7. 月夜の逃亡
「寝てるのね」
「ええ、母君の側近のスレイン一族は、薬や毒に秀でた影を使いますので」
西の塔に配置された衛兵は全て眠らされており、フェイラエールは、迎えにきたシリルと一緒になんなく塔を抜け出ることができた。
フェイラエールは、シリルに連れられ皇宮の裏門を抜ける。
行く先々は、まるで手配されたかのように見張りに穴が空き、抜け道を案内する者がおり、フェイラエールとシリルは、労せずに城を出ることができた。
「ねえ、シリル。お母様は、何かおっしゃっていた?」
「……もう、王宮に戻ってくるなと。姫に、聖王家から離れ、自由になってほしいと」
「そう」
シリルが、西の塔からフェイラエールを助け出すことができたのは、母の手の者の協力があってこそだった。
シリルが、実家のつてを使ったのだろう。
シリルの実家であるアドマース家は、古くから聖王家に仕えて来た一族だった。
伯爵の爵位を持つが、その裏では「影」と呼ばれる特別に訓練された間諜を操る。
そして、これら聖王家に仕える一族は複数あり、緩い横つながりを維持しながら、歴代の聖王女を補佐していた。
フェイラエールにはアドマース家、母にはスレイン家、というように。
母の口からフェイラエールが欲しかった予言の内容は語られなかったが、皇帝の行動から、だいたいのところは推測できていた。
だから、フェイラエールにとって大切なのは、母に助けられたという事実だけだった。
(お母様は、私を助けてくれたわ)
つながりの薄かった母が協力してくれたという事実は、ひりついていたフェイラエールの心をわずかに慰めるのだった。
シリルに背後から支えられ、夜道を馬で走ること数時間。
フェイラエールは
周囲に気を配りながら馬を降りると、小屋の影から数名の人影が現れた。
緊張するフェイラエールの肩を安心させるようになでると、シリル自身も、ほっとしたようにつぶやく。
「大丈夫。味方です」
月の光を受けて、青く輝く黒髪に、フェイラエールは息を飲む。
「どうして」
「約束しただろう。『騎馬の民は、恩義に報いる』と」
「でも、危険すぎるわ。あなたたちが協力したのがばれたらっ」
「あの時、お前が皇帝暗殺を止めなかった場合と同じ結果になるだけだ。それに、悪いが俺たちの協力は、最短で自由都市ザロワテまでお前たちを送り届けること、それだけだ」
姿を現したのは騎馬の民の英雄タキス=トゥーセだった。
それだけといいながら、ザロワテまでの道は簡単ではない。
そして、この中原で最も旅を知り尽くした騎馬の民の助力を得られるのは、なにものにも代えがたいほどの
今のフェイラエールは、何も持たない。
彼に返せるものは、何もないのだ。
「あ、りがとう」
「な、お前、泣くなっ」
「泣いてないわよっ。月が目にしみたの」
「聖王女の目には、月すらも目の毒なのです。姫の貴重なご尊顔をこれ以上お前の目に触れさせるわけにいきません」
「……シリル、逆に恥ずかしい……」
フェイラエールの顔を隠すように抱きしめるシリルの腕も、緊張が解け力が抜けているのが分かった。
舞踏会の時のようにタキスに冷たく当たっているが、きっと彼らがここにいると知って誰よりも安心している。
(きっと大丈夫。全てうまくいくわ)
不安材料はいくつもあるが、ここまでは全て上手くいっている。
フェイラエールは、自分自身にそう言い聞かせて、再び前を向くのだった。
──それが過信に過ぎないことを、この時の彼女はまだ知らなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
元皇妃レキシスが姦淫罪の罪状を持って閉じ込められた北の塔には、平時に似つかわしくない荒々しい靴音が響いていた。
侍女の止める声も空しく、近づいた足音はためらいなくドアをあけ放つ。
「陛下。おかけくださいな。一緒にお茶でもいかがですか」
深い藍の髪と紫の瞳の美しい女が、部屋の中で一人、紅茶を口元に運んでいた。
あどけない笑みで、血塗れの剣を携えた皇帝アテルオンの顔を見上げる。
「娘を逃がしておいてしらじらしいな」
「陛下をお救いしたかったのです」
「救うだと?」
