第4話 カラマン朝と海賊たち

これ汝ら、信徒ハーシュラたちよ

ミザールのお言いつけを良く守り

またミザールの遣わせし使徒ムーラーク

それから汝らの中で特に権威ある地位にある

福音タリード守護者ガヤンの言いつけを良く守るのだぞ――


福音書タリード』四章五十九節より



   ***



 ラヴィネは東大陸から静海に突き出したナストク半島にいくつもある湾のひとつである。後背に山を負い土地の狭小なこのラヴィネには小さな漁村があるに過ぎない。しかし半島の南の沖に東西交易の主要海路が通るため、ラヴィネ湾は古くから船乗りたちに風待ちや荒天避けの寄港地として利用される場所であった。


 今、このラヴィネの湾を埋め尽くすように三〇〇隻にもなるカラマン朝の大艦隊が集結していた。林立する帆柱を並べてひしめくように停泊する軍船の群れには、数万を数える人間が巣に蠢く蟻のように活動している。この艦隊を見下ろせるラヴィネ湾の入口に近い山腹に、湾を防衛する目的で築かれた城塞がある。ここに艦隊の指揮官が集まり軍議が催されていた。


 この軍議は艦隊指揮官の一人シャルーク=ベグの報告と、それに対する総司令官ハサン=ウズン=ザシャンの叱責から始まった。


「威力偵察を敢行してきた敵船五隻に対して、巡視任務にあった私の麾下きかのガレー船三隻が強襲を受け、内二隻が拿捕されました」


「それでシャルーク殿は、異教徒クラーナどものされるがままに引き下がったというのか!」


 激昂するハサンの将軍ザシャンという地位に相応しい豪奢な服装とは対照的に、シャルークは質実を重んじる質素な軍装に身を固めた男だった。


 装飾のないターバンに飾り気よりも動きやすさを重視した簡素な革鎧、滑り止めの皮革を柄に巻き付けた実用重視の曲刀を身に付け、装いよりも海で鍛えられた引き締まった肉体と日に焼けた肌の精悍さで自身の存在を誇示するシャルークは歴戦の海賊の頭目であり、カラマン朝から静海南東岸の港湾都市エダクの総督ベグに任じられた人物である。


 カラマン朝は静海でエリティア人に対抗する諸勢力から入貢を受けたが、その中には静海沿岸を武力で支配する海賊たちも含まれていた。シャルークもその一人である。カラマン朝は彼ら海賊を支配地域の総督ベグに任命することで、その支配に権威と正当性を与える見返りに彼らの武力――つまり軍船を提供するよう命じた。先祖が遊牧民であり典型的な陸軍国であるカラマン朝には海軍の伝統がなく、軍船の数は揃えられてもその練度は低かった。これを補ったのが海戦を専業とするこれら海賊の供出した戦力である。ラヴィネ湾に集結した艦隊の半数を占める海賊の艦隊こそが、カラマン朝海軍の主力の精鋭と呼べるものであった。


 この海賊の頭目であるシャルーク=ベグは、ハサンの怒りにも動じることなく持論を述べた。


「敵の挑発です。応じる利はありません」


「それはお前にとって害がないの間違いであろう? 私が皇帝陛下より将軍ザシャンの称号を与えられたのは、その働きを示すためだ」


 眉ひとつ動かさないシャルークに、ハサンは青筋を浮かべてそう言い返した。ハサンとてシャルークの言い分に道理があることはわかっていた。カルファ攻略を最終目標とするなら、この艦隊の目的はそれまで敵の援軍を近づけないことである。このラヴィネに大艦隊が停泊しているだけで、敵はここを素通りすることはできない。こうなれば敵の選択肢はカルファ救援を諦めるか、決戦を挑むかの二つだけである。しかしこちら側には決戦を避け、敵を牽制し続けるという選択肢があった。これを選べば負けることなく確実にカルファ攻略という目的を果たすことができる。しかしである。


(私に与えられた使命は勝利)


 その確信がハサンにはあった。それというのもハサンが将軍ザシャンに任命されたのが抜擢と呼べる人事であったからである。慣例では将軍ザシャンに選ばれるには十年以上の軍務経験と、大宰相バル・アザークを筆頭とする五人の宰相アザークの内の誰かからの推薦が必要であったが、ハサンはその両方を得ていなかった。特別な力が働いたのである。


 カラマン朝の皇帝にして福音タリード守護者ガヤンたるバルムット一世は、この年で即位して十年になる。その政治は自身の即位に貢献のあった大宰相バル・アザークギレイ=シナン=アザークを始めとする先帝ムスタク二世の遺臣たちの強い影響下にあり、多く先帝の政策を受け継いでいた。しかし即位十年のこの頃になると皇帝バルムット一世は大宰相バル・アザークギレイの影響力を削ぎ、親政を強めるために人事権の強化を進め始める。その方策のひとつとして、大宰相バル・アザークを含む五人の宰相アザークによる将軍ザシャン候補の推薦権に介入し、推薦者の選考対象者に皇帝の推挙を受けた人物も含むよう定めたのである。いくら大宰相バル・アザークといえども臣下であり信徒の身分で、皇帝であり福音タリード守護者ガヤンたるバルムット一世が推した人物を無下に選考から落とすことはできない。彼はこうして宰相アザークたちの人事権を表向きには剥奪することなくその無実化を図ったのである。


