論に向かう。

「つまり、それが彼女か?」

死神は頷く。

「ヒカリは死にたがっているわけではありません。なにもしたくないときに、ただ自然に、死に惹かれるだけです」

短くなったタバコにもう一度だけ口をつけて、灰皿に投げ捨てた。

あてもなく歩き出すと、死神もすぐ後ろをついてくる。影のように、死のように。

「ま、なんでもいいよ。お前の言う通りにするさ」

理性ではみんなわかってる。

納得できないのは、感情だけだ。

・・・どうして、オレが。

モリヤは胸の中で愚痴をこぼす。

・・・もうすぐ死ぬオレが、自殺志願者を助けなきゃならない?

「どうかしましたか?」

死神の少女が、かすかに首を傾げた。

モリヤは首を振る。

「いや。なんでもない」

納得できないのは感情だけで、理性ではすべてわかっている。

モリヤが死神の少女に出会ったのは、三日前のことだ。

混乱していた。

目を開いた時、すぐ隣に少女がいた。白いTシャツと、とても短いデニム地のスカートをはいた少女だった。おそらく初対面だと思う。

だが記憶が曖昧だ。

・・・ここは? お前は? オレは?

状況がよくわからない。脳の動きもずいぶん緩慢に思えた。痺れた足で立ち上がろうとするのに似た、神経が上手く機能していないような違和感が、意識の表面にまとわりついている。

少女の小さな口が動く。

「交渉しましょう」

彼女はまっすぐにこちらをみつめている。混じり気のないアルコールのような瞳だった。純度一〇〇パーセントのアルコール。消毒液で、劇薬だ。

少女は言った。

「このままであれば、ほどなく貴方は死亡します」

モリヤは鼻で笑う。

「オレが、死ぬ?」

馬鹿馬鹿しい。

タバコを取り出そうとポケットを探り、そもそも今着ている服にはポケットがないことに気づいた。ようやく、自分がいる場所を理解する。狭い座席、大きな窓、やたらとすっきり周囲を見渡せる視界。それから、振動と騒音。

まったく、どうかしている。ほんのわずかな時間でも、こんなところで気を失うなんて。モリヤは咄嗟にペダルを踏み込み、ハンドルの角度を変えた。その、手足に感じる抵抗で、ようやく記憶が繋がる。

・・・オレは、仕事の途中だ。

記憶の覚醒と同時に、恐怖が湧きあがる。

つい、叫んだ。

「お前は誰だ?どうして、ここにいる?」

ここはモリヤの他には誰もいてはいけない場所だ。誰かが侵入することなんか、できるはずのない場所だ。

それなのに、どうやって、こいつはここに踏み込んできた?

少女の声は冷たかった。

「私は死神です。貴方の死期が近いから、私はここにいます」

あり得ない。何もかもが。死神なんているはずがなかった。同じように、今、モリヤの隣に見覚えのない少女がいるはずもなかった。

彼女は小さな、だがはっきりとした声で、続けた。

「貴方はおよそ四秒間、意識を失っていました。貴方の脳は血管の一部に問題を抱えていて、そこから大量の内出血が起こったのです」

後頭部の、右寄りを触ってみてください、と少女は言った。

だがヨシトはそうすることができなかった。右手をハンドルから離せなかったというのもある。それ以上に、自身の頭に触れるのが怖かった。

「貴方はこのまま、意識を取り戻すことなく死ぬ予定でした。私は貴方の魂を回収するためここに来たのです。ですが、誠に勝手ながら、あなたの死期を少しだけ変更させていただきました」

とても、信じられない。

少女は囁くように続ける。

「交渉しましょう。私は貴方に、ある女性を救って欲しいのです。それを叶えてくれるなら、貴方はもう少しだけ生きていられます」

無茶苦茶だ。

夢を見ているのだと思った。馬鹿みたいだが、そう思った。だから繰り返し、目覚めようと力む。だが、だめだ。上手くいかない。五感すべてにリアリティがある。現実だと思えないのは、隣の少女だけだ。

手が震えた。

「あり得ない」

死神の少女は頷く。

「嫌だというなら、構いません。この手の例外的な取引は推進されていません。貴方はふたたび意識を失い、そのまま死ぬでしょう」

それは小さな声だった。

錯覚だろうか?モリヤは、自身の意識が遠のくのを感じた。

・・・どうして。

怖くてたまらない。また叫ぶ。

「どうして、お前の声が聞こえるんだ」

ここはうるさいんだ。とても、うるさいんだ。耳元で怒鳴り合わなければ会話もできない場所だ。なのにどうして、少女のか細い囁きが、聞こえるんだよ。

「それは私が、空気の振動とは違う方法で話しているからです。貴方にしか聞こえないけれど、貴方には必ず聞こえる。そんな言葉で話しているからです」

なんだ、それは。理解できない。まったく。

モリヤは尋ねる。

「お前の言う通りにすれば、オレは死なないのか?」

死神の少女は首を振る。

「いえ。死因が変わるだけです。私に従っても、およそ一〇日後に、やはり貴方は死にます」

一〇日。

たった、それだけ。

「決定権は貴方にあります。どちらを選んでも構いません」

彼女の声は平坦だった。暴力的な、脅しのような強制はどこにもなかった。

今すぐに死ぬのか。一〇日後に死ぬのか。

心底、どちらでもいいと思っている風だった。

「おい、死神」

モリヤは尋ねる。自身も意外なほど、素直な心で。

「たった一〇日だけ生き延びて、なにができる?」

一〇日だけ寿命が延びて、なんになるってんだ?

