第2話
「王都を出ようと思う。クリム家の父祖の地である、クレムルフトにわれら一家で引っ越しをするのだ」
「クレムルフト」
リリーベルがさも困ったといった口調でおうむ返しにその名をつぶやいて、三人姉妹は思い思いにお互いの顔を見合わせた。
クリム家は過去には王宮の要職に就いていた歴史もあり、王都に居を構えてずいぶんにはなったが、そもそも元をただせば王国の西のずっと外れにある、クレムルフトという小さな荘園を所有する一介の地方領主であった。
その領地を離れ、王都に暮らすようになって以来、領地は代々土地のものに管理を任せたままになっており、毎年収支連絡やら現況報告といった書面がグスタフの元に届けられていることは娘たちも知っていた。
とはいえ、彼女らが実際にそこへ行った事などはもちろん無かった。
「お父様は、そのクレムルフトには行ったことがあるんでしたよね?」
「うむ。かつてクリム家の家督を継いだばかりの折に、一度は挨拶に赴かねば、と足を運んだことがある」
静かでよい所であった、と父はしみじみとつぶやいたが、そこが王国の最果てである、ということくらいはハリエッタも知識としては知っていた。いきなりそんな土地に引っ越すといわれても、心が浮き立つよりも先々についての不安が内心を占めていくばかりであった。
だがほかにどのような選択肢があるわけでもなし、父の提案に姉妹の方からこれといった反対も代案も出てくる事はなかった。とくにハリエッタとしては黙ってこのまま王都を去るのは可能な限り避けたくはあったが、正騎士の試験に受かったあとならまだしも、彼女の夢は無料で叶えられるものではない。姉は奉公に出るといったが、今だって針子の内職で家計を助けていたくらいだったのだ。わがままを言って王都に残るというのであれば、正騎士になるより先にハリエッタ一人で生計を立てていく必要がある。結局のところ、父の言うことに従うよりほかに彼女には選択肢がなかった。
話が決まれば後は早かった。一家は早々に家屋敷を引き払い、差し押さえを免れたわずかな身のまわりの品々を荷物にまとめ、新たに買い求めた二頭立ての中古の馬車で、そそくさと王都を後にすることになったのであった。
言ってみれば都落ちである。ハリエッタだけではない、クリム家の誰にとっても愉快な旅ではなかっただろう。
けれどやはり、騎士になる夢破れたハリエッタの落胆は決して小さくはなかった。剣の稽古にいつも使っていた古びた小振りの剣を腰に下げ、債権者との交渉の末にどうにか差し押さえを免れた愛馬ミューゼルに一人またがって、さびれた街道筋を進んでいく一家の馬車から、少し離れたところをとぼとぼと付いていくのだった。
やがてスレスチナから西回りの街道に乗り、ファンドゥーサからさらに街道を西に向かうと、目指すクレムルフトまであと一日というところで、一家はとある廃墟の砦の前を通りすがった。
近づく随分と前からその城砦の威圧的なシルエットははっきりと見て取れた。それほどに大きなものが寂れ果てた荒野の真ん中にぽつんとそびえたっているのだから、そこから見える光景は旅人の心を不安がらせるに充分だった。
ハリエッタは彼方をじっと見やったまま、馬を馬車まで寄せて、御者台の父に言う。
「ずいぶん大きな砦ね」
「領民の住む街をひとつ丸々、城壁でぐるり取り囲んであるのだな。昔はここにも人が住む街があったと聞いた」
父グスタフは何十年か前に同じ道を旅し、同じ廃墟の姿をその時にも目の当たりにしたという。その時からずっと変わらず、それは廃墟のままそこで行きすがる旅人を待ち構えているのだった。
末妹エヴァンジェリンが馬車の窓から顔をのぞかせ、父に問いかける。
「父さんは行った事があるの?」
「いいや、あの当時は不慣れな一人旅であったから、旅の商人を金でやとって道案内を頼んでいたのだが、近寄っても良いことはないとそのまま通り過ぎてしまったのだよ」
「良いことはないって、一体何があるのよ?」
「さて。わしはべつだん、立ち寄って見物してみてもよかったのだが。案内を頼んだと言ってもその商人も旅の行商の途中であったからな。なるべく寄り道などせずに先を急ぎたかったのだろうとその時は気にも留めなかったが……」
父グスタフのその回答を途中から聞いているのかいないのか、エヴァンジェリンは冷ややかな眼差しで、向こう側の廃墟の影をじっと見やっていた。
それ以上彼女が何も言わなかったので、妹は何故そんな質問をしたのかとハリエッタは首をかしげる。その言い分はまるで、よくない何かがそこにはある、と言っているように聞こえなくもなかった。
そんな不気味な廃墟から視線を巡らせて、進む街道のずっと先を目で追いかけていくと、彼方にはぼんやりと山影が見え始めていた。クレムルフトは山間の寒村であり、これより先には山越えの険しい道程が一家を待ち構えていた。
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