家族

和埜

第1章 邂逅

 縁が木目調の壁掛け時計の秒針が、朝の九時を指した。

 書類の提出や拾得物の引き継ぎといった残務処理を行い、私服に着替える。普段なら寮に直帰するのだが、パートナーである美沙の誕生日プレゼントを買うために駅前の商店街に寄ることにした。


 毎年のように思うのだが、今年の夏はいつにも増して蒸し暑く、特に春先から着用義務となったマスクの中が汗で大変なことになっている。容赦なく襲い掛かってくる熱気がワンピースの中に入り込んで滞留し、更に熱く感じられる。ようやく駅前に着き、涼を求めて小型の書店に入った。

 店頭に並ぶ新刊の表紙をひと通り見ていると、珍しくポリスマガジンが置いてあった。一般市民の手によって、市民の立場から制作された国内唯一の警察雑誌であり、警察官を志すようになった大学時代によく読んだものだ。上司から納得のいかないことを言われたばかりでモヤモヤしていたため今回は素通りした。角隅に展開された写真雑誌コーナーの前にたどり着く。アサヒカメラやキャパといった面陳列されている本もあれば、棚差しされている本もある。ほとんどの装丁がカラフルで綺麗なのだが、マリは黒地に赤い文字で『家族』と書かれた本が気になり手に取った。実家には大学に入学してから帰ってない。今年の春あたりに帰省しようと思ったのだが、パンデミックを起こしているウイルスの終息目途が立たずに諦めた。唯一の家族である父に久しぶりに電話でもしようかと考えながら写真集を開いた。


 最初のページに、「本作品に写っている人物はすべて著者の家族または親類であり、可能な限り掲載の許可を得ております。」と説明書きがある。その他のページにはコメントなどが一切記載されておらず、四角いモノクロ写真が一枚ずつ載っている。庭と思われる場所で水着の少年が笑っている姿や柿の軸に紐を結びつけている老婆の姿などがある。たまに家の中の家具や台所、あくびをしている猫なんかの写真もあった。ページをめくっていくと、電車内で撮影された写真があり、ピントは窓ガラスに映った顔に合っていた。その顔を見た途端、こめかみに汗が伝った。林淑芬リン・シュウフェン。現在、私が担当している『奥多摩山中"遺体無き"殺人事件』の容疑者であり、幼少期の恩師だった。


 ―――事件当日、私は待機非番だったため、夜の九時頃に奥多摩の日原駐在所から呼び出しが入った。十月半ばの冷たい雨が降っていた。本署に出向いてパトカーに乗り換え、現地に向かう道中で無線機を使って担当の警察官に連絡を入れた。

 「鮫島くん、お疲れさま。」

 「椎名巡査部長、お疲れ様です。」

 「今からそっちに向かうわ。先に事件の概要を教えて。」

 「はい。現場となった小屋の中で男が少女を暴行していた模様です。小屋の近くを通りかかった女性が男を倒して、少女を背負って駐在所を訪ねてきました。少女は意識が朦朧としていたので、女性に付き添ってもらって病院に救急搬送しました。自分は男の身柄拘束のため小屋に向かったのですが、見つかりませんでした。」

 「分かった。一旦、駐在所内で待機しておいて。」

 当時、女性について病院に問い合わせたが、看護師も少女の親御さんもお礼と状況説明は求めたが事態が落ち着いて名前を聞こうとしたときにはもう居なかったという。駐在所や病院の監視カメラの映像を確認してもらったが、旧型で映像が不鮮明のため今も特定できていない。

 駐在所に到着した時、鮫島くんの他に男性が二人いた。一人はスキンヘッドで、もう一人は真っ赤な髪色でパーマをあてていた。二人ともこの時期の奥多摩の夜を過ごすには身軽すぎる服装だったのを覚えている。