このまま、ここで死んでしまった方が、ずっと気楽にも思えた。

死神の少女は、なんでもない風に答える。

「たとえば家に帰れます」

なんだ、それ。

モリヤは思わず想像する。自分の部屋に戻り、自分のベッドで眠る場面を。今夜、今まで通りに一日を終えられる場面を。

奇妙なくらいに、魅力的だ。

「もし、一〇日だけ生きることを選ぶなら・・・」

死神の少女は、モリヤの顔を指差した。

「口元を拭っておいた方が良いでしょう」

怯えながらそっと、モリヤは左手で自身の顎に触れる。

濡れていた。左手を顔の前に持ち上げる。赤い。黒みを帯びた赤が、指先に付着している。

血の色。それは命か、あるいは死の色だ。

本能で理解する。

・・・ああ、オレは。

死にたくない。

そして今、目の前で、死神がフォークを握っている。

彼女は魚介類を使ったクリームソースのパスタをみつめていた。

モリヤが夕食に誘ったのだ。独りきりの食事は気が滅入る。誰かが向かいに座っていた方が良い。それが死神でも、傍目には人間にみえるなら、いないよりはマシだ。

モリヤはキノコのリゾットを、適当にスプーンで、かき混ぜていた。食欲はない。

「なぁ」

声をかけると、死神がこちらを向く。

「死神も食事をするのか?」

「必要はありません。食べない方が自然です」

「じゃあ食ったもん、どうなるんだ?」

死神は首を傾げる。

「考えたこともありませんでした。たぶん、この辺りで消えて無くなるのでしょう」

彼女は左手の人差し指で、みぞおちを指して見せた。

「生命への冒涜だな」

「私たちにとって、生命とは魂です」

彼女はフォークで、さらにある小さなエビを指す。

「これはただの物質でしかありません」

「価値観の相違ってやつか」

「どうでしょう。私たちにとって食事は、ビーカーに入れた水をアルコールランプで蒸発させているようなものです」

確かに水の蒸発に、罪悪感はないが。

「蒸発した水は消えてなくなるわけじゃないぞ。水蒸気になっている」

そして雲を経て、雨として、また地に降り注ぐはずだ。

「なら私の食事も、どこかで帳尻が合っているのでしょう」

「どこかってどこだよ」

「知りません。そんな気がしただけです」

「適当だな」

死神はフォークでパスタを巻き取る。

「私は何を知らなくても、何を間違っていたとしても世界は正しいままですよ」

へぇ。

「ずいぶん、詩的な言い回しじゃないか」

「最近読んだ本に書いてありました」

死神が、人間の本を読んで、面白いのだろうか。

「どうして本なんか読むんだ?」

「それを知りたかったのです」

「ん?」

「人が本を読む理由。加えて、本を書く理由」

なるほど。

「わかったのか?」

「いえ。きっと、一つではない。色々な理由があるのだろうと、予想できただけです」

モリヤは鼻で笑う。

「お前、本当に死神か?」

パスタを口に運んだ死神は、下から見上げるようにこちらを見る。

「信じられませんか?」

信じられない。

「死神がどうして、人を救おうとしてるんだよ」

モリヤが一○日分、寿命を延ばすのと引き換えに、死神に頼まれたのはある女性の救助だった。

ヒカリという名前の女性。

彼女は明日、朝陽が見えないだけで、死んでしまう予定だ。

「確かに、死神が人の生死に関与することは稀です」

「そうなのか?」

「はい。黙々と魂を回収するのが、本来の仕事です」

「じゃあどうして? お前は、オレの寿命まで延ばした」

たった一○日だが、死神が延命処置をするというのは、聞いたことがない。

死神は、ふだんと何も変わらない調子で答えた。

「今月はいくらか無茶をしています」

「無茶?」

「はい。私たちは魂を回収します。それは魂の綺麗な部分だけを切り取って、いくつか混ぜ合わせて、次の魂に使うためだと聞いています」

「魂って、リサイクルできるのかよ」

死神は頷く。

「でも最近は慢性的に、魂の数が逼迫しています」

「へぇ」

納得しかけて、だが矛盾に気づいた。

「足りないんなら、さっさと魂を持ってった方がいいんじゃないのか?どうしてオレや彼女を長生きさせる?」

死神はグラスに入った水を飲む。小さな、白い首元が、微かに震える。

「貴方は遠からず死ぬので問題ありません。予定通り、貴方の魂は循環します」

あまりに直接的な言い方に、モリヤは思わず笑った。

「でも、彼女の方は違うだろう?」

あの、ヒカリという名前の女性。本来ならもうすぐ死ぬはずの彼女を助けて、ずいぶん長生きさせると聞いている。

「彼女は特別です」

「どう特別なんだ?」

モリヤはようやく、リゾットをスプーンですくって、口に運んだ。やや塩辛い。 。

「今のまま彼女が死んでも、ほとんど魂を再利用できないのです」

死神は丸まって一〇円玉ほどのサイズになったエビをフォークで突き刺す。

「魂は綺麗な部分しか再利用できません。濁ってしまった部分は、切り取られます」

「切り取られた魂はどうなる?」

「私は聞かされていません。なんらかの方法で浄化されるのかもしれないし、消えて無くなってしまうのかもしれません。あるいは汚れたまま、いつまでも、その辺りにふわふわと浮かんでいる可能性もあります」

「つまり彼女が自殺志願者だから、魂が濁っているのか?」

死神はフォークを置いて、首を振る。

「私にはわかりません。でも残念なことですが、魂の濁りと自殺はそれほど深い関係にありません。澄んだ魂の持ち主が、自殺することだってあります」

モリヤは微笑みたくなる衝動を、必死に押し隠す。

「そうかい」

残念なことですが、と死神が言ったのが、なんだか奇妙に面白かった。彼女の言葉に現実味はなく、彼女の顔には感情さえないが、稀に、極めて人間的な表現が混じる。

ふいに死神は顎を引き、純度の高い瞳でこちらを見た。

「私も、一つ疑問があります」

「なんだ?」

「幸せの伝播とはなんですか?」

「ダメか?」

「いえ。ですが唐突です」

死神に頼まれたのは、ヒカリを救うことだけだった。

世界中の全員を良い人にするなんて大がかりな嘘をつく必要はなかった。

モリヤは笑う。

「悪ふざけだよ」

もうすぐ死ぬとわかった時、残った時間の使い方を、本気で考えたのだ。

「いいか?ほんの小さい頃、オレには夢があった。それを思い出したんだ」

「すべての人を善人にすることですか?」

「いや。まったく違う」

スプーンを立てて、モリヤは告げた。

「オレは教科書に載りたかったんだ。聖徳太子とか、ガンジーとかみたいに」

何か凄いことをやって、誰も彼もが自分のことを知っているのが当然で。そんな偉人になりたかった。でもすぐに、なれるわけがないと気づいた。

「もしあの計画が成功したら、世界中のみんなが善人になるんだ。オレはたいした偉人だよ。きっと教科書にだって載る。痛快だろう?」

モリヤは一人、声を上げて笑った。過去に聞いた、いくつかの言葉が耳の奥で反響する。

ーそんなこと、できるわけがないだろう

ーいつまでも馬鹿なことを言っているんじゃないよ。

ーお前はどうせ、すぐに諦めるんだから、もっと現実を見ろよ。

モリヤは笑いながら、内心で幻聴に愚痴をこぼす。うるせえ、馬鹿野郎共。さっさと消えてなくなれ。

死神は、笑ってはいなかった。

今までモリヤの周囲にいた人々のように、呆れた様子でもなかった。

自然に、静かに、水滴のように頷いただけだ。

「そうですか」

それでモリヤは、笑い声を引っ込めた。

「できると思うか?」

死神は貝の身と殻を分離させようとして、手間取っているようだ。

「わかりません。とても難しいように思います」

「まともな人間に話せば、誰だって絶対に不可能だと答えるよ」

死神は頭の角度を変える。首を傾げたのか、器の中の貝を覗き込んだだけなのか、よくわからない。

「この世界にある、絶対という言葉は、一つ残らず嘘です」

それはきっと正論で、だが悲しいくらいに無力だ。

モリヤは頬杖をつき、またスプーンでリゾットをつつく。

「その台詞も本で読んだのか?」

死神はふいに顔を上げて、モリヤと目を合わせた。

「どちらだと思いますか?」

「ん?」

「本で読んだのか、私が自分で考えたことなのか」

モリヤは首を傾げる。

「さぁな」

死神の少女は、顔を伏せ再び貝殻に集中する。

「今の質問は、本の影響です。答えられる疑問に、あえて質問で返す場面があったのです」

「そうかい」

日暮れが終わり、もうすぐ夜が始まる、濃紺色の空。

東の方、黒い雲の隙間に、綺麗な半月が浮かんでいる。


































ー キタノ ヒカリ ー


だがその半月もすぐに見えなくなってしまった。

軽やかな綿のようだった雲は、目を向ける度に面積と厚みを増し、やがて空全体を覆った。一〇○パーセント雲で覆われた夜空はひどく重苦しい。鉛球を内側から眺めているような気分になる。

