62 元ピアニスト
一人で
広い廊下を挟んだ長いソファの端で、重い空気を
「
「だったんですけど、朱羽さんが気になって。綾斗さんも京子さんの所じゃなかったんですね」
「俺も呼ばれたから。京子さんは落ち着いて寝てるよ」
綾斗は『拷問部屋』とは言い難い小奇麗な木の扉を指差して、
「さっき二度目だってボヤきながら入って行ったから、もう少し掛かると思う」
「二度目?」
「たまにしか来ないから、オジサンたちも色々聞きたいんだろうね」
「そっか……俺もここで待ってていいですか?」
「どうぞ」という返事を待って、龍之介は同じソファの反対側へ腰を下ろした。
綾斗がソファに背を預けて目を伏せると、再び沈黙が広がる。
龍之介は少し前にポケットで振動を感じたことを思い出し、さすまたを横に置いた。
銀次だろうと思っていたが、メールの送り主は母親だ。夕飯をどうするかという内容だったが、帰りたくない気持ちを抑えきれず『友達の家に泊るから』と嘘をつく。
すぐに返ってきた返事は『おうちの方によろしくね(はあと)』という絵文字付きのメッセージだ。
罪悪感を覚えつつ「よし」と小さく意気込んで、龍之介は銀次にもメールを書く。
『さっきはごめん』と送信してすぐに既読の表示は出たが、返事は返ってこなかった。
「八時になるけど帰らなくていいの? 車で送らせるよ?」
銀次の返事を待ってスマホ画面にかじりつく龍之介に、綾斗が横から声を掛ける。
「今日は泊るってメールしたんで、平気です」
「泊るって、朱羽さんの所に? 見掛けによらず大胆だね」
不審がる表情に別の意味を汲み取って、龍之介は慌てて「違うんです」と首を振った。
「あ、朱羽さんと夜を過ごしたいとか、そういうのじゃないんです。ただ……帰りたくなくて」
「ふうん」と綾斗は意味深な笑みを浮かべる。
下心がないとは言い切れず、無理矢理話を逸らそうと龍之介は「そうだ」と両手を叩いた。
「えっと俺、
「心美ちゃん? それって佐倉心美ちゃんのこと?」
「そうです!」
綾斗は彼女の小さな背を掌の高さで表す。
「うちの母親が家でピアノ教えてて、教室で銀環してる彼女を偶然見掛けたんです。もしやと思ってその子のお母さんに聞いたら話してくれて」
「偶然だね。俺、あのお母さんに最初嫌われててさ、暫く人さらいみたいな目で見られてたんだよ。けど、通ってるうちに少しずつ、ね」
「お母さんもそんなこと言ってました」
ピアノの前にちょこんと座っていたあの少女もキーダーなのだ。
生まれたばかりの我が子に『国の為に戦う運命が』なんて言われたら、そんな気持ちにもなるだろう。
「家がピアノ教室か。ちょっと羨ましいかも」
「そうなんですか? 毎日ピアノの音しますよ?」
「いいと思うけど。嫌なの?」
「嫌って言うか……」
その理由を考えて、少しだけ恥ずかしいと思いながら龍之介は
「小さい時から母親は家に居たんですけど、ずっと生徒さんに掛かりきりで淋しかったから。まぁ流石に今はそんなことないんですけど。あと、知らない人とウチのトイレで鉢合わせするのが嫌で」
「そりゃなってみないと分からない苦労だね」
「ですね。うちの母親は元ピアニストなんです。教室開くのが夢で、父親と駆け落ちしたらしくて。目標を貫けるところは尊敬してるんですけど──って、綾斗さん?」
ふと綾斗の視線が気になって顔を上げる。
何か考えるように泳がせた彼の目がパッと見開いて、食いつくように龍之介を捕らえた。
「元ピアニストって……龍之介くんのお母さんって、名前は……?」
「名前?
「川嶋紗耶香? 川嶋紗耶香が龍之介くんのお母さんなの?」
「は、はい、旧姓は川嶋です。現役時代はちょっと有名だったみたいですけど、綾斗さん知ってるんですか?」
現役時代なんて、独身だった20年近く前の話だ。綾斗もまだ生まれた頃だろう。
けれど疑問が確信に変わって、綾斗は尋常じゃない程に興奮を見せた。
「知ってるも何も、俺ファンだから!」
「えぇ?!」
はっきりと宣言する綾斗は、龍之介がここ数回で受けた印象と大分違う。
彼の魂を揺さぶる相手が自分の母親だという事実に、龍之介は逆に困惑してしまった。
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