 これにより皇帝からの推挙を最初に受けたのがハサンである。ハサンはバルムット一世の乳母兄弟であり、皇太子時代から近習を務めた側近で、その清潔感ある優れた容姿と高い実務能力、そして皇帝への強固な忠誠心とミザールへの敬虔な信仰心をバルムット一世に愛された子飼いの寵臣であった。


 このような形で将軍ザシャンとなり、三百隻の大艦隊の総司令官の任に就いたハサンの使命は明確であった。臣下として彼を抜擢した皇帝の期待に応えて戦果を上げ、宰相アザークたちにこの人事の正しさを証明することである。そして同時に敬虔な唯一神ミザール教徒であるハサンはこの使命の成功を確信していた。


 唯一神ミザール教徒にとってミザールとは世界そのものであり、森羅万象のあらゆる事象はその顕現とされた。それは星の運行と連動するものと考えられ星運ハルタナと呼ばれる。星運ハルタナとは世界の必然的な成り行きを示すことわりであり、人にとっては運命と同義となる。星運ハルタナから外れることは世界のことわりから外れることであり、人にとってそれは不幸な運命を意味する。この状態を無明クラーナと呼び、あるとき慈悲深きミザールは多くの人が知らずうちに正しき星運ハルタナの道から外れて無明クラーナへと陥り不幸な運命に嘆くことを憐れに思い、預言者ムーラークを遣わして正しき星運ハルタナを生きる道を指し示した。これが福音タリードである。


 このミザールの啓示である福音タリードに「福音タリード守護者ガヤンの言いつけを良く守るのだぞ」と示され、信徒ハーシュラを導く地上におけるミザールの代理人としての権利を与えられた福音タリード守護者ガヤンの意思は、つまり正しき星運ハルタナの道であり無謬むびゅうなるものであった。敬虔なるミザール信徒ハーシュラのハサンにとって、その正しさを疑う余地など寸毫すんごうもありはしなかったのである。


「決戦を誘う見え透いた挑発であることは事実だ。だが福音タリード守護者ガヤンが示された我々の星運ハルタナは勝利より他にない」


「勝利に必ずしも血が必要であるとは限りますまい」


 しかし麾下きかの指揮官――特に海賊たちは決戦に反対であった。彼らの提供する戦力は彼らの財産であり、カラマン朝とは利害の一致でその宗主権下に加わっているだけの海賊たちにとって、カルファ陥落まで待てばよいだけの現状で決戦を選ぶことは百害あって一利もない選択肢であった。同じ唯一神ミザール教徒といえども彼らにとっての星運ハルタナとは、福音タリード守護者ガヤンたる皇帝の命令に従うことではなく、常に自己利益の追求にあったのである。


 このような海賊たちの決戦忌避の姿勢を軍務経験の乏しいハサン一人の主張で覆すのは難しい。まして敵はこちらの船を拿捕する挑発行為に出ており、何かしらの勝算があって決戦を急いでいることは明白であった。このまま挑発に乗る形で決戦を強行しても海賊たちは敵の策を警戒して消極的に動き、まして形勢不利となればすぐさま戦場からの離脱を図ることは容易に想像できた。


「シャルーク=ベグ、確かに貴殿の言う通りこの挑発に乗る目先の利はない。だが、これほどの艦隊に課せられた勝利への星運ハルタナがそれだけで果たされるとお思いか?」


 この状況に苛立つハサンを助ける形で、軍議の流れを変える発言をしたのが、末席に列していた若い赤毛の戦士だった。ターバンから流れ溢れる火のように赤い髪が印象的な、背の高い男で、白地に黒線の波状紋をあしらった瀟洒な革鎧を着込み、腰には金地の幾何学文様が施された見事な曲刀を提げた偉丈夫――ラシード=ベグである。


 シャルークと同じくカラマン朝から港湾都市プーフーリの総督ベグに任じられた海賊の頭目であるラシードは軍議に列席する諸将を前に、その若さなど意にも介さぬ堂々たる態度でそう言った。


 名を呼ばれたシャルークが苦々しげな声で答える。


「実だけでなく名も欲しいか、赤毛の若造」


「臆病者でもない限り、その両方を求めないものがこの海にいると思うか、シャルーク=ベグ?」


 これに挑発で返したラシードは、海賊としても総督ベグとしても新参で序列的にはシャルークの下に並ぶ立場だった。彼のこの序列を無視した行動の理由はシャルークの言う通り、名声を求めてのことだった。


