ラヴィネの海戦

ラーさん

第1話 開戦前(1)

ミザールの御名の下に最高の慈悲を

ミザールは世界であり、唯一なるもの

開闢かいびゃくと終焉を司りし、絶対なる星運ハルタナの支配者

すべての感謝は世界にして唯一なるあなたへと注がれる

我々はあなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める

我々の無明クラーナに光を与え

正しき星運ハルタナに導きたまえ

あなたの導きを斥けて無明クラーナに留まる者たちではなく

あなたの導きに従って正しき星運ハルタナを歩む者たちに

いと慈悲深き恩寵を――


福音書タリード』一章一節より



   ***



  ――ミザールの御名の下に最高の慈悲を


 ハサン=ウズン=ザシャンは、払暁のやわらかい陽射しを背に浴びながら船首楼の甲板かんぱんに膝をついてミザールに祈りを捧げていた。


 朝焼けの海に吹く潮風に乗って『福音書タリード』の聖句がそこかしこから聴こえる。帆柱の上の檣楼しょうろうから長い音を引いて鐘が鳴り、これに合わせて人々が祈りの聖句を口にする。



  ――我々はあなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める



 詠うように響く祈りの声は幾重にも重なる。ハサンの乗る船を中心に、左右にそれぞれ百隻以上の船が並んでいた。


 大艦隊である。


 その大半は喫水線が浅く細長い船体の両舷から数十本の櫂を百足むかでの足のように突き出したガレー船であった。主に戦闘用に用いられるこの船の甲板には半月刀や銃にいしゆみで武装した男たちが詰めている。唯一神ミザール教徒に一般的なターバンを頭に巻き、成人男子の証たる髭を競うように生やした戦士の群れであった。


 この男たちの中で最も豪華なターバンを巻き、最も美麗な髭を生やした男こそが、中央の旗艦に座すハサンである。


 ハサンはがっしりとした身体に対して繊細に整えられた髭の美しさが印象的な壮年の男だった。そのターバンは大きな黄玉トパーズで飾られ、上着には朱子織しゅすおりの光沢ある絹生地に花蔓の刺繍を散りばめた長衣を羽織り、腰からは金銀の象嵌で装飾された宝剣を提げている。贅を凝らしたその身なりは、彼に与えられた地位――この艦隊を率いる将軍ザシャンであることを示すものだった。


 彼が率いる艦隊のすべての船の檣楼しょうろうから鐘が鳴り、彼が率いるすべてのミザールの戦士たちが甲板に膝をつき、彼と同じ聖句を捧げる。



  ――我々の無明クラーナに光を与え

    正しき星運ハルタナに導きたまえ



 数百隻の軍船から発せられる数万の人間の祈りの声。穏やかな声で厳かにミザールへと捧げられる聖句は、しかし力強く大気を震わせ、彼らの意識をひとつへとまとめていく。



  ――あなたの導きを斥けて無明クラーナに留まる者たちではなく



 その意識の先は彼らの乗る船の舳先の向こうにあった。薄明の水平線から徐々に姿を現す艦隊が見える。林立する帆柱は優に数百本を数え、水平線を埋めてこちらと対峙するように広がっていくその艦隊の規模は彼らとほぼ同じと思われた。



  ――あなたの導きに従って正しき星運ハルタナを歩む者たちに



 それが彼らの敵であった。彼らの祈りはこの敵への勝利を願って捧げられていた。



  ――いと慈悲深き恩寵を



 聖句が終わり、鐘が長い余韻を残して絶える。ひとときの静けさの中で立ち上がったハサンは、旗艦の帆柱に翻る大軍旗へ腕を掲げ、聞く者の耳を震わす大音声だいおんじょうで叫んだ。


ミザールの慈悲を知らず、多神教まやかしを信じて無明クラーナに留まる者たちに正しき星運ハルタナを与えるのだ! ミザールの他に神はなし! 生きるも死ぬもミザールへの愛のため!」


 海戦が始まる。後世にラヴィネの海戦と呼ばれる、東大陸の大帝国カラマン朝と西大陸の神聖同盟が両大陸の間に広がる静海で衝突した、史上最大規模の海戦である。

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