ヒカリは曇った夜空に背を向けてバスルームに入る。

シャワーを浴び終えて部屋に戻ると、もう雨が降り始めていた。

ベッドに寝転がる。なんでもないビジネスホテルの一室だ。午後九時二〇分。室内の明かりはつけていない。だが窓から街の明かりが入って来た。街灯、信号機、コンビニエンスストアの看板。放っておいても、光なんてそこかしこにある。完全な暗闇を探す方がずっと困難だ。

ヒカリはベッドに横たわったまま窓を眺める

雨粒が垂れて光の屈折率が変わる。光は棘のように鋭利で、窓の表面に散らばっている。その向こうに空。分厚い雲。やはり朝陽は、見えそうもない。

目を閉じる。

眠ろうとしたのだ。それが可能なら。

明日はずいぶん早い時間に、彼ーあの、モリヤという青年と会う約束がある。すっぽかしてしまってもよかったが、彼がどこまで本気なのか、少し気になっていた。

幸せの伝播。ネズミ講の理屈で増える良い人。それはつまり、世界を変える計画だ。真面目くさった顔でそんなことを語る彼は、なんだかフィクションの登場人物みたいで面白い。

もちろん、モリヤのことを完全に信頼しているわけではなかった。語っていることがあまりに理想論過ぎて、スケールも大きく、胡散臭い印象はぬぐえない

でも、まぁ、別に誰かに騙されても良い。

言ってみれば、今の私は無敵だ。

なんといっても死んでしまうつもりなのだから、どんな厄介事や悲劇に巻き込まれても気にならない。未来がなければ、自分自身だって他人みたいなものだ。

しばらく目を閉じていたが眠れない。さすがに時間が早すぎる。それに雨音が耳障りだ。眠れない夜は苦手だった。独りきりでかくれんぼをしているような気分になる。

ヒカリは目を開いた。暗い部屋の中がうっすらと見える。雨はもちろん、まだ降り続いている。

ベッドの下に置いてあった、ボストンバッグに手を突っ込む。指先にカッターナイフが触れる。それは適当に脇によけ、引っ張り出したのはミュージックプレイヤーだ。

耳掛け型のイヤホンをつけてスイッチを入れる。ランダム再生、女性ボーカルの静かな歌声が聞こえた。バスに乗って旅に出る歌だ。たぶん歌詞のあちこちにいろんな暗喩が転がっていて、でもそんなのはどうでもいい。雨音が聞こえなくなればそれでいい。

もう一度、目を閉じた。

私は、悲しかったのかな?

そんなことを考えて、だがすぐに止める。

できるなら、自分のことは、思い出したくなんてない。



悲しいでしょう、と言われた。

苦しいでしょう、と言われた。

ヒカリにはよくわからなかった。悲しみも、苦しみも、その言葉を聞いて初めて生まれたような気がした。それまではたぶん、何もなかった。

ヒカリには初めから父親がいない。というのは、もちろん嘘だ。血縁上の父親は、まぁ、この世界のどこかにはいるはずだ。

でもヒカリは幼い頃、本当に、自分に父親なんていないのだと信じていた。なんとなく母親の子供として、ぽこんとこの世界に現れて、それっきりなのだと。

父がいないヒカリは、親戚や、あるいはその辺りの事情を知った友人たちなんかから、どちらかというと可哀想な子として扱われた。

端的に言って面倒だった。前の休み時間にはマンガやテレビドラマの話題で盛り上がっていたクラスメイトたちが、ふいに滑稽なくらい真剣な声色で「辛いね」「大変だね」なんて言い出した時、一体、なんと答えればいい?

泣けばいいのか? いつもは平気な顔をしているけれど本当はこんなにも辛いのだと、アピールしてみせればいいのか? 馬鹿馬鹿しい。

辛くなんてないのだ。大変なのは母さんだ。ヒカリは他のクラスメイトたちと同じように、日常に特別な不満もなく生きていた。

でも、厚意や同情は、時に暴力的だ。

それを上手く受け取れなければ、まるで悪者のように嫌われる。悪口よりも憐れみの方が余計に心を疲弊させる場合もあるのだと、クラスメイトたちはまだ知らない。

結局ヒカリは、困ったら口を閉じて、俯いていることにした。俯いて適度に頷いておくと、大抵みんな満足してくれた。

だからヒカリは口数の少ない幼少期を過ごした。

父親のことは、顔も名前も知らない。相手の実像をイメージできなければ、上手く嫌うこともできなかった。

母は昔から、極端に父親の話題を避けていた。

たった一度だけの例外は、ちょうど一〇年前のことだ。

ヒカリは一〇年前の八月二〇日に、一一歳になった。その朝、ラジオ体操よりもずっと早い時間に、ヒカリは母に起こされた。

眠たくて目をこするヒカリを、母は車の助手席に乗せた。ヒカリが浅く眠っている間に、車は街を走り抜ける。

窓の外はまだ暗かった。朝方の空には仄かに光が混じりつつあったけれど、建物は真っ黒な影で、なんだか怖ろしい。

ヒカリは尋ねた。

「どこに行くの?」

母は答えた。

「とっても綺麗なものを見に行くのよ」

一体どこに、綺麗なものがあるのだろうか? よくわからない。花畑かな、と考えながら、また少し眠った。

やがて母に肩を揺すられて、ヒカリは目を覚ます。もう車は停まっていた。

「ねぇ、ヒカリ」

「なに?」

「貴女は、貴女の名前が好き?」

寝ぼけた頭で考える。ヒカリ。光。よくわからない。

辺りはまだ薄暗い。こちらを覗き込む母の顔もはっきりとは見えない。でもたぶん、母は笑っていた。

「ねぇ、見て、」

母は運転席の窓を指す。

「ここが、貴女が生まれた場所よ」

ヒカリはようやく、窓の外を見た。

車のすぐ隣に病院があった。二階建ての、小さな病院だ。

「ちょうどこの真上くらいに、お母さんが赤ちゃんを産む部屋があるの。ほら、そこの窓の辺り、見える?」

母は病院の二階にある窓を指した。

見える。けれど、あれが「綺麗なもの」だろうか?