 彼の父は『赤髭』の異名で恐れられた大海賊ドラグムートであった。この父が死ぬと、その勢力の空白地を巡ってエリティアやザーラなどの西大陸の諸勢力を始め、カラマン朝に従う東大陸の海賊たちも加わった激しい争奪戦が勃発した。この戦いを勝ち抜いて父と同じプーフーリの総督ベグの地位をカラマン朝に認められ、その勢力を引き継いだのがラシードである。


 父ドラグムートと同じ赤髭を生やすラシードだったが、その勢力基盤は父の頃に比べればまったくの脆弱であった。カラマン朝から父の後継者として総督ベグに任じられたとはいえ、ラシード自身の実力と勢威を周囲に誇示し続けなければ、彼を「所詮は父親の名声を借りただけの若造」と侮る者たちからの追い落としを受けることになる。


 ラシードには手ずから勝ち取った名声が必要だった。それも大きな戦いにおける圧倒的な功名である。そして今その機会が彼の眼前に近づいていた。だから決戦を望む総司令官ハサンの立場に率先して支持を示したのである。ラシードの黄色い瞳はける鉄にも似た紅金あかがねの色に燃えていた。


 シャルークが舌打ちをする。若輩に臆病者と挑発され、年長者としてどう切り返すか思案するための一呼吸――その間隙であった。


「軍議の最中に失礼致します! 閣下にご報告です!」


 緊張した軍議の空気を裂いて急使の声が響き渡った。急使がハサンの耳に急報を告げるとその顔色が変わる。彼は諸将を見渡して重々しく急報の内容を告げた。


「諸君。異教徒クラーナどもが拿捕した船の一隻に捕虜を乗せて返してきたそうだ。船頭一人を除き、全員が目を潰された状態で船を漕がされてな」


 諸将がどよめく。残酷な仕打ちであると同時に、明白な侮辱と挑発の行為であった。


「艦長であった者は身体の生皮を剥がされ、首と胴を斬り離されて帆柱にはりつけにされていたそうだ」


 シャルークが顔を歪める。この酷刑を受けた者は彼の部下であった。軍議の場に異教徒クラーナどもの非道を憎悪する声、特に海賊たちにとって長年の宿敵であるエリティア人を憎む声が一際に大きく上がる。


 海賊たちに悲憤をもたらした悲報――しかしハサンにとってはこれこそがミザールの天啓であった。


福音タリード守護者ガヤンたる皇帝陛下は私に手ずから大軍旗を授けられた」


 騒然とする軍議に水を打つように、ハサンの凛とした声が響いた。諸将が口を閉じてハサンを見る。


「大軍旗にはこう記されている。“偉大なる神エル・ミザール星運の導きハルタナに従ってこの偉業に参加する信徒ハーシュラたちに、ミザールの誇りと恩寵を贈る”と。このミザールの誇りを理解できぬものはいるか!?」


 ハサンは手を横に払い、唾を散らして諸将にそう問い質す。


偉大なる神エル・ミザール福音タリードにこう語る。“命には命、目には目、歯には歯、あらゆる傷害に、またあらゆる恥辱にも同様の報復を”と。恥辱は報復か賠償によってのみ贖われる。我らがミザールの誇りを取り戻すために為すべきことは何か!?」


 恥辱に対する報復は唯一神ミザール教徒の正しき星運ハルタナであった。たとえ敵の誘いであっても、これほどまでの恥辱に対して報復を誓わないものは臆病者として名誉を失う。そして激しい抗争の世界に生きる海賊たちほど臆病者の不名誉が、自身の権力を損なう危険のあるものと理解していない者たちはいないのである。この場でハサンへの反論を口にするものは誰一人としていなかった。


「決を得た!」


 この沈黙を賛意と解したハサンは諸将を見渡してそう告げると、即座にラシードを指差してその名を呼んだ。


「ラシード=ベグ! 貴殿のその名誉への貪欲さ、この戦いの重任を負うに足るものである! 左翼の指揮権を授ける! 偉大なる神エル・ミザールの名に恥じぬ奮戦を果たせ!」


「ありがたきお言葉」


 次にハサンはシャルークの名を呼んだ。


「シャルーク=ベグ! 貴殿の部下に対して振るわれた非道への恨み、心中察して余りある! 右翼の指揮を取り、偉大なる神エル・ミザールの名に賭けて必ずやその復讐を果たせ!」


「ご厚意、感謝いたします」


 ハサンは自身と考えの近いラシードを抜擢すると同時に、シャルークに復讐という大義を与えて不退転の楔を打ち込むことで艦隊を前進させるための両翼を固めた。


 そして諸将にむかい拳を振り上げて大声で叫んだ。


諸々もろもろ力戦に励め! 神の望むままにアブ・ミザール!」


神の望むままにアブ・ミザール!」


 諸将の呼号が響き渡り、ここにカラマン朝の陣営は決戦への意志を固めた。これと同じ頃、神聖同盟も決戦の道を選ぶ。それもまた名誉を求める人間の意志によるものであった。

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