 「あ、椎名巡査部長、お疲れ様です。」

 警察官になりたてだという彼は初めての大きな事件に半ば興奮しているようだった。

 「そこの二人は関係者?」

 「断定はできていませんが、恐らくそうだと思います。応援要請した後、待機していたら来所されました。」

 「俺たち、バンドの仲間で、昨日の夜からキャンプしに来てて、かなり酔っぱらっちゃって、今日の昼くらいに起きたらカズがいなかったんです。」

 スキンヘッドの方が答えた。カズというのは彼らの仲間の一人だろう。

 「あなたたちは三人で来たの?」

 「いや、もう一人いて、今、カズのことを探してます。俺たちはちょっと怪我をしたので、ラクさせてもらってます。」

 みんな自分のことしか考えていないように思えた。少女の状態によっては傷害罪どころか傷害致死罪あるいは殺人罪にまで発展するほど事態は深刻だ。

 数日後、少女のお見舞いに向かうと、意識を回復していて警察に話したいことがあるとのことだったので聴取に臨んだ。少女の話によると、友達の家で遊んだ帰り道に男に話しかけられたという。男は友達を探していると言っていて、しばらく一緒に歩いていたが、小屋の前を過ぎようとしたところで連れ込まれたという。そこからは記憶が曖昧だが、助けてくれた女性は小学校でも見たことがあるとのことだった。そのことを頼みの綱として捜索し、学校関係者を洗い出す中で、いわゆる非常勤講師として何度か教壇に上がった台湾国籍の林淑芬リン・シュウフェンが退職済みで連絡が取れない状況だと分かった。署内では彼女が少女を日原駐在所に連れてくる前に男を殺害して山中に遺棄した方向で調査が進められることになったが、捜査本部が組まれることはなかった―――。


 事件から半年が経とうとしている。依然として、林淑芬リン・シュウフェンが犯行を犯したという物的証拠が見つかっておらず、唯一、小屋の中で無造作に投げつけられたような米袋だけが気がかりだったが、指紋は発見されなかった。こんな調子のため、入国管理局への協力要請を出せずにいた。外務省に渡航履歴の照会を依頼しているが、こちらも回答が得られていない。事件性が確立できておらず対応を後ろ回しにしているのかもしれない。昨日、上司から『本件は男の遺体が発見されて解剖に回されるまで保留にし、他の事件を対応するように』と告げられた直後だったため、この写真に対して藁にもすがる思いがあった。奥付の発売日を確認すると今年の春になっているため、林淑芬リン・シュウフェンは何かしらの理由があって一時的に奥多摩に居たが、事件後すぐに台湾に戻ったのではないかと考えた。背表紙に書かれた出版社に電話して、貴社が取り扱っている書籍の一部に事件と関係ありそうな内容があるため伺いたいと話した。誕生日プレゼントを探すはずだったし非番ではあるが仕方ない。

 ワンコールで電話口に出た男性はしゃがれた大きな声をしていて、二つ返事で了承してくれた。出版社に向かう道中で社長の武本誠たけもとまことのことを調べると台湾と日本のミックスであり、主な出版品は台湾に関わる書籍が多いことが分かった。書籍の著者は張品睿≪チャン・ビンルイ≫。1972年に基隆キールン市生まれ。林淑芬リン・シュウフェンも同年代で基隆キールン市の台湾インターナショナルスクールで教壇に立っていたため、二人は夫婦の可能性もある。(台湾では原則、夫婦別姓である)


 千駄ヶ谷駅の交差点を南に下り、Y字路に突き当たった右手にある雑居ビルに所在する武本出版社に着いたのは十二時を少し過ぎた頃だった。扉を開けると部屋は八畳間ほどの一室で、武本の他には中年の女性が一人いるきりだった。

 「こんにちは。先ほどお電話を差し上げた刑事の椎名マリです。」

 奥の席に座っていた武本は顔を上げると立ち上がり、

 「おー、いやはや、暑かったでしょう。どうぞ、そちらにお座りください。」

と出迎えてくれた。

 赤色の半袖のポロシャツを着た彼は指先から顔まで天然の日に焼けていて艶々と黒い肌をしている。勧められた四人掛けの商談机は資料や電話機で散乱しており、元々は白かったであろう壁紙はタバコのヤニで黄ばんでいた。小さな出版社のようで、保管倉庫を持っていないのか扱っている書籍が雑多に段ボール箱に入っている。

