201 オレンジジュースの味

 パドックから移動してきた競走馬がゲートに並び、スタートの合図で一斉に駆け出す。

 満席状態の観客達が湧く中、久志ひさしは藤田に渡されたオレンジジュースの缶を手に、意気揚々とする彼の横顔を眺めていた。


 藤田は昔と全然変わりない。

 もうあれから何年も経っているのに、彼から見た自分もオレンジジュースが好きな子供のままなのだろうか。


「もうこんなの飲まないよ。美味いけど……」


 文句を言いながら飲んだそれは懐かしい味がする。

 久志は上にズレたパーカーの左袖を指先へと伸ばした。『ここへ来る時は長袖を着てこい』というのが藤田との約束だ。

 能力を使うキーダーだと周りに知られてしまえば、イカサマだと言われかねないからだ。


「イカサマどころか、負けてばっかりだけどね」


 藤田に会った途端、時間が過去へ巻き戻されたような気がした。不安なんてない、ただ真っすぐに仕事をしていたあの頃が懐かしい。

 彼が退職して以来縁がなかった競馬の音も、今は何だか心地良かった。


「あぁ、畜生。外れたか」


 「ぐわぁ」と唸って、藤田は浮かせていた尻をドンと椅子に落とした。

 冷め切らない興奮に沈黙を挟んで、改めて久志に向き合う。


「そう言えばお前、良くここが分かったな」

「オッサンはこの席にしか居ないじゃないか」

「まぁそうだな。けど、そんな足で来ても他の奴らに跳ね飛ばされるだけじゃねぇのか?」

「こんなの大した事ないよ。それよりオッサンが変わってなくてホッとした。白髪は増えたけどさ」


 藤田は「がはは」と豪快に笑う。


「お前の変な頭はそのまんまだな」

「これは僕のポリシーだからね?」


 久志は後ろに結わえた髪を、頬の横でくるりと指に絡ませる。

 やよいの事があって以来、髪に無頓着になってしまった。前は毎朝セットしていたのに、今は伸びた分を後ろに纏めているだけだ。

 すぐに切る予定はないけれど、ここからどうしようかと迷っている。


 久志は次のレースまでの時間を確認し、「オッサン」と切り出した。


「泣き言を言ってもいい?」


 そっと彼に伺うと、藤田は無言のまま立ち上がって「行くぞ」と後方へ促した。


「飯食いながら話そうぜ。奢ってやる」

「賭けに負けて、そんな太っ腹な事言っていいの?」


 藤田はいつも金欠だ。

 久志がする藤田の腕時計も、退職の記念に何か──とデパートへ向かった足が競馬場ここに来て、一文無しになった故の結果に過ぎない。


 「いいんだよ」と笑んだ藤田の顔が、何か他の意味を秘めているような気がしてならない。

 けれど話ができるならどこでも良かった。

 久志は飲み終えたジュースの缶を片手に松葉杖を掴んで、「分かったよ」と立ち上がった。







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