予感

あちこちに画材が転がる静かな室内に、白い紙の上を走る炭の擦れる音だけが微かに響く。椅子に腰掛け、まるで自分だけに見える絵をなぞるように迷いなく手元の削った炭を走らせるマルクを、その背後に立つグウェンが固唾を飲んで見守っている。


マルクの集中を妨げないようにするためか、グウェンは呼吸の微かな息遣いすら漏らさぬよう口元を両手でがっちりと覆っている。一度絵を描き始めたマルクの集中力はそのくらいで揺らぐことはないのだが、耳元で騒がれるよりはずっと良い。


絵を描き始めて数分後、マルクは擦り減った炭を傍らのテーブルへと置いて、張り詰めていた緊張から解き放たれたかのように肩の力を抜きながら大きく息を吐いた。


「ふぅ……出来ましたよ、グウェンさん。お気に召すといいのですが」


「おお、おお……実に、実に素晴らしいぞマルク君!これほどの作品、気に入らないはずがないだろう!」


マルクの描いた絵を手に、感極まって全身を歓喜に震わせながらグウェンは静かにしていた分を発散するかのように声を上げた。


マルクが描いたのは、力強く枝葉を伸ばす大樹とその礎となった巨大なドラゴンの骸である。太い根に身体の大半を侵食されながらも、その表情はどこか穏やかで温かみと優しさを感じさせる。まるで、自身の死が新たな命を育むことが出来たことを喜んでいるかのようであった。


「喜んでもらえたようで良かった。僕もドラゴンは好きなので、描いてて楽しいですよ」


「なんと、キミも同好の士であったのか!私もドラゴンの力強さの中に滲み出る王者の風格とも言える余裕と気品に心奪われてなぁ!貴族たるもの、常にそうあらなければな!わはははははっ!」


なんとも上機嫌にグウェンは豪快に笑う。ちなみに、マルクがグウェンから描かされたドラゴンの絵はこれで十枚目である。グウェンの度を越えたドラゴン好きも大概だが、同じ題材で一切悩むことなく描き上げるマルクのレパートリーの豊富さも目を見張るものがあった。


「そんなに喜ぶなんて、よっぽどお好きなんですね」


「勿論だとも!ドラゴン好きが講じ、これでも私は皆からは竜こ……うおっほんっ!」


「はい?」


「い、いやいや、何でもないとも!ああ、見れば見るほど惚れ惚れとする、なんと素晴らしい絵なのだ……屋敷に戻った時には、すぐに豪奢な額縁に入れて飾らねばなぁ!」


本当に妙なタイミングでおかしな咳をする人だ。その時、マルクはレティシアがずっと沈黙を守っていることに気付き、絵を掲げて小躍りするグウェンに背を向けて机に立て掛けた彼女を手に取った。


「ずいぶんと静かですけど、どうかしたんですか?」


『…いや。一瞬、妙な気配を感じたのだが……』


「妙な気配……?」


マルクは窓から顔を覗かせ、辺りを見回してみる。月光に照らされた周囲は静寂に満ち、薄闇の中を何匹もの光虫が漂っている。目の届く範囲では異変のようなものは感じられなかった。


「何もいませんけど……」


『そうか……どちらにせよ、この姿では詳しくはわからん。何も無ければそれでいい』


レティシアの言葉が少し気になるマルクだったが、目で見える範囲で何も無ければそれ以上の情報を得る手段が無い。マルクは後ろ髪を引かれる思いを感じながら窓から離れた。


「ところでマルク君、ずっと気になっていたのだが……」


「はい?何でしょうか?」


マルクはレティシアを抱えたまま、十枚目の戦利品を懐へと収めながら声を掛けてきたグウェンへと向き直った。


「キミはずっとその本を肌身離さず後生大事にしているようだが……それには一体何が描かれているのかね?」


「え、えっと……」


会話までは聞こえていないようだが、何処へ行くにもレティシアを手離さないマルクの様子にさすがのグウェンも気になったらしい。馬鹿正直に答えるわけにもいかず、一体どう説明したものかとマルクは口籠ってしまった。


「も、もしや、それにはキミのとっておきとも言える逸品が描かれているのではないかね!?可能であれば、キミの作品を敬愛する者として是非とも拝見させて頂きたいのだが……!」


「こ、これは、その……め、メモ帳みたいなもので、大したものは描いてませんから……」


「ならば、それにはキミのまだ表に出ていない作品のアイデアが詰まっているというのかね!?そんなもの、尚更気になるではないか!絶対に口外しないと誓う!だから、冥土の土産に見せてはもらえないだろうか!?」


『と、突然何だこの爺は⁉︎ま、マルク!絶対に渡してくれるな!我の肉体候補におかしなことをされては、我の苦労が水の泡だ!』


「苦労したのは僕のような気が……ちょ、ちょっと、落ち着いて下さい!」


鼻息荒く迫ってくるグウェンにレティシアを抱えながら後退りするマルク。ここまで描いた作品を気に入ってくれたのならば作家冥利に尽きるのだが、今回ばかりは譲ることは出来なかった。


「ええい、もはや辛抱ならぬ!マルク君、すまない!」


「ああっ!?」


『おわぁああッ!?』


マルクの一瞬の隙を突き、グウェンは彼の手の中からレティシアを奪取。マルクに背を向けると、パラパラとレティシアのページを捲り始めた。

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