第伍章

第伍章の壱【相対】


――十字架にはりつけにされた神の子は、死んで三日の後に復活を果たす。『十字経典』



 教会病院の一室。

 腰壁より上にガラスをはめた病室の前で、リリアンヌは中をジッと見つめていた。そこには、半透明の薄いカアテンに囲われたベッドがあり、その上に患者が一人、横たわっていた。

 紫の特殊な電光を当てられた壱號が、そこにいた。酸素マスクを取り付けられ、幾つもの細い管が身体の中を貫いている。その様子は死人同然だった。だがそれでも、効くかどうかも定かではない脆弱な治療を施され、彼は僅かながらも生かされていた。

 全ては、リリアンヌの指示だった。


 先の襲撃事件の日の夜、彼女の父レイガナは全てを娘に説明した。

 複写生命技術に隠された時限式の細菌兵器。二十年前、妻を亡くし悲観に暮れたレイガナが始めた複写生命研究。次いでおこった、戰略歩兵開発事業。もちろん歪な鉄の腕たちは、そこで命を吹き込まれた。だが、この細菌兵器については誰の指示でもなかった。教会は非介入だった。それは、遺伝子設計を行っていた研究者たちの独断専行の自己満足の産物だった。

 敵地で死亡する運命を背負った戰略歩兵部隊。そこに目を付けた設計士たちは、彼らの体内に、死亡後に発現する細菌兵器を組み込むことにしたのである。そして、発現した病気は、人から人へと強烈な空気感染を経て、敵国内で最悪の厄災を引き起こす。

 だが、実際には、死亡した際にそれは発動しなかった。どういうわけかは分からない。組み込まれた細菌の欠陥ということも考えられた。しかし、発動しなければしないで問題もなかった。そして、そのまま月日は流れ、研究所は壱號たちによって破壊され、放棄された。

 戦後、その残骸の中から、複写生命に組み込まれた細菌兵器の存在を教会は知った。そして問題は、この複写生命の体内に組み込まれた細菌兵器が生きていて、二十年という長い潜伏期間を経て、発現する可能性があることだった。

 教会は焦った。今や複写生命事業は、民間にもその技術を移管し、そこで作られた複写人にも細菌兵器がまぎれていないとも限らなかったからだ。だが、それを公表することも出来なかった。二十年後、本当に発病するかも定かでないものをどうして発表出来ようか。言えば、戦後復興のままならないこの国が、再び混乱することは明らかだった。そこで、前教皇レイガナ及びダイスマン・ウォヱンラヰトは、この問題を先送りにするように動き始めた。

 そう、彼らは、複写生命の禁止を謳ったのである。戦後、敷衍ふえんさせた情報収集解析プログラム〝神の御加護〟を通じて行った念密な広報戦略。そして、警護課による強権的な保護事業。これが、戦後八年の間に広められたこの国の禁忌の実態だった。

「では……保護事業は、結局の所、細菌兵器を身体に持っているかもしれない複写生命を、一ヶ所に留め置くためのものだったのですか?」

 リリアンヌは父に尋ねる。レイガナは頷く。

「信じられない……そんな、そんな理由で、彼らは虐げられていたんですか? 真実を一切知らされずに……」

「知らせれば、それこそパニックだ……どうしろって言うんだ?」

「……でも、お父様。結局、保護は間に合いませんでした……すでに最初の複写人から二十年が経過しました。そして事実、一人目の犠牲者が出ているんです……このままでは、いつどこで誰が発症してもおかしくありません」

「犠牲者……リリィ、君はあんな奴にでもそんな言葉を使うんだね」

「ふざけないで下さい」

 リリアンヌは力強く言い返した。レイガナは、ばつが悪そうに黙り込んだ。

「お父様……今こそ真実を国民に伝えるべきだと、私は思います……」

「……だが、だが、それは……」

「お父様……っ! お父様が何と言おうとも……私はこの事実を国民に公表し、この危機を乗り越えようと思います」

 この時レイガナは、自分がすでにこの国の教皇ではない事をハッキリと自覚した。


 翌日、リリアンヌは緊急の記者会見を行い、複写生命事業のおこりとその副産物について、事実を全てありのままに公表した。そして、複写生命の保護事業の一時廃止を宣言した。

 もちろん、これに対し世界は――ニホンのみでなく、文字通り世界中が――喧々諤々の事態に陥った。国内では、多くの国民がこれまで以上に、複写生命に対し嫌悪侮蔑の態度を取るようになった。それに加えて、教会に対しての圧力も急激に高まった。これまでひた隠しにされてきた事態の深刻さが、それに拍車をかけていた。信じ、ついてきた思想はまやかしだったのである。

 一方で、複写人たちはおおよそ三つのグルウプグループに分かれた。一つは自暴自棄になり、壱號たち歪な鉄の腕同様に過激な行動に出る者たち。一つは、これまで以上に、人々から隠れるように生きるようになった者たち。そして最後の一つは、自身の病気を恐れて、自発的に保護施設に来る者たちだった。こうしてニホン国内は、収拾のままならない喧噪に突入してしまったのである。

 だがそれでもリリアンヌは、すでに信頼を失った国民に向かって、声高に叫んだ。この事態を乗り切るため、複写生命の持つ病原体の治療薬を作ると誓ったのである。

 そう、確かに問題の根幹は、ただそれだけだった。複写生命に関する教会の教えは嘘偽り。シヱパアドによる強権的な保護事業は事実上の廃止。であれば、残る問題は、いかにして感染拡大を防ぐか、ただそれだけだった。それさえ防げれば、きっと国内の争いはなくなる――リリアンヌはそう固く信じていた。