とてもそうは思えない。

綺麗なものとはなんなのか、尋ねようと思った。でも、すぐに、そんなことどうでもよくなる。

「貴女が生まれる時、お父さんは、あの窓から外を見ていたの」

驚いた。

母の口から、父親のことを聞くことなんてなかったから。

「ほら、あっちの方を見ていたのよ」

母は助手席のヒカリがいる方の窓を指す 。

街の外れだからか、視界が良い。背の高い建物が近くになかった。まっすぐ向こうの山が見える。母はその山頂の、さらに向こうの空を指しようだった。

夜空のような、違うような、不思議な空だ。

その群青色は、なんだか宇宙みたいだな、とヒカリは思う。空をすっ飛ばして、直接宇宙を覗き込んでいるみたいだ。

「貴女が生まれたのは、八月二〇日の、午前五時二四分。ちょうど分娩室から貴女の声が聞こえたとき、あそこに朝陽が顔を出したんだって、お父さんは言っていたわ」

ヒカリは車内の時計に視線を向ける。もうすぐ、五時二〇分になる。

山際はもうすでに、ずいぶん明るくなっていた。あの向こう側に、確かに太陽があるのだとわかった。

「その朝陽が、とっても綺麗だったから、貴女の名前はヒカリなの。朝陽と一緒に生まれたヒカリ」

「私の名前は、お父さんがつけたの?」

「ええ」

なんだか、よくわからない

喜びでも、悲しみでもない。もちろん、決して、無感情じゃない。

わけがわからなくて、ヒカリは窓の外を見ていた。

ふいに、山の向こうに、太陽の欠片が生まれる。

輝く一粒。そこからまっすぐに光が射す。 今、ちょうど、夜が明ける。

「お誕生日おめでとう、ヒカリ」

と、母は言った。

山の向こうに、半熟の卵黄みたいな、しっとりとしたオレンジ色の朝陽が昇る。それで空の低い位置に赤みが差し、青と混じって紫色や、もっと複雑な色が生まれる。

「ありがとう」

と、ヒカリは答えた。

結局、母が父について語ったのは、その一度きりだった。

ヒカリもそれ以上、父のことを聞きたいとは思わなかった。

父がどんな人であれ、ヒカリは自分の名前が好きだと思った。朝陽と一緒に生まれたから、ヒカリ。その馬鹿みたいにシンプルな名前が気に入った。

だから毎年、八月二〇日の早朝に、ヒカリは母と一緒に朝陽を見た。

不思議と雨は降らなかった。午後から天候が崩れたことはあったけれど、それでも毎年、朝は綺麗に晴れていた。

その幸運を、ヒカリはとても自然なこととして受け入れた。

なんといっても誕生日なのだ。途方もなく長い一年間にたった一日だけの特別な日だ。なのにわざわざ雨を降らせる神さまもいないだろう。

この数年、ヒカリは大きな困難を体験した。それはヒカリの様々な部分を疲弊させた。意識も、身体も、指先まで疲れていた。

周囲の人々は、口々に言った。

悲しいでしょう。

苦しいでしょう。

ヒカリにはよくわからなかった。悲しみも、苦しみも、その言葉を聞いて初めて生まれたような気がした。それまではたぶん、何もなかった。ただ、疲れていただけだ。

ーでも、本当に、そうだろうか?

元々、悲しくて、苦しかったのではないだろうか?指摘されるまでそれに気づけないくらい、疲れ果てていただけではないだろうか?

わからない。朝陽が見たかった。誕生日に、綺麗な朝陽を。その輝きだけが、ヒカリを肯定し、ほんの僅かに癒してくれるような気がした。

なのに、去年初めて、八月二〇日の朝に雨が降った。

どれだけ目を凝らしても、朝陽は見えなかった。

その時、決めたのだ。

ーもし来年も朝陽が見えなければ、色々なことを諦めてしまおう。



日づけが変わり、八月二〇日になっても、雨は降り止む様子を見せなかった。

午前三時三〇分、ヒカリは腕に時計を巻き、財布とカードキーだけポケットにつっこんで部屋を出た。荷物はすべて部屋に残したままだ。ニュージックプレイヤーも、カッターナイフも、今は手元にない。

モリヤとの待ち合わせ時間は午前四時だった。日の出の予定時間はだいたい五時二〇分。ずいぶん早い待ち合わせだ。

外に出て驚いた。風が強い。雨も思ったより勢いがあった。

ヒカリは傘を持っていなかった。当たり前だ。今朝、晴れていなければ死ぬ予定だったのだから。服を着たままプールに飛び込むような心地で道路を横断し、ホテルの向かいにあったコンビニエンスストアに駆け込む。ビニール傘を買った。

とはいえ、強い風の中、傘をさして歩くのはずいぶんな困難だ。小さな不運で傘は簡単に裏返ってしまうだろう。ヒカリは傘を極力低い位置で持ち、角度に細心の注意を払いながら、一歩一歩目的地へと向かって歩く。

大きな雨粒が音を立てて傘を叩く。

湿度はきっと一○○パーセントに極めて近く、だから暑いのに汗をかいても蒸発しない。風で髪が乱れるし、暴れる傘を押さえつける腕も痛い。初めはできるだけ水溜りを避けようとしていた。けれど、どれだけ足を伸ばしてもまたげない、川のような水溜りに遭遇してどうでもよくなった。

夜明け前の最も暗い時間、独り雨の中を進むのは気が滅入る。一歩踏み出す毎に、ぐしゅくしゅとパンプスが音を立てて、余計みじめだ。

でも、進むしかない。

ー昨日の私は、どうかしていた。

今日、朝陽なんて見えるわけがないのだ。それに朝陽を見たからといって、何が変わるというんだ。こんなことに人を巻き込んではならない。

あの、モリヤという男に謝ろう。

謝って、昨日の話はなかったことにしてもらおう。

携帯電話の番号を尋ねておけばよかった。彼が自分と同じように、この不快な雨の中を進んでいるのだと思うと、申し訳ない。

私は、独り、勝手に死ねばいい。

それが一番、平穏だ。

ヒカリは這うような心地で一歩ずつ進む。路上を薄く流れる水に、街灯の光が映り、それが何か巨大な爬虫類の目のように見えた。

目的地に到着したのは、約束の時間の一〇分ほど前だった。

昨日モリヤに出会った交差点だ。あの時は、そう、サエキという女の子と歩いていたのだ。まだあれから一二時間ほどしか経っていないが、ずいぶん昔のことのように思えた。

ヒカリは交差点を見渡す。モリヤは雨の中でも、スケッチブックを高く掲げて立っているような気がした。だが彼はどこにもいなかった。夜明け前、雨の交差点にはヒカリの他には誰もいない。

少し先に、白いセダンが一台、停まっているだけだ。

ーまだ、来ていないみたい。

腕時計を確認する。ひどく緩慢な動きで秒針が進む。風で横から吹きつける雨粒のすべてを傘で防ぐことなんてできるわけがない。気がつけば全身、びしょ濡れだった。

それでも律儀に傘を握りしめ、ヒカリはモリヤを待っていた。ポストか電柱みたいな、意識のない何かになる。

いつの間にか、腕時計は午前四時を指していた。

待ち合わせの時間だ。でも、周りを見渡しても、誰もいない。モリヤは時間にルーズなタイプには見えなかったけれど。

一層強い風が吹いて、傘が裏返った。金具がいくつも歪んでいる。頭上のそれを茫然と眺めて、思い当たった。

きっと全部、冗談だったんだ。

彼は初めからこの待ち合わせ場所に現れるつもりなんかなくって、だから午前四時なんて、馬鹿みたいに早い時間を指定したのだ。

疑い出すと、そうだとしか思えなくなった。

幸せの伝播。ネズミ講の方法で増える良い人。世界を変える計画。そんなことを、成人した人間が、本気で語るはずなんてないその想像で、ヒカリはむしろ救われた。

こんな日に朝陽を見たいなんて幼い我儘で、人に迷惑をかけるべきではない。

雨の中で、ヒカリは無理やりに傘を閉じる。無抵抗に雨に打たれるのはみじめだが、どうせもう全身ずぶ濡れだ。今さら傘なんて必要ない。

ー帰ろう。

ホテルでシャワーを浴びて、死んでしまおう。

踵を返そうとした、その時、ふいに目が眩んだ。

強い光が射している。通りの向こうに停まっていた、白いセダンがライトをつけたのだ。セダンはこちらに向かって進みだす。

緩慢な脳が、ゆっくりと思い出す。

――ああ、そういえば。

彼は運転免許を持っていた。

セダンは静かな動作でヒカリのすぐ目の前まで移動し、停車した。開いたドアからモリヤが飛び降りる。

「すみません!つい、寝てしまっていて」

彼は黒い、大きな傘を開き、ヒカリの頭上に掲げた。

「どうぞ、乗ってください」

白いセダンを指す。

ヒカリは、苦労して首を振った。

「いえ。あの、私、貴方に謝りにきたんです」

「謝るって、何を?」

「こんな時間に、こんな所まで来ていただいて、すみません。でもやっぱり私、どうしても貴方の会員にはなれません」

「そうですか」モリヤは頷く。

「残念です」

「・・・すみません」

「いえ。仕方がありませんよ。元々、信用できない話だと思うし」

素直に聞き入れて貰えて、よかった。

ヒカリはもう一度、頭を下げる。

「本当に、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした。会員にはなれないけれど、応援しています」

