精霊に捧ぐ

春生カタパル子

雷と旭日

終わり、そしてはじまる

第1話 見知らぬ場所

 1


(なんで、なんで……!)

 激しい慟哭のごとき問いが叩きつけるように繰り返され。


(いやだ、まだ死にたくない!)

 心胆から湧き上がる熱望が胸を占め。


(どうして俺が、なんでこんな目にあうのが俺なんだよ)

 不条理への嘆きがこみ上げ。


(まだ生きていたい、くそ! くそ!)

 最後の瞬間まで湧き上がる生への執着に、意味のない悪態を吐き。


(俺よりも死んだほうがいいやつなんていっぱいいるんじゃないか!)

 無様で醜悪な心根を剥き出しにして、男は叫んでいた。


(こんなの、間違ってる、いやだ。俺は、俺は……!)

 意識が掻き消える刹那のときに、男は絞りだすように魂の声をあげる。


(父さん、母さん! 助けて……!)

 幼いときに死に別れた両親に、一心にすがった。

 その願いが届くことはなかった。




 雷礼央いかづちれおは死んだ。




 ゆっくりと、落ちていく。

 死を自覚した雷が朦朧とした意識でかろうじて知覚したのは、底のない場所に沈みいくような浮遊感だった。

 投げ出した手足に力は入らず、口も開かず、音も聞こえない。

 まぶたが閉じているのか、開いているのかも判別のつかないほどの暗闇の中を、雷はどこまでも沈んでいく。

 ろくに身動きの取れない不自由な体に、違和感はなかった。


 雷は交通事故で死んだのだ。


 体が動かせなくなって当然だろう。

 だが、だからこそ自分の思考がひどく不思議だ。

 停止した脳で、どうしてこんなふうにあれこれと思念が続いているのだろうか。


 今にも掻き消えそうな形になりきれない曖昧な思考とはいえ、終わったはずのものが存在している。

 これは一体、なんなのだろう。まともに考えることができないおぼろげな頭で、しばし考える。――ああ、なるほど、これがいわゆる死後の世界というものか。

 雷はやっと結論を出した。


 どこにいるとも知れない、飲み込むような漆黒の闇。


 潰えた命の残り滓が、残りわずかな時間で見ている光景なのだろう。


 納得した雷は、ようやっと考えることをやめた。


 そうすると、ほんのわずかに残っていた自我もどんどんと閉ざされていく気がする。

 眠りにおちるように、雷は最後の残滓である自分を手放す。

 砂のように散らばっていく意識が、緩やかに鳴る心臓に似た音を聞く。雷を包み込むようにどこからか響いている。それに重なるように、止まったはずの自身の心臓が穏やかに鼓動を打つ気がした。

 

 2


 もやがかかったような意識が一転、霧がさあっと晴れるようにはっきりする。


 見開いた目に飛び込んできたのは、視界の端まで見渡すかぎり乱立する木々であった。

 天幕のように頭上をおおう枝の隙間から届く月明かりに照らされた光景は、現代社会で生きていた雷には馴染みのない鬱蒼とした場所だ。


 雷は気づけば見知らぬ異様な森の中、ひとり立ちつくしていた。


 一部の木々は、緑の色が褪せて黄色く染まっている。夜の肌寒さと相まって、秋めいた空気を感じとった。

 ごつごつとした木の根が張った地面と木々は鮮やかな苔に覆われている。

 シダ科と思わせる渦巻状の芽の植物は雷の腰ほどまであり、あちこちに無造作に生い茂っていた。

 赤い実をつけた背の低い樹木や、木の根に這うように生える無数のきのこ。

 植生になどもともと詳しくないが、テレビ番組で見る日本の山野とははっきりと趣が違うのはひとめでわかった。


 なにより異様なのは、青白い花を咲かせほのかに輝く植物だ。ランプを花にでもしたような花の内側に、光がともっていた。

 点々と咲きほころぶ花は、月明かりがわずかな夜でも、周囲の確認には事欠かないあかりになっている。

 こんな花の存在など、雷は聞いたことがない。


(だが、どこかで見た気がする)


 言いようのない違和感が、雷の胸の中で生まれる。

 冷たい汗が流れ、雷は無意識のうちに唾を飲んでいた。


(俺はどうしてこんなところにいる? ここはどこだ?)


 未だ夢の中にいるのだと、すがるように強く願った。


(夢、わけのわからに場所にいる夢。これは夢なんだろう)


 明晰夢、という単語を雷の知識が告げてきて、この事態はそういうことなのだろうと雷は納得することができた。

 だが、これが夢なのだとしたら。


(どこからが、夢だ?)


