120 龍之介のサプライズ

綾斗あやとさん!」


 ガラス窓の向こうで手を振る龍之介を見つけて、京子は綾斗とエントランスへの扉を潜った。

 個人経営のピアノ教室が主催だと聞いて、こじんまりした会場を想像していたが、実際はオーケストラを呼ぶような広々としたホールだ。入ってすぐの天井には巨大なシャンデリアが飾られていて、華やかに着飾った人々がエントランスを埋め尽くしている。


「綾斗さんも京子さんも、いらっしゃいませ」


 カメラを提げた記者もちらほらと見受けられる中、龍之介もまたいつもとは違うスーツ姿で二人を迎えた。

 ジャケットさえ着てはいないが、袖を捲り上げた白いシャツの胸元には洒落しゃれたネクタイが緩めに結ばれている。

 大きな段ボールを抱えた腕で、額の汗をグイと拭った。


「今日はお招きいただいて有難う。予想はしてたけど、凄い規模だね」 

「俺は毎年の事なんでこんなものかなって感じですけど。あ、母親呼んできますか?」

「いや、それは遠慮しておくよ。今ここに出てきたら騒ぎになりそうだし」


 発表会とはいえ、それだけならこんなに人は集まらないだろう。

 階段の下に立て掛けられた巨大な立て看板には講師である『相葉紗耶香あいばさやか』の名前が大きく入っている。

 京子も会ってみたいとは思うけれど、事実上の主役がここに登場してしまったらと考えると遠慮せざるを得なかった。


「分かりました。そういえばさっきはドレスが決まらないって騒いでましたよ。京子さんは素敵なワンピースですね」

「でしょう? 朱羽あげはに選んで貰ったんだよ。ちょっと派手かもと思ってたけど、結構浮かないものだね。今日の事何も言ってなかったけど、朱羽は呼ばなかったの?」

「今日は生徒さんたちがメインの発表会ですから」

「何だ、勿体ない。龍之介くんのスーツ姿、朱羽が見たら喜ぶんじゃない?」

「お、俺と朱羽さんは、上司と助手です!」


 龍之介は赤面して、はっきりと主張する。

 確かに二人はそれだけの仲だけれど、朱羽は満更でもないだろうと京子は妄想を膨らませている。


「そっか。けど、朱羽ってこういうの詳しそうだし、龍之介くんのお母さんの事知ってるんじゃない?」


 勝手な想像だけれど、『お嬢様』の彼女には馴染みのジャンルだと思っている。案の定、龍之介は「そうなんですよ」と太い眉毛を持ち上げた。


「名前だけならって言われました。まぁピアニストって言っても昔の事なんで、綾斗さんみたいに喜んでもらえると嬉しいです」

「また生で聞けるなんて思ってなかった。龍之介くんには感謝してるよ」

「弾くって言っても二曲だけですけどね。生徒さんもプロ志望の学生が多いんで、聞き応えはあると思いますよ」


 彼女は引退後、個人名でのコンサートは開いていないらしい。綾斗にとっては、そんな2時間の生徒演奏がおまけになっている。


「龍之介くん、ちょっと来て貰っていい?」


 遠くからの声に呼ばれて、龍之介が「はい」と返事する。黒いスーツを着たいかつい面々が、細い廊下の手前で「こっち」と手招いた。

 主催者側の龍之介は、裏方の手伝いで忙しいようだ。


「スポンサーの方々です。俺行かなきゃならないんで、ここで。楽しんでいって下さいね」

「うん、ありがとね。龍之介くんも頑張って」

「はい。それじゃあ」


 ペコリと頭を下げてけ出した龍之介が、ふとUターンして戻って来る。


「京子さん、ちょっといいですか? 相談が……」

「えっ? 行かなくていいの?」

「すぐ済むんで。朱羽さんの事で……綾斗さん、ちょっと京子さん借りますね」

「どうぞ……?」


 それは今話す事なのだろうか。良く分からないまま龍之介に付いて行くと、彼は「すみません」と声を潜めた。


「朱羽がどうしたの?」

「あ、いえ。そうじゃないんです。京子さん、綾斗さんの好きな曲知ってたらなと思って」


 「サプライズです」と龍之介は策士さくしの顔をする。数メートル先の本人は、気を使ってかこちらに背を向けていた。


「曲って、ピアノのってことか」

「そうです。綾斗さん、うちの母親のピアノが好きだって言ってくれるから、きっと好きな曲があるんだろうって思ったんです。京子さんなら知ってるかな、って」


 それを講師演奏にぶつける、というのが龍之介の秘かな狙いらしい。


「龍之介、やさしいんだね。綾斗の好きな曲、知ってるよ。えっと──あれ?」


 子供の頃に彼女のコンサートで聞いたという思い出の曲を、綾斗は北陸の自宅で京子の為に弾いてくれた。何度も聞いたそのフレーズはちゃんと頭に入っているのに、曲名が思い出せない。


「何だっけ……月が入ってたような……」


 あの日二人で空を見上げたのは、その曲のタイトルに『月』が入っていたからだった気がする。


「月光ですか? ベートーベン?」

「……だったかなぁ?」


 タイトルを言われてもピンと来ない。そうだったような、そうでなかったような。

 戸惑う京子に、龍之介は「コホン」と咳払いして、そのメロディを口ずさんだ。聞いたことのあるメロディだけれど、綾斗の弾いた曲とは別だ。


「ううん、違う。他の曲かな?」

「だったら、こっちですね」


 ニコリと笑って、今度は別の曲を続けた。

 龍之介は毎日ピアノを聞いているのが分かる。狂いのない音程に、すぐそれが正解だと分かった。


「それ! すごい、龍之介くん。ずっと聞いていたくなっちゃう」

「鼻歌歌ってるだけですよ。けど良かった、これはドビュッシーの月の光です。覚えといて下さいね」


 満足げな顔をして、龍之介は男たちが消えて行った方へ走って行った。

 京子は「ただいま」と綾斗の所に戻る。


「内緒話は解決した?」

「うん。もうバッチリ」


 龍之介の仕掛けたサプライズにワクワクして、京子は「行こう」と綾斗の手を握り締めた。







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