「ありがとうございます。それでは」

「はい。それでは・・・」

「車に乗ってください」

「え?」

モリヤは笑っている。

「貴女が車に乗ってくれないと、朝陽を見に行けません」

どういうことだ。

「あの、私はー」

「会員にはなれない。それはわかりました。でも、知っていますか?」

彼はふいに真顔で、自分を指さした。

「オレ、良い人なんですよ。どれだけ馬鹿みたいでも、胡散臭くても、良い人でいなくちゃいけない。そうしないと、オレの夢は叶わないんです。だから会員になって貰えなくても、朝陽が見える場所に貴女を連れて行く。貴女が幸せになるなら、そうするんです」

なんだ、それ。でも。

「でも、私、びしょ濡れです」

車のシートが濡れてしまう。

「大丈夫、タオルも用意しています。」

そう答えて、モリヤはまた笑った。

白いセダンは国道を西へと走る。

途中、路上の看板で、隣の市に入ったことがわかった。

「心配しなくていいですよ」モリヤは言う。

「またすぐに、戻ってきますから」

ヒカリが昨日、彼に依頼したのは、生まれ育った街で朝陽を見る事だった。

――そんなに気にしなくても良いのに。

また申し訳ない気分になる。どうして朝陽を見せて欲しいなんて言ってしまったのだろう。そんなもの、ため息一つで諦めることだってできた。

「雲が途切れるところまで行くんですか?」

「もちろん。そうしないと、朝陽は見えない」

いまだ、雲は空一面を覆っている。

「一体、どこに向かっているんですか?」

「そう離れた場所ではありません。だいたい、五キロといったところです」

「たったの?」

五キロ。時速六〇キロで車を走らせると、五分間の距離だ。その程度で雨雲が途切れるとは思えなかった。

「すぐにわかります」

モリヤはまだ笑っている。

白いセダンは国道をどこまでも西に走る。

海へと向かう道路だ。大きな橋を渡り、海上の埋め立て地に入る。フェンスの向こうに黒々とした海が見えた。それは一つの巨大な生き物のように、荒れて蠢いている。

本当に、どこに向かっているのだ?

「この先にはゴミ処理場と、あとは海しかないはずです」

モリヤは首を振る。

「いえ。公園も、小規模な住宅街も、コンビニだってあります。それに―」

ふいにセダンが右折する。ライトが辺りを薙ぐように照らす。雨粒が流れ落ちる窓越しに、モリヤはライトの先を指さした。

「とても小さな、航空会社がある」

彼が指さした先には、『寺原航空』と書かれた、小さな看板が出ていた。

ひと呼吸遅れて、ヒカリは理解する。

「五キロって、上ですか!」

自身の大きな声に驚く。完全に、想像外だったのだ。

相変わらず笑顔で、モリヤは頷く。

「ええ。高度五○○○メートルまで飛んで、雲が途切れているかどうかは、実はギャンブルです」

信じられない。

「わざわざ、飛行機をチャーターしたんですか?」

「飛行機じゃない。ヘリコプターです。チャーターとも違います」

「どういうことですか?」

まさかこんなことのために、ヘリを買ったわけではないだろう。

「オレ、あそこで働いてるんですよ。社長に頼んでフライトの許可を貰いました」

余計に驚く。

「操縦できるんですか?」

「自動車より得意です。免許見ますか?」

「・・・いえ」

急速な展開に目が回りそうになる。

飛ぶのか?これから?私が?

雲の上まで浮かぶのは、死んでからだと思っていた。

白いセダンはやや大きめの倉庫のような建物の前で停車した。

モリヤに連れられてその建物に入ったヒカリは、明らかに過剰な枚数のバスタオルと、ビニール製のレインコートと、Tシャツと青いツナギを押しつけられた。

「身体を拭いて、それに着替えてください」

「私はこのままでも」

「上空は、かなり寒い。濡れた服はやめた方がいい」モリヤは部屋の奥を指す。

「着替えたらあのドアから外に出てください」

それでは、と告げて、彼はすぐにいなくなってしまった。

なんだか、大変なことになった。

ヒカリはとりあえず、ごしごしと髪を拭く。ドライヤーが欲しかったが贅沢は言えない。

それから初めてモリヤのことを、真面目に考えた。

―彼は一体、なんなのだろう?

理解できない。

世界中の全員を良い人にする夢をみていて、そのために彼自身も頑なに良い人であろうとしていて、ヘリコプターのパイロットで。

そして、ヒカリが朝陽を見たがっている理由を、ただの一度も尋ねない。つまりは私に興味がないのだ。

興味がない人間のために、空まで飛べるのが良い人なのだろうか。

そうかもしれないな、とヒカリは思う。

良い人というのは、きっと、相手の事情なんかに拘わらず良い人だ。

ともかく着替えを終えたヒカリは、モリヤに指示されたドアに向かう。大きく、重いドアだった。



全身で寄りかかるようにそれを開けると、先はラインの引かれていない駐 車場のような空間だ。

海に面した埋め立て地に視界を遮るものはなかった。

雲に覆われた夜空が、見える空間すべてに覆いかぶさる。強い風。雨粒がアスファルトを叩く。

空の遠いところ、おそらくは海の上で、稲 光が見えた。

二〇メートルほど前方にヘリコプターがあった。白い機体に、青いラインが入っている。

そのヘリはあまりにイメージ通りで、どこか嘘っぽく、玩具みたいに見えた。高速で回っているプロペラと、それが大気を掻き回す馬鹿みたいに騒々しい音だけがリアルだ。

モリヤはもうヘリの中にいるようだ。

ヒカリは雨の中に足を踏み出す。ツナギの上に着た、レインコートが雨を弾く。

ヘリは意外に小さい。背の高い人が手を伸ばせば、天井に触れられそうだ。そのすぐ上には見えない速度で回転するプロペラがあるというのに。

搭乗口は、ヒカリの腰ほどの高さにあった。階段を上る要領で乗るには高すぎる。よじ登ろうと手をかけると、内側からモリヤが引き上げてくれた。

彼は耳元で声を張り上げる。

「レインコートを脱いでください」

それが大声だということはわかった。だが、内容は、どうにか聞き取れる程度だ。プロペラの音が大きすぎる。

ヒカリは頷き、レインコートを脱ぐ。モリヤはそれを受け取って、座席の後部にあったリュックサックに詰め込んだ。そのリュックをヘリの外に投げ捨てて、ドアを閉める。

ヘリの内部は、軽自動車の室内をさらに二割ほど縮小した風だった。モリヤは操縦席に座っている。ヒカリはその左隣に腰を下ろす。後部は、ただのがらんとした空間だ。

座席があればもう二人は乗れるのに。そう思っていると、モリヤがまた耳元で声を張り上げた。

「後部座席は外したんです」

外したって。

「どうして?」

「軽い方が、高く飛べる」

それは、まぁ、そうかもしれないけれど。

「このヘリは普通、高度四○○○メートル少々しか上りません。今日は少し無理をして、五○○○メートルまでは飛びます。でも、それで雲が晴れるかは、正直なところわかりません。雨雲は、ものによっては、七〇〇〇メートルくらいまで積み上がっています」