 腹腔奥深くから湧き上がる吐き気に似たものを、雷は必死に飲みこむ。



 おもい返したくもない恐怖と絶望が雷の内側からあふれ出て精神をむしばむ。怖気がたつそれに矢も盾もたまらず叫び出したくなった。



 雷はとっさに腹をさすった。

 命がまたたくまに目減りしていくあの時、一秒、一瞬、激しく脈打つ鼓動のひとつひとつを、雷は克明に覚えている。

 

 最悪な想像を――腹に穴が開いている――したが、想像したような手応えはなかった。

 痛みもなにもなく、どうやら怪我がある様子はない。

 雷の人生において一度も袖を通したことのない詰襟の学生服めいたものをぐしゃりと皺になるほど鷲掴んだだけだった。

 安堵で深く息を吐いた。

 

(俺は……今、夢の中にいる)


 きっと、自分の体は今、眠っている最中なのだ。

 そう、あの事故もきっと夢。

 自分の精神安定の都合のいいことを言い聞かせるが、それを不可能にする残酷なまでの衝撃を思い出してしまった。心臓が怯えるように戦慄いている。


 雷の命が完全に途絶えたあの瞬間。

 社員旅行のために乗車したバスが、目的地である温泉旅館に向かう途中、カーブが多い切り立った道路から転落する事故を起こした。

 窓ガラスから勢いよく放り出され、木の枝が深々と腹に突き刺さった。

 まるで百舌の速贄だった。


 即死できず、少しの間だけ雷は意識が残っていた。

 ショック状態のホルモンの過剰分泌のおかげか、あんな状態のわりに耐えきれないような痛みはなかった。

 だからこそ、痛みへの辛苦を吐くよりも、恨み辛みばかりをくどくどと胸の内で吐いていた。

 どうして自分がこんな目にあわなければならないんだという底のない闇に沈むような絶望感の生々しさを、夢だった、などと楽観的に切り捨てられない。


(だが、あれが夢じゃあきゃ、今、ここにいる俺は一体なんだっていうんだ?)


 困惑して身動きのとれない雷のそばを、塵のように小さな虫が、群れをなして飛びかっている。

 むっと鼻をついてむせ返るような土のにおいを含んだ粘ついた淀みを孕んだ風が、木々の間を割って通り過ぎ、雷の頬をじっとりとなでていく。

 黒い髪が、風におどるようにそよいだ。

 直後に雷は違和感を抱く。しかし、それは現状において些細な違いでしかなかったので、雷ははっきりとその違和感の原因を己の中に追求しなかった。

 

 3


 今、最も大事な自身の問題――自分は死んだのかどうか――に関して、どれほど考えても答えは得られず、ただ呆然とするだけで、なにも解決しない。

 今は悩んでも仕様のないことだ。


 直面している不自然さからは目をそらし、雷はこれは夢だと言い聞かせる。

 そして、これはただじっとしていたところで終わらない夢なのだ。

 不意にこみ上げてきたつめたい切迫感が、雷をぼんやりさせるのを許さなかった。

 虫の知らせとも言えるかもしれない。


(何もしないでいるのは、よくない……気がする)


 直感が胸を締めつけたため、自失していたのは僅かな間だった。

 ありもしない助けや救い、都合のいい終わりなんてどれだけ待っていたところで訪れてはくれない。

 雷はそれをよくわかっている。

 何もしないで何かを掴んだり、結果を出せたりするような、要領が良くて運がいい人間じゃない。

 自分から努力して、動かなければならない。自分はそういう類の人間なのだ。


 夢の中の世界の優しさなんてなくて、現実世界と同様の不条理さがある異境にいるのだと、はっきりとした証拠もないが雷はふつふつと感じ取っていた。

 深く呼吸をする。うるさい心臓を鎮め、雷は自分の体を把握する。


 短い間で積もり重なった違和感を無視しきれなくなった。自身の姿や格好がどうにも気になる。そっと目の前にかざした手は、雷の記憶にあるものよりもずっとちいさい。


(子供の手だ)


 地面の距離から目測できる視界の低さといい、体が縮んでいるのだと雷は理解した。

 髪をさわる。

 風になびいたときも、気になった。雷の髪型は短髪だ。しかしくしけずる手は腰まで流れていく。

 指ざわりのいい滑らかな黒髪だった。花のあかりに照らされて、緑色に艶めく。不可思議な光沢のせいでよくできた作り物のように見えた。


(変なの、女みたいだ)


 ここまで伸ばした長髪の男は、なかなか見たことがない。

 衣服も、黒い学生服のようだと思ったが、子細が違う。

 服には白い縁取りがあり、そこにはうっすらと規則的な模様がある。

 それに服の上に細いベルトを巻いている。ベルトには繊維の荒い布袋と長い棒が引っかかっていた。


(なんだ、これ?)