「はい。あの娘の予言は、関わる者を不幸にするものです。まずは、お手元から手放された方がよろしいかと」
皇帝の碧眼に光が宿るのを見て、レキシスは笑みを深めて話し続ける。
「歴代の聖王女は、皆、神の予言を賜り生まれて参ります。けれど、その予言が人心を惑わすような危険なものであった場合は、王家により秘匿されて参りました。私の予言も。──あの娘の予言も」
「お前は『聖王国を破滅させ』た」
「ええ、あの娘は『中原の覇王を選ぶ』でしょう」
賜った予言は、必ず、実現する――それこそが、聖王家がその地位を保ち続けた
「
「陛下もご存じの、あの娘の予言には続きがあるのです」
この者選びし者
覇王と為りて
その身に破滅を導かん
レキシスが歌うように告げる予言を耳にした皇帝は、レキシスに刃を突きつけた。
「何故黙っていた」
「フェイラエールは皇女。奪うなどという大逆を犯せば、破滅は道理。当然のことでございます。幼い娘にあえて『破滅』などという不吉な言葉を背負わせたくなかったのです──けれど、此度の婚約を聞き、あることに思い至りました」
沈黙の中、お互いの意図を暴くかのように皇帝と皇妃は見つめ合った。
「『奪う』は、聖王国の古語にて、結婚において純潔を散らすという意味を持ちます」
その言葉を受けて、皇帝は、抜身の剣でレキシスのいるテーブルの上の茶器を払い落した。
陶器の割れる耳障りな音が響き、レキシスの顔には、皇帝の剣についていた鮮血が飛び散った。
「俺は、俺をたばかるものを許しはしない。それは、あの娘を逃がした理由ではないな」
皇帝の冷ややかな声に、レキシスは、自分の失敗を悟った。
表情からあどけなさが消え、その瞳に異様な熱がゆらぐ。
「知っているぞ。お前が俺に近づく女をどれだけ殺させてきたか」
「だからこそ……っ、その力を持つからこそ、私は役に立ちます、陛下。あんな愚かな小娘、何もできませんっ。私の持つスレイン家の影は、あの娘の影よりよほど優秀ですっ」
「お前は間違えた。出すぎる駒は手元におけん」
「陛下っ。お慕いしているのです。愛しております。陛下の妻の座をあんな小娘にやったりはしないっ。あんな愚かな娘など……」
床を這い、皇帝の足元に縋るレキシスは必死に言い募る。
皇帝はうるさそうに自分のマントに手をかけたレキシスの腕を切り落とした。
「あ、や、いやあああああああーーーーっ!!」
レキシスの絶叫が室内に響き渡る。
皇帝は冷たく見下ろし、血のしたたり落ちる剣を投げ捨てた。
毛足の長い絨毯が赤く染まっていく。
「地下牢に入れておけ」
「は」
音もなく背後に控えていた側近がその命を受け、叫ぶレキシスは、その場から連れ出された。
「騎士団を経由して賊に奪われた皇帝の婚約者フェイラエールの捜索を命じろ。そして、市井に噂を流せ。内容は──」
皇帝アテルオンは、マントを翻し、部屋を後にする。
「奪い合い、そして滅ぼしあえ。愚かな娘には、最後に俺を選ぶチャンスをやろう──中原の覇王は、この私だ」
◇◇◇◇◇◇◇
陽の入らぬ地下牢で、左腕を落とされたレキシスは、固いベッドに横たわり、荒い息を吐いていた。
手当てをされた左腕からは血が滲み、顔は青ざめ憔悴しきっていたが、その瞳の奥の異様な熱は失われていなかった。
「全部、全部、あの娘のせいよ。……あの娘があんな予言を持って生まれてこなければ……許せない……許せない」
レキシスの枕元には、いつの間にか、フードを被り、顔を隠した小柄な人影が立っていた。
「あの娘を、陛下の妻になんてさせない。そうよ、あの娘を、予言と一緒にならず者どもに与えてしまえばいいのよ。下らない男に囚われて檻の中で飼われるような生活を一生味合わせてやる。私だけがこの地下牢で過ごすなんて、そんなの間違っているわ。そうでしょう、影」
フードの人影は、狂気を孕んでうっそりと笑う聖王女に小さく頷くと、懐から取り出した小瓶の液体を与えた。
荒い息が穏やかな寝息へと変わる頃には、地下牢の中に残されたのは、隻腕の聖王女ただ一人だけだった。
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