【番外編】16 髪を切った理由

 修司がりつと出会うより、半年と少し前の話だ。


 早朝から山積みの資料と向き合って、朱羽あげははようやく一息つこうと席を立った。外にある公共のスピーカーからメロディが流れて、今が昼だという事に気付く。


「もうこんな時間か」


 喉が渇いて、朱羽はやかんを火にかけた。

 ここ最近ずっとこんな感じで忙しいのは、夏頃に現れた三人組の窃盗団のせいだ。

 不良グループから派生した仲間らしく、皆二十歳前後と若い。呼び名の通りの窃盗事件や万引き、挙句の果てには傷