 まずは棒を手に取る。

 表面を綺麗に加工されている、今の雷の腕の長さほどある木製の棒だ。

 持ち手があり、試しに片手で振ってみる。何か起こることを期待したわけではない無意識の動作だった。

 特に何も起こらず、雷はそんなものだろうと棒を戻した。手頃な棒があるととりあえず振り回してみたくなる少年心が、緊張感なく雷を突き動かし、その欲求のままなんの気なしに棒を振ったにすぎない。


 袋の中には青い液体で満たされた試験管が入っていた。この試験管はなんなのだろう、と疑問を浮かべることはなかった。逆に、それこそがおかしいと雷は感じた。奇妙な既知感に僅かに不快感をいだき、眉をひそめる。

 雷はこの試験管に見覚えがあり、そして知っている・・・・・・


(これ、もしかして回復薬ポーションか?)


 アクションゲームが苦手な雷が、やっとの思いでプレイしているゲームの回復アイテムに酷似していた。


 4


 いよいよもって夢の様相をていしてきた。

 記憶の中にあるそれらしい小道具を使い、非現実の中に精神を没入している。


 そう、おもいたかった。


 理屈を立てるのはなんとでもなるが、いやに現実味を帯びた五感がそれを否定してくる。

 全身の血が沸騰しているかのような、熱い音を聞く。

 やけに激しい脈拍の熱に浮かされそうになる。そのまま意味もなく喚きたくなった。

 冷静さを保つために、雷は何度も自分に言い聞かせた。


 これは夢なのだ――と。


 気づいてはいけないことを明確に自覚してしまったら、雷はきっと正気ではいられない。

 身の内から這い出てくる嫌な予感を、必死に蓋で閉めて隠した。


 目の前にあるものを確認しよう。 

 少しでも建設的なことをして、気を紛らわせるのだ。


 雷は試験管を手に持った。子供の手にはやや余る細長い硝子管。コルクで封がなされている。

 傾けた硝子管の中で、青い液体は水のようになめらかに流動する。

 雷は訝しみながら、しげしげとそれを眺める。

 見た目はまさにアイテムの説明欄で出てくる、アイコン通り。しかし、これは本当に自分の思うような回復薬ポーションなのか?


 飲んだり、肌につけたりして試してみようという気にはならない。

 好奇心と疑問のまま行動して失敗するのは、恐ろしい。夢であれば・・・・・、想像とは違う悪い結果が出ても問題はない。飲んでみたら毒で喉が灼けても、つけた瞬間肌が焼け爛れても、現実の雷礼央には一切無関係なはずだ。

 今、自分は夢の中にいるので問題などない。だが、雷は無警戒な行動をとれなかった。

 ずっと腹の奥ですくだまる恐怖が、雷が軽挙をしでかさないよう抑制する。


 それに、思った通りのものだとしたら、健常な体に使うのは惜しい。


 回復アイテムの名の通り、怪我を治せるものなのだったら、無駄に使うべきではないだろう。これから何が起こるのか分からないのだから。


(もし、怪我をしたら……そうだ、夢の中だって痛い思いをするのは嫌なんだ。嫌な夢を、自分が死んだ夢を見たばかりなんだ。これで、治せる。大事にしたほうがいい。これで、あんな怪我をしても治せるんだ。これは夢なんだから、そういうことなんだろう)


 雷は無意識のうちに衣服越しに腹をなでていた。

 現実感を伴った死んだ夢を見た直後、また別の夢の続きを見ている状態。

 動揺しながら辻褄の合う理由を頭の中で構築して納得する。そうしてやっと、雷は袋の確認を再開した。


 袋の中には同じ試験管が五本はいっている。他には、銀色の硬貨が五枚。そして黒い表紙の小さな本が一冊。


(銀貨……? 100ゴールド? ……なんだ、これ気持ち悪い!)


 硬貨に描いてある模様を認識した瞬間、雷は言いようのない気色の悪さを感じた。

 見たこともない数字だ。漢数字でもアラビア数字でもローマ数字でもない。

 なのに、雷はそれが数字であると理解し、意味を読み取れた。

 ぞっと全身の毛が逆立つ。反射的に硬貨を投げ捨てそうになった。訳のわからない薄気味悪い出来事も夢だから仕方のないことなのだ、と呪文のように言い聞かせてそれをおさえる。


 金額と共に描かれた通貨の単位も一瞬で把握できた。

 雷がプレイしているゲームの金の単位も、ゴールドだった。


(『精霊の贈り物』の夢でも見ているのか……?)


 100ゴールド硬貨が五枚。自分の所持金は500ゴールド。ゲーム開始直後の所持金はそのくらいだった気がする。

 おもえば、現在着ている衣服はゲームの初期装備に似ていた。

 回復魔法を使う【神官クレリック】の最下級装備だ。

 黒い詰襟の上下に、付加効果はないただのロッドが武器。

 そして、長い黒髪の小さな体。 


(もしかして、ゲームのキャラになってる?)


 雷はそのことにようやく気づいた。

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