モリヤの声は、ところどころプロペラの音で聞き取れなかった。だが、何と言っているのか、おおよそわかる。

運悪く朝陽が見えないのは、仕方がない。

そんなことよりも。

「こんなに雨が降っていて、風が強くて、飛べるんですか?」

見たところ、このヘリにはワイパーもついていない。

モリヤは自身の耳に手を当てる。どうやら聞こえなかったらしい。

息を吸って、彼の耳元で、ヒカリは叫んだ。

「飛べるんですか!」

彼はほんの短い時間、驚いた表情を浮かべてから、笑った。なんだか少年みたいに。

「もちろん!」

彼はジェスチャーで、ヒカリにベルトをするように伝えた。言われた通りに腹の前でベルトをしめると、彼は親指をたてて、それからレバーを握った。

直後、機体が大きく揺れる。背伸びをするように僅かに、視界が持ち上がったような気がした。

もう、飛んでいるのだろうか?

よくわからない。そう思った直後、周囲の景色が、流れた。

高層ビルのエレベーターに乗っているような気分だ。上 昇していくのがわかる。先ほどまでヘリがあった飛行場は、もうずいぶん低い位置に見えた。

本当に、飛んでる!

夜の街にまばらな光が散らばっている。

遠い道路で、車のテールランプが魚の群れみたいに流れていく。

相変わらずプロペラの音はうるさく、機体は工事現場の削岩機みたいに激しく揺れている。機体はくるくると向きを変えながら上昇する。付着していた雨粒は、急速に、真横の方向に飛んでいくから、フロントガラスは思いのほかクリーンだ。

モリヤが言った。

「ヘリは風に強いんです。セスナなんかよりは、ずっと」

「どうして?」

「飛行機は基本的にまっすぐ飛ぶ。ヘリはもう少し自由です。ずっと風に合わせやすい」

確かにヘリの飛行は複雑だった。

高度を上げ下げしながら、全方位に動き回る。海流に翻弄される流木に似ていた。ヒカリは今さら、空中が気体で満ちていることを理解する。重さが違うだけで、空気も水と同じようなものだ。

ヘリは風に翻弄されているように思えたが、違った。先ほど、モリヤの車に乗って走った国道が見える。その先にヒカリが生まれ育った街がある。風を受け流し、少しずつ高度を上げながら、ヘリはそちらの方向へと飛ぶ。

ああ、この人は、本当に私が生まれ育った街で。

その上空で、朝陽を見せてくれようとしているのだ。今から二一年前、顔も名前も知らない父親が、病院の窓から見て感動した朝陽を。ヒカリと一緒に生まれた朝陽と、同じものを見せようとしてくれているのだ。

ヒカリは、俯く。

胸で罪悪感が膨れ上がる。

私は、こんなにまでして貰うくらい、朝陽を見たいのかな。

よく、わからない。

初めから諦めていたのだ。

だから、怖いくらいに真剣な表情でヘリを操るモリヤの隣で、心の底からは朝陽を見たいと思えないでいる。そんなものをいまさら見ても仕方がないと、感情の冷たい場所が考える。

モリヤへの疑念はすっかり晴れていた。ヒカリはすでに彼を信頼してさえいた。

きっと彼は本当に良い人なのだ。心の底から、世界を良くしたいと考えているのだ。それがどれだけ無謀で、他人からは愚かしく見えることなのかを理解してもなお、夢を目指して進んでいる人だ。

それなのに。

なんて、中途半端なんだ、私は。

モリヤの隣に座っているなら、せめて心の底から、救われたいと望んでいるべきなのだ。そんなことさえできないなら、きっと、ここにいる資格はない。

ああ、私は。

助かりたいと、願いたい。

ヒーローに救われる人は、心の奥底で「死んでもよかった」なんて思っていてはいけない。

ヘリはいくつかの千切れ雲の脇を通過して飛び、やがて何も見えなくなった。

雨雲の中に入ったのだ。

モリヤの言う通り、ずいぶん機内の温度が下がっていた。

急に、不安になって、尋ねる

「雷とか、大丈夫ですか?」

ヘリに乗る前、海上に見えた稲光を思い出したのだ。こんなに小さなヘリ、雷が落ちればそのまま落下してしまうだろう。

「積乱雲と乱層雲の違い、わかりますか?」

「いえ」

聞き覚えはあるけれど、よくわからない。

「雷を伴うのは積乱雲です。八キロ以上も積み上がる雲だから、このヘリでは、上には出られません。でも今、オレたちを包んでいる雲は、乱層雲です。普通、雷は発生しないし、運が良ければ突き抜けられます」

相変わらずプロペラの音が邪魔をして、モリヤの声は聞き取り辛い。

だがともかく、彼が大丈夫だと言っていることはわかた。

「当分、雲でなんにも見えません。日の出まであと、二〇分くらいです。その頃には声をかけるから、眠ければ今は眠ってください」

なんだか、一〇年前、母に連れられて朝陽を見に行った時を思い出す。あの時、ヒカリは目的地に着くまで、車の助手席で浅く眠っていた。

とはいえこの騒々しくスリリングな場所で、簡単に眠れるはずもない。ヒカリは窓の外を眺めていた。暗い雲の中、何も見えない場所を。

途中、ヒカリはモリヤに指示され、座席の下にあったスプレー缶を手に取った。中身は酸素だという。

「一〇〇〇〇フィートを超えると、息苦しくなります。無理をせず使ってください」

フィートという長さの単位には馴染みがなかったが、それを正確にメートル換算できたところで意味はないだろう。そもそもヒカリには自分が今どれほどの高度にいるのかもわからないのだ。ともかく苦しくなればこれを吸えばよい。

ヒカリは酸素のスプレーを握りしめ、腕時計を見つめて過ごした。

秒針が平坦なリズムで回転する。 あと一○回。九回。八回。秒針が回った時、朝陽が昇る。

なんだか息苦しくて、ヒカリはスプレーを口元に押し付けた。

直後に。唐突な浮遊感が、ヒカリを襲った。

なんだ?

重力が無くなったように、ヒカリの手から酸素のスプレーが浮かび上がる。

ー落下、している?

