2 彼女が振り上げた武器は。

「ちょっと待って下さい!」


 茶封筒を懐に入れる男に、龍之介は慌ててすがりつく。勢いで腕を掴んだ両手は、しかし呆気あっけなく払い飛ばされてしまった。


 ドンと尻もちをついた龍之介に刺青の女は無言のまま存在感だけを押し付けて、歩き出す男を追い掛ける。


「返して下さい! お願いします!」


 龍之介は素早く立って声を張り上げた。桜が咲いたことに気付かないくらい働いたバイト代を諦めるわけにはいかない。


「待って!」


 人ごみの中へ紛れそうになる彼を見失わぬようにと、必死で地面を蹴りつけた時だ。


「ちょっとそこの貴方、待ちなさい。彼が待てって言ってるでしょう?」


 龍之介の背後から、花見の喧騒を跳ね除けるような鋭い女性の声が響いた。

 スカジャン男が何かにつんのめるようにガクリと動きを止めた所から、龍之介の目の前で不自然の連鎖が起きる。


 風は止んでいるのに自然の摂理や法則を無視して、男の懐に入ったはずの茶封筒が意思を持ったように彼の頭上へと飛び出したのだ。


 「えぇ?」と龍之介は目を見開く。


 持ち逃げされそうになったバイト代が宙を滑り、龍之介の広げたてのひらに飛び込んできた。


「な、なんで」

「貴方のお金なんでしょう? はやく、しまいなさい」


 後ろから急かされ、龍之介は「はい」と茶封筒をリュックの奥底へ突っ込んだ。

 状況を飲み込めずにいるのは、スカジャン男も同じだった。呆然ぼうぜんとする彼の横で、刺青女が細くすぼめた目を肩越しに覗かせる。


「キーダー?」


 怒りをはらんだ口調に男が「はぁ?」ときびすを返した。龍之介はそんな二人の視線を追って、横に並んだ彼女を振り向く。

 

 フワリとした緩めのボブヘアから覗く凛とした横顔。舞い散る花びらをまとった彼女に、龍之介は心を奪われてしまう。

 恐怖心をあおるものなど何もなかった。


「キーダーだったら、どうするつもり?」


 彼女はその肩書を否定しない。前髪をかきあげた彼女の左手首に銀色の輪を見つけて、龍之介は息を呑む。


 「ふざけんな」と怒り口調で詰め寄って来る男は、龍之介が衝動でどうにかなる相手でないことは明らかだ。

 けれど彼女は違う。一見で華奢な印象を、その銀環が覆した。

 こんな場面で彼女と遭遇した奇跡に、龍之介は安堵からの期待を募らせる。


「貴方が先に、彼のお金を盗んだんでしょう? 返すのが当たり前の事じゃないの?」


 毅然きぜんとした態度で前に出る彼女に、スカジャン男がガンを飛ばした。


「お前、田母神たもがみ京子か?」

「違うわ」


 覚えのある名前を口にした男に、刺青女が「バカなこと言わないで」と厳しい声を浴びせる。遠目に目を凝らす彼女は、整った眉を吊り上げて銀環の彼女を指差す。


「良く見てよ。あの女の顔を忘れたの? あの女はもっと髪が長くて……」


 「あぁ?」と男は顔をゆがませて、銀環の彼女を足元から見上げていく。


「髪なんか関係ねぇだろ。まぁ、お前がそう言うなら別人かもしれねぇけどな。この女がキーダーってことに変わりはねぇか」

「私はアンタたちの事なんか知らないわ。京子じゃなかったらどうするつもり? やる気なら相手してあげるわよ」


 銀環の彼女は二人を睨んで、右手を横へ伸ばす。

 辺りを見やった彼女の視線が山盛りに詰め込まれたごみ箱を捕らえると、空の一升瓶がズボと音を立てて空中に跳ね上がった。


 「うわっ」と驚いた龍之介の前を瓶がくるくると不自然に回転しながら移動して、彼女はその飲み口をキャッチする。


「物騒な女だな。それで戦う気かよ。こんな所で俺を怒らせるなよ?」

「怒らせたらどうするつもり?」


 横柄な口調でふんぞり返る男に、彼女は強気に一升瓶を構えた。

 戦闘が始まるのかと龍之介は固唾を呑むが、ふと彼女が表情を一変させる。「え?」と唇を震わせる彼女に、スカジャン男は「やめとこうぜ」と両手を頭の後ろに組んで背を向けた。


「この桜に免じて、今日は見逃してやる。次は覚えてろよ?」


 それは負け惜しみのようにも聞こえたけれど、銀環の彼女は瓶を持った手を下ろし、二人が立ち去るのを引き留めようとはしなかった。


 二人の姿が雑踏ざっとうに消え、龍之介はホッと胸に手を当てる。

 「ありがとうございます」と頭を下げると、銀環の彼女はゴミ箱へ一升瓶を戻し、「怪我はない?」と龍之介に微笑みかけた。


「はい。俺は何ともありません。けど、貴女は……」

「私を誰だと思ってるの?」


 彼女は左手の銀環を龍之介に示す。


「桜を見ようと思って来たら、揉めてるのが分かったから放っておけなかっただけよ。けど、ちょっと緊張したかな」


 「はぁぁ」ととろけるように安堵する彼女から、ほんのりとアルコールの匂いがした。

 零れた笑顔に胸がいっぱいになって、龍之介は緩んだ口元をキュッと締めて「はい」と大きくうなずく。


「じゃあ、私行くわね。貴方も気を付けて帰るのよ?」


 「さよなら」と手を振った彼女の銀環をもう一度確認して、龍之介は再びその背に向かって「ありがとうございました」と頭を下げた。



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