 そして、〝リリアンヌの告白〟の翌日、第三ロヲマ帝国サードヱンパイアは、宗主国として本件は全く預かり知らないものと世界に向けて声明を発表し、十字共栄圏クロスエリア内での内憂発起の罪状で、レイガナ前教皇の弾劾招致だんがいしょうちを行った。併せて、本件が終息したとみなせるまでは、ニホン国民の二ホン国外の十字共栄圏への渡航を認めないこととした。ニホンは、誰からの助けも得られない孤立無援の苦しい事態に陥った。


「……ろせっ……」

 病室に設置されたマイクが、壱號のしゃがれた声を拾う。リリアンヌは壁に取り付けられた操作卓に触れて、壱號に話しかけた。

「何かおっしゃいましたか?」

 丁寧な口調。壱號が、苦しそうに繰り返した。

「……殺せ……頼む、殺して、くれっ……」

 壱號の喘ぎ声が漏れる。リリアンヌの顔が歪む。

「それは出来ません。あなたを見殺しにはしません」

 しばらくの沈黙。壱號の吐息と、生命維持装置の微かな唸りが室内に響いている。そして、か細く渇ききった笑い声が漏れ出した。

「はは、ははは……それは、嘘だ……」壱號が声を絞り出す。「お前は……俺を苦しめる……ためだけに、生かしてる……これは、復讐だろう……お前たちの……」

 身体中が痛むのだろう。壱號の顔に苦悶の表情が現れる。

「……あなたは、どうしてそう……」

 リリアンヌは、憐れみの目で壱號を見た。

「そ、それ以外に……理由があるかっ……? 結局、お、俺は、お前らの……モルモットだ……どこまでいっても、だ」

 リリアンヌは溜息をついた。頭をかいて考え込む。そして、病室の扉横に掛けられた防菌マスクと手袋を手に取った。

「陛下、お待ちください!」

 若い付き人が声を上げた。だが、リリアンヌは止まらなかった。マスクと手袋を付けると足早に、病室の扉を抜けて中へ入っていく。ビニヰルビニールで囲われたベッドの前に向かう。

 壱號が、リリアンヌを見る。その目には戸惑いの色が映っていた。

「どうして、どうして、あなたはそう……」

 リリアンヌはビニヰルのカアテンを捲ろうと手を伸ばした。

「待て……」壱號が言った。

 リリアンヌは手を止めた。

「……どうして?」

 リリアンヌが尋ねる。壱號は何も答えない。リリアンヌは落ち着いた声で言う。

「……これだけは、理解していただきたいのですが……私はあなたの事を少なからず憎く思っています……ですが、それでも、あなたを許そうとも思っています」

 壱號が驚愕の眼でリリアンヌを見た。そして憎しみを持って睨んだ。リリアンヌも壱號を睨み返した。

「私たちは動物ではないんです。自分に仇なすものであっても、理解し、許すことが出来るのです。私は強くそう信じています……」

「……頭が、おかしいんじゃねえか」

「それを出来るのが、人としての唯一の矜持きょうじなんです……」リリアンヌは言葉を切り、脇に抱えていたカバンから、ボロボロになった紫色の折本を取り出した。「……あなたの着ていたコオトの内ポケットに、これが入っていました」

 それは、リリアンヌが即位式で読み上げる予定だった演説の原稿だった。

「何故、あなたがこれを持ち続けていたんですか?」

 リリアンヌが、壱號の返事を待つ。だが、壱號は何も答えずに、顔をそむけた。

「……何故、あなたは、私が先ほどカアテンを開けようとした時に、待てと言ったんですか?」

 壱號は沈黙を続ける。リリアンヌは折本をカバンに仕舞いながら言った。

「私はそこに答えがあると思っています」

 そして踵を返し、出口に向かう。去り際に扉の前で言った。

「私は、あなたを助けてみせます。それが、今私がこの国のために出来ることだから……」

 病院の廊下を足早に歩いていく。後ろから追ってくる付き人に、リリアンヌは命じる。

「すみませんが、近いうちに統一中華チャイナストラクチャーないしはシベリア公国と交渉の場を設けていただけませんか?」

 付き人は驚いて声を上げる。

「と……統一中華、ですか?」

「シベリア公国でも結構です」

「こ、交渉の目的は?」

「国立生命遺伝子研究所の見立てでは、くだんの感染症の治療薬開発には、超高度情報演算処理基匣による支援が不可欠との事でした。現時点で国内にあるはこは全て稼働させていますが、それでも治療薬が間に合うかどうか微妙なところです……」

 リリアンヌは足を止め、振り返る。

「そこで、今回の件に関しては、諸外国に協力を仰ぎたいと思っています」

「で、でも統一中華は、非十字共栄圏です。それに、歪な鉄の腕に支援をしていたという噂も……」

「そうね……でも、第三ロヲマ帝国を始め、十字共栄圏も頼りに出来なさそうですし……それでももし統一中華にある龍華りゅうか、シベリア公国のジャブダルを借り受けることが出来れば、創薬は一気に進むでしょう」

 若き付き人は、あるじをジッと見つめた。付き人になってからまだ月日の浅い彼女には、リリアンヌの要求を拒む勇気などなかった。ましてや、これだけの覚悟を持って頼まれたとなれば、なおさらである。付き人は頭を深々と下げた。

「委細、承知いたしました」

「ありがとう」

 リリアンヌは微笑んだ。

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