そう思った直後、また重力が戻ってきた。スプレーが膝に落ち、慌てて受け止める。

音は聞こえない。だが気配で、モリヤが舌打ちしたのがわかった。

「何かあったんですか?」

「下向きの気流に引っ張られただけですよ。ただ、ちょっとまずい」

彼の表情が険しい。

「今、高度はおよそ四六○○メートルです。そろそろ機体が上がらなくなってきた。でも雲が途切れない」

ヒカリは腕時計を見る。夜明けまで、あと七分。

モリヤはヒカリの耳元に口を寄せる。だが、その僅かな隙間にも、騒音の分厚い壁ができる。彼は怒鳴るように説明した。

「ヘリは要するに、空気を摑んで上昇します」

これからはロッククライミングみたいに、登れる空気をみつけないといけない。上手く上昇気流を摑めれば、もう少し高く飛べる。

「わかりました」

ヒカリが頷くと、モリヤは笑った。

「オレにはわからない」

「え?」

「どこに上昇気流があるのか、わかりません」

そんなの、

「どうするんですか?」

「勘ですよ。いや、運か」

横風に煽られたのだろう。機体が一層、大きく揺れた。

モリヤが、傍から見れば乱暴にみえるくらい激しく、右手のハンドルを操作して足元のペダルを踏み込む。左手はずっと、車ならサイドブレーキがある場所のレバーを握っていた。

「風を探すから、風に煽られることも多くなる!舌を噛むといけないから、喋る時は気をつけてください!」

ヒカリは必死に頷く。

それから、じっと上空を見上げる。

なぜか鼓動が大きくなっていた。恐怖? それもある。だが、別のものも。きっと何かに興奮している。

操縦席に身を乗り出した。彼の耳元に口を寄せるには、そうするしかなかった。


「モリヤさん!」

彼は窓の外を睨みつけている。ヒカリは構わず尋ねた。

「貴方はどうして、良い人になったんですか?」

彼はきっと、意識の一割もこちらの会話に充てていなかった。

だからだろう。少しぶっきらぼうで、聞き取り辛い声で答えた。

「諦めたくないんだ」

その抽象的な言葉で、なんだか色々なことがわかったような気がした。

彼はきっとこれまでも、何も諦めずに生きてきたのだろう。まるで物語のヒーローみたいに、正しいことばかりをしてきたのだ。そう思った。でも、違った。

「一つくらいは、諦めたくないんだ」

「一つ?」

モリヤは、口元に笑みを浮かべた。それは今までにない、シニカルな笑みだった。

「オレは今まで、何かを続けられたことがなかった。学生の頃からそうだ。部活動も、勉強も、全部投げ出してきた」

「でも」

思わず反論しようとして、言葉に詰まる。

無理に続けた。

「でも、モリヤさんは、ヘリコプターを操縦できます」

一体何が言いたいのか、自分でもよくわからなかった。

モリヤは首を振る。

「オレ、ちょっとだけ自衛隊にいたんですよ。仕事を探すのが面倒で。そこでヘリの免許を取ったけど、訓練がきつくて、すぐに逃げ出したんです」

それは意外な言葉だった。

何かから逃げる彼は想像できない。

「でもついこの間、大事件が起きたんだ」

「大事件」

「そう。オレにとっては、世界がまったく違って見えるくらいの」

ヘリは激流に呑まれたように揺れている。モリヤはじっと、光の見えない窓の外を見ている。

「それで、決めたんです。馬鹿みたいで、夢みたいな何かを一つ、最後まで諦めないでいることに決めたんです」

ヒカリは俯く。

腕時計が見えた。夜明けまで、あと三分。

「決めたら、諦めないでいられますか?」


モリヤは笑って首を傾げた。

「どうでしょうね。今、試しているところです。でも」

モリヤはほんの僅かな時間、レバーから左手を離す。

前方を指さした。

「貴女に朝陽を見せられたなら、自分を信じられるような気がしてきました」

彼の指の先、ずっと上空が、白く輝いている。

きっとそこが、雨雲の出口だ。

目的地がわかると、ヘリの動きも理解しやすくなる。

力尽きたように、機体が、ふっと落下した。

頑張れ!

ヒカリは願う。また僅かに、機体が浮き上がる。

「貴女は」

今さら、モリヤは言った。

「貴女はどうして、朝陽を見たいんですか?」

その質問が、ずっと怖かった。

上手く答えられる自信がなかった。

――そもそも、私は朝陽が、見たいのか?

見たいのだと信じたい。救われたいのだと信じたい。そうでなければ、今、ここにいる資格がない。全部終わった時、モリヤに、心の底から「ありがとう」といえなければあまりに申し訳ない。

目を閉じてヒカリは思い出す。

母が倒れたのは、三年前のことだ。

彼女は体調が悪いのに無理をして働いて、病気が見つかった時にはもう 手遅れだった。

離れた街にある病院に入院して、ヒカリもそれに付き添った。母には介護が必要で、肉親はヒカリ一人だけだった。

その母は、去年他界した。

周囲の人々は、口々に言った。

悲しいでしょう。

苦しいでしょう。

何も言わないで!

胸の中で、ヒカリは叫ぶ。

悲しかったとして、苦しかったとして。

それを指摘して、一体、なんになる?

―私には、わからないんだから。なんにも言わないで!


自分の感情なんて、理解できない。ただ、とても疲れていることだけが、はっきりとわかっていた。

目を開くと、モリヤは真剣な表情で、窓の外を睨んでいた。

彼の質問を思い出し、ヒカリは答えた。朝陽を見たい理由。

「今日が、私の誕生日だからです」

つい、笑ってしまう。

我ながらあまりに脈絡のない話だから、可笑しくなったのだ。

ただ、理由なんて、上手く説明できるわけないじゃない。

八つ当たり気味にそう考える。

母が亡くなったすぐ後の誕生日に、雨が降って朝陽が見えなかったから、死のうと思ったのだ。

でも、あと一年だけ我慢することに決めて、今日まで生きてきた。

本当に、なんとなく。

「誕生日の朝に、綺麗な朝陽が見えたら、なんとなく救われる気がしたんです」

これが、理由の全部だ。

脈絡がなくても、納得できなくても、どうしようもない。

コイントスにすべてを委ねるように、朝陽が見えるか見えないかに、命を賭けたくなった理由なんて。言ってみれば、ただの気まぐれだ。

疲れていると、色々なことを、気まぐれに決めてしまうだけだ。

「なら、ちょうどいい!」

叫ぶように、モリヤは言った。

「空から見る朝陽は最高ですよ。地上みたいに空気が汚れていないから」

「でも……」

ヒカリは腕時計に視線を落とす。

日の出まで、あと一分を切っていた。

雨雲の出口はまだ、ずいぶん高いところにある。きっともう間に合わない。

だが、モリヤは笑っていた。

「朝陽を見たいんですよね?」

まだ、わからない。

私が救われる必要なんて、ないような気がする。

シンプルに、死んでしまってもいい。

そう思ったけれど、ヒカリは答える。

「はい。見たいです」

小さな声だ。きっとモリヤには届かなかった。

でも、肯定したことは伝わったようだ。彼は笑っている。

「なら、口に出して言ってみてください」

「え?」

「ほら。早く」

ヒカリは口を開く。

「朝陽が、見たいです」

モリヤは首を振る。

「聞こえない!もっと大きな声で!」

もう充分、大声を出している。そうしないと、ここでは会話もできないのだ。

「早く!」

仕方がない。

ヒカリは思い切り、息を吸い込んで、叫んだ。

「朝陽が見たい!」

その、直後だった。

モリヤが大きくハンドルを切る。

「ついさっき、見つけたんです。大気の動き、雲の発達。間違いない」

子供のように笑って、彼は叫ぶ。

「ここに、上昇気流がある!」

視界が流れた。機体が回転しているのか、先ほどまで見えていた、雨雲の出口がわからなくなる。

一体、どこ?

