靴紐

・喫茶店で頼んだソフトクリームにさくらんぼがついていた。真っ白な背景に鮮やかなほどの赤。幼い子どものささやかないたずら心みたいだ。それを摘んで実をひと口で頬張ると、わずかな甘さと酸っぱさを感じる。割合に大きな種を吐き出してしまえばもうその味は残っていなくて、あとはひたすらに甘いソフトクリームがあるだけ。やっぱりいたずら心に似ている。


・月を見上げない日はないんじゃないか、と思う。夜になると、いや、昼の間も、ふと空を見上げて月を探してしまう。ドアの鍵を閉めるのと同じような、外出時のルーティーンになっている。自分が月に何を求めているのかは分からないけれど、毎回数秒は見上げてしまう。


・秋の終わり、夜の準備をしているような暗い水色の空に薄い月が浮かんでいた。俺は頭の中で「夕月夜小倉の山に鳴く鹿の声のうちにや秋は暮るらむ」と呟いた。自然に頭に湧いて出てきていた。確か紀貫之だったように思う。こういった風に、現実と詩歌が繋がる経験は気持ちがいい。そんなことをぼんやりも考えているうちに信号が青になって、俺は前を向く。


・昼の青空に浮かぶ月は世界の終わりによく似ている、と思う。その不釣り合いな感じというか、あり得なさがそう思わせているのかもしれない。というか月のこと書きすぎだろ。初恋か?


・世界は名前によって出来ていることを、最近強く実感する。アベリアの花も寒椿も、その名前を知ってから視界に飛び込む回数が増えた。特に椿なんかはあんなに鮮烈な色をしているのに、名前を知るまでは全く見えていなかった。もったいない。世界の名前を大事にしていきたい。でも、名前をつけずにいたいものも確かにあって、少し困ってしまう。


・靴紐を結ぶ。時計を合わせる。楽器のチューニングをする。世界に自分を合わせる行動。これらが苦手だ。靴紐はすぐ解けるし、時計やチューニングはすぐまたずれる。ただの不器用とかたづけてしまってもいいけれど、何か抽象的な意味を付与してもいい。とにかくこれらの行動をしているとき、なんだか少し寂しくなる。


・アンディウォーホル展に行った。ウォーホルは戦後アメリカの大衆消費社会を象徴する画家で、反復などの技法が有名。展示の仕方もそれに倣った意欲的なもので面白かった。特にキャンベルのトマト缶には感動した。まさか生で見られるとは思ってなかったな


・『蚊』という小説を書いた。一年前から構想だけはあって、最近ようやく形にできた。大人と子供、性愛と純愛、恋と信仰。様々な二項対立をそこに込めた。蚊と乳房は男女の間にあるそれらを表現するためのメタファーのつもりだった。しかしそれを他サークルの人に見せたところ、それはもう多種多様な解釈をされてしまって、思惑通りにメタファーを機能させるのは難しいと感じた。


・京セラ美術館で気に入った作品 

河合健二『曙光』

下村良之介『月明を翔く(弥)』

徳岡神泉『流れ』


・『冬蜂の死にどころなく歩きけり』村上鬼城の俳句。最近ひよんなことから知った句で、一目惚れしてしまった。そう、これなんだよ。俺は俳句にささやかな悲劇を求めている。

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