71 向いてない
目が覚めた部屋には、京子以外誰も居なかった。
公園から病院経由でアルガスに戻った所までは覚えているが、そこからの記憶は飛んでいる。
アルガス三階の処置室は、
ねっとりした湿布の匂いに頭が痛んで、京子は横に寝返って患部を押さえた。
近くに戦闘の気配はない。怖いくらいに静かなその状況に布団を首まで被ると、枕元に置かれたスマホがメールを受信している事に気付いた。
「桃也?」
彼の声が聞きたかった。文字だけでもいいからと、飛びつくように画面を開く。
けれど、送り主は
『大人しくしてるのよ』
気遣ってくれる彼女の言葉が嬉しくないわけじゃない。ただ、彼だったら良かったのにと思ってしまう。
「電話……してもいいかな」
この間、別れ際にサードの話をされてから、不安になる事が増えた。彼に聞かれた返事はまだ答えられそうもないけれど。
普段忙しい彼に、自分から電話をすることはない。監察員は重要任務に就いている事も多く、連絡はいつも桃也に任せていた。
『辛い時に辛いって言えない相手じゃ、もたないんじゃないかしら』
キーダーになる事を選んだ桃也が北陸へ行った時、セナにそんなことを言われた。
あの時はそれなりに素直になれた気がしていたのに、それ以上の進展がないまま二年以上が過ぎている。
けれど、こんな時くらいと期待してしまうのは怪我のせいだろうか。
「向いてないのかな……」
キーダーになりたての頃は弱音なんて吐かなかったのに、痛みについ弱気になってしまう。
遠い通話記録から桃也の番号を拾って、発信ボタンを押す。
五回呼んで出なかったら諦めよう──そう思ったのも束の間、コールさえ鳴らないまま電波が入らないという案内が流れた。
「桃也……」
急に胸が苦しくなって、スマホを枕元に放した。
今回はずっと会えていないわけじゃない。修司がキーダーになって、彼がトレーナーとして本部に居たのは、つい三ヵ月前の事だ。
「声だけでいいのに……」
込み上げる思いに目を閉じると部屋の扉が小さくノックされて、「失礼します」と綾斗がやってきた。
「起きてたんですか。すみません、オジサンたちに呼ばれてて。気分はどうです?」
「…………」
平気だと言おうとした途端涙が溢れて、京子はぎゅっと唇を閉じる。横向けに寝たまま布団に顔を埋めると、綾斗が転がったスマホを
「怖い夢でも見ました?」
「ううん……痛っ」
急な痛みが走って、京子はタオルに顔を押し付ける。
「颯太さんから鎮痛剤預かっていますよ。起き上がれますか?」
「うん」
差し伸べられた手を掴んで、そっと体を起こした。
「検査の結果は問題なかったみたいですけど、一応頭打ってるんで安静にって事です」
「分かった」
涙をゴシゴシとタオルで拭い、京子は受け取った錠剤を流し込む。多めに飲んだ水のお陰で、気持ちを少し落ち着けることができた。
再び横になって、心配そうな綾斗を見上げる。
「綾斗はいつも側に居てくれるね」
「嫌なら言って下さい」
「嫌じゃないよ。ただ、申し訳ないなと思って」
彼を恋愛の対象として見たことはないが、側に居てホッとできるのは嘘じゃない。
お互いに不満を漏らすことも多いが、突き放した事やされたことはない気がする。
綾斗の隣は居心地がいい。この気持ちは何と表せばよいのか、京子には言葉にすることができなかった。
「申し訳ないだなんて思わないで。ちゃんと下心ありますから」
「何それ──ごめんね」
それは色々な意味を含めた言葉だ。
「まずは元気になって下さい」
綾斗は優しかった。いつも勝手にパーソナルスペースに飛び込んでくるのに、こういう時は空気を読んでくれるのか、距離を置いている。
そのせいで、ずっと抑えていた気持ちが零れた。
「怪我したくらいで寂しいと思ったり弱音吐くのって、キーダー失格なのかな」
「たまに愚痴ぐらい吐かないと、やってられないですよ」
「そうなの? 綾斗でも?」
アルガスに入った頃の綾斗は、『国の為に』と血気盛んだった気がする。
「キーダーだからって何でもできるわけじゃない。京子さんだって、キーダーは神様じゃないって言ってたじゃないですか。嫌なことは嫌だって言えばいいんですよ」
「そう……かな」
五月の戦闘で負傷してから、まだ三ヵ月しか経っていない。今回はこの程度で済んだけれど、少しの怪我でも精神的なダメージは大きかった。
「悩んでました?」
「うん。けど、綾斗もそうなんだって思ったら、ちょっと前向きになれた」
「なら良かった」
「私ね、やっぱりこの仕事が好き。こんなに怪我しても、次こそはって思っちゃう」
「京子さんらしいですね」
「私らしい……かな」
頭が痛んで目を閉じると、ベッドの上にあった京子の右手を綾斗が握り締めた。
「…………」
その手を振り
小さい頃、注射が嫌でいつも看護師さんに手を握ってもらった。あの頃と同じように、痛みも不安も魔法のように落ち着いていく。
「酷いなら颯太さん呼びますか?」
「ううん。そろそろ薬も効くと思うから、このまま……」
「わかりました」
穏やかに笑い掛ける綾斗にホッと目を閉じるが、突然立ち上った気配に瞼を開く。
距離はまだ近くはないが、それが戦いの合図だというのは分かった。
「始まった?」
「京子さんはここに居て下さいね」
繋いだ手にそっと力を込めて、綾斗は「行ってきます」と放す。
「ごめん、今日は頼むよ。無事でいてね」
「心配しなくていいですよ。ちゃんと終わらせてきます」
「お願い」
部屋を出て行く綾斗を見送って、京子は空になった手をぎゅっと握り締めた。
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