ふいに。

視界が、晴れた。


ーー群青。

一面に広がる。

それは一〇年前、母と共に見上げた空だ。

夜空のような、違うような、不思議な空だ。

母が指さした先にあった空に、今、ヒカリはいる。

――まるで、宇宙に飛び出したみたい。

思い出す。一〇年前もこの空を見て、なんだか宇宙みたいだと思ったのだ。一体、どこが宇宙なのだろう?自分でもよくわからない。

視線を下ろすと雪原のような雲が、緩やかに流れていた。そこを、前方の、鮮やかなイエローに輝く空が照らす。

「子供の頃」

モリヤが言った。

「宇宙から地球を撮影した写真を見たんです。それに写ってる雲は全部まっ白で、綺麗で。雨の日に見上げた時みたいな、灰色の雲じゃない。それがなんか不思議で、嘘くさくて。でも、考えてたらわかったんです」

彼はまっすぐに空の一点を眺めていた。

ずっと、遠い、東の空を。

「雲の上の方は、太陽の光が当たってるから、綺麗なんですね。宇宙から見たら、本当に雲って、いつもまっ白なんです。でもオレは昔、陰になった下っ側しか見えなかった。汚い方ばかり見せられていた」

今、雨雲は純白で、青と、黄色と、赤が混じり合い重なって。

朝焼けが訪れつつある空の色をそのまま映すキャンバスみたいで、美しい。

朝陽を隠す灰色の雲の向こう側は、こんなにも神々しい。

「だからどうってわけじゃない。ただ、そんなもんだって話です」

前方に、一層強い光が生まれる。

一〇年前と同じように。二三年前と同じように。

朝陽と一緒に、光が生まれる。

それは純粋に綺麗で。ただ、綺麗で。

気がつけば、涙が流れていた。

ああ、私はずっと、泣きたかったんだ。

悲しくて、救われたかった。

「誕生日、おめでとう!」

プロペラの音に負けない、叫ぶような声で、モリヤはそう言った。
















ーモリヤヨシトー


「ありがとう!」

三〇分後、アスファルトに降り立ったヒカリは、こちらを見上げて叫んだ。プロペラの回転はもう止まっている。

「私、会員になります」

「会員?」

「はい。あの、良い人の会?の」

世界を良い人で満たすための、名前のない会。

会員第一号が誕生した瞬間だった。

「それじゃ」

雨はもう上がっていた。彼女は分厚い雲の下を、オフィスの方へと走っていく。まあ、オフィスと言っても、古いガレージを改装しただけの掘っ立て小屋だが。

なんとなくその背中を見送っていた。彼女が着替える間、モリヤはヘリの中で時間を潰すつもりだ。

まったく、いい気なもんだ。

すっかりさっぱりした顔しやがって。こっちはあと六日で死ぬんだぞ?

内心で悪態をつくが、それでもまぁ、朝陽は綺麗だった。

「お疲れ様です」

ふいに、死神の声が聞こえた。彼女はモリヤのすぐ後ろ、がらんとした後部にいる。

「お前、どっから湧いて出た」

「私はどこにでもいます。人がどこででも死ぬように」

「ああそうかい。ま、いいや」

モリヤは背もたれに体重を預ける。

「本当に、疲れたよ」

朝陽が見えるところまで飛べるかどうか、運任せだったのだ。

眠ってしまいたい気分だが、そういうわけにもいかない。

実はヘリを飛ばす許可なんて取っていなかった。この後すぐ、社長に謝り倒す必要がある。人命救助のためだったと言って、信じて貰えるだろうか?

「で、あいつは死なないのか?」

「はい。彼女の死因は変更されました。あと六〇年ほど生きるでしょう」

「オレなんか六日だぞ?」

「正確にはあと五日と一九時間三四分です」

「うお。聞きたくねぇ」

モリヤは逃げ出すように、ヘリの搭乗口から飛び降りる。

前方にリュックサックが落ちているのを見つけた。ヘリで飛ぶ前、レインコートを押し込んで、投げ捨てておいたものだ。

モリヤは水溜りを踏みつけて、そのリュックを拾い上げる。内側のポケットからライターとパーラメントのタバコを取り出した。この飛行場は禁煙だが、こちらはあと六日足らずで死ぬ人間なのだ。それくらい許して貰おう。

ライターでパーラメントのタバコに火をつけて、煙を吸い込む。

気がつけば、死神が隣にいた。

「貴方には感謝しています」

煙を吐き出す。

「じゃあ寿 命を延ばしてくれ」

「私にはその権限がありません」

モリヤは煙を追いかけるように、空を見上げた。

雨が上がっても相変わらず灰色の雲。太陽は見えない。汚い空だ。

「なぁ。オレ、本当に死ぬのか?」

なんだかまだ実感がない。一週間後も、一月後も、こうして煙を吐きながら空を見上げているような気がした。

なのに隣の死神は、ニュースキャスターみたいな、クールな声で答える。

「はい。間違いなく死にます」

「あと六日で?」

「正確には五日と一九時間三二分で」

「だから聞きたくねぇって」

まったく。本気かよ。困ったもんだ。

モリヤはくわえたフィルターを噛む。死ぬのは、怖い。死にたくない。

「では、私はこれで」

と、死神は言った。

「なんだ。お前、いなくなるのか?」

「いえ。その辺りにいます。見えなくなるだけです」

「そっか。じゃあな」

モリヤは適当に手を振る。この少女のことは少しだけ気に入っていたが、まぁ、それでも死神だ。いつまでも和気藹々としてはいられないだろう。

目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。肺が煙で満たされる

タバコを指で挟み、空に向かって、息を吐き出す。細く、次に目を開いた時、死神はもういないだろうと思った。

でも、彼女はまだ、そこにいた。

「残りの六日間を、どう過ごすつもりですか?」

「ん?」

「貴方が言ったのです。たった一○日だけ生き延びて、なにができる? と。その疑問に答えは出ましたか?」

モリヤは笑った。

そんなの、決まってる。

「もう一人会員を作って、教科書に載るんだよ」

会員は二人以上作らないと、ネズミ講にならない。

今まで、すぐに何かを諦めてきた。

でも、あとたった六日なら、何も諦めないでいられるだろう。

世界平和なんて、どうでもいい。

実は教科書も関係ない。

ただ諦めないでいたいだけだ。

馬鹿みたいで、夢みたいな何かを一つ、諦めないで死にたいだけだ。

そして彼女はまた、黄色いタイルで舗装された道路を歩いている。

オレは白いセダンに乗って、彼女から時速五〇キロで遠ざかる。

八月二〇日、午前九時一五分。天気予報は曇りのち晴れ。

オレはまだ分厚い、灰色の雲を見上げる。その裏側の、太陽と、青空と、白い雲を想像する。いつだって頭の片隅に、決して曇らない朝陽がある。




これがオレと彼女の物語だ。

もう決して出会うことはない、二人の物語だ。

オレは、今もまだ覚えている。

彼女が朝陽を見て泣いた瞬間のことを。

その涙を拭いて笑顔を浮かべた時、確かに、ほんの僅かだけオレも救われたことを。

『幸せの伝播。』

彼女はきっと、救われることで、オレを救ったのだ。

だから、今、君に語らなければならない。

サスペンスのような緊張感も、パズルじみたミステリのトリックもない。ラブロマンスなんて入り込む余地もない。意外な結末も大団円も用意されていない物語を。

君はきっと、こんな話、すぐに忘れてしまうだろう。それは仕方がないことだ。これから始まる君の物語は、あまりに劇的で、あまりに忙しないのだから。でも最後に、君に語りたいんだ。

心の底から、オレは信じている。

これから彼女は、彼女が信じる良い人であり続けることを。少なくとも二人、名前のない会の会員を作ろうと、馬鹿みたいだけど本気で考えていることを。

だからどこか、何気ない街角で、もし君が彼女に出会ったなら。



できるなら、彼女の話を聞いてあげて欲しい。








































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