 武本は商談机の席につくと煙草による独特な咳をした。

 こちらからの急な訪問にご対応いただけることに謝辞を述べ、鞄から『家族』を取り出した。

 「早速ですが、お電話でもお話しさせていただきました通り、貴社が発刊している書籍のことでお伺いしたいことがあります。」

 「何でも構いませんよ。あ、宮下さん、刑事さんにお茶をお願い。えーーと、どの部分が事件と関係してそうですかね?」

 武本は眼鏡をかけながら奥付に目を通した。

 胸元のプレートに『宮下☺』と書かれた女性社員が冷たいお茶を持ってきてくれた。香りと色から、それが台湾の菊黒烏龍茶だとすぐに分かった。母は私が小学校に上がる前に交通事故で亡くなったと聞いていて、父の転勤で小学校時代を台湾インターナショナルスクールで過ごした。その頃、よくリン先生が淹れてくれたのを思い出した。当時、マリにとって彼女は母親代わりとさえ感じていた。


 マリは林淑芬リン・シュウフェンの顔のあたりを指差し、武本の目を注視しながら訊ねた。

 「ここに女性が写っていますが、その方が捜査中の事件に関わっている可能性があります。著者の家族なのだとすれば、武本さんもなにかご存知かと思いました。」

 武本は書籍を手に取り、眉間にしわを寄せて暫く写真を見つめた。

 「電車かなにかのガラスに反射している人ですよねぇ。全体的にピントがぶれていますし、これだと誰なのかまではちょっと分かりませんねぇ。」

 知ってて慎重になっているのか、武本は雑誌を机に置いて眼鏡を外した。

 「捜査に役立てられずに申し訳ないね。」

 物憂げな表情を浮かべて先ほどまでの威勢が嘘だったかのように静かになってしまった。何か事情がありそうだ。普段ならこれ以上は立ち入らずに後日また伺うことにするだろうが、やっと掴めそうな情報源なので引くわけにはいかない。

 「私は父の転勤の都合で小学生時代を台湾インターナショナルスクールで過ごしました。当時、教鞭を振って下さっていたのは林淑芬という方でした。」

 武本の片眉が一瞬、上がった。

 当時、台湾国内では権威主義から民主主義へと舵が切られ、国民のやる気が満ち溢れた時代だった。

 「林先生から勉学以外にも台湾の歴史や料理の仕方など、色々なことを教えていただきました。卒業と同時に日本に帰国した後も文通を続けていましたが、いつしか音信不通となってしまいました。今回、このような形でリン先生の近況を知ることとなったのが残念でなりません。ですが、今の私は職務を全うする他ありません。せめて、張品睿≪チャン・ビンルイ≫さんとの連絡だけでも間に立って繋げていただくことはできないでしょうか?」

 武本は暫く黙った後に重い口を開いた。

 「刑事さんは仕事熱心ですね。僕と同じです。このままだと僕は証拠隠滅等罪でしたっけ、疑いがかけられちゃいますね。正直にお話しますと、チャンくんとリンさんは夫婦でした。三年前、林さんにショッキングなことがあって張くんとは離婚したみたいで…。だから、たぶんたまたま見かけて撮っちゃったのかな。こちらもすべての発刊物に目を通せてるわけではないので、その写真も今知りました。」


 「社長、私は林先生にお返ししきれないほどのご恩を感じていて、感謝してもしきれません。それと同じくらい、とても心配をしています。林先生が事件に関わっていないことを望んでいます。私はただ、真相を見つけたいんです。どうか、捜査にお力添えをいただけないでしょうか。」

 「…分かりました。張さんの連絡先は分かるので、一度、刑事さんに会えないか聞いてみます。彼には僕の口から警察の捜査が入ると連絡しておきますが、良いですね?」

 「はい、ご協力に感謝します。」


ようやく、事件の真相に近づけた気がする。

美沙への誕生日プレゼントのことは、すっかり頭から抜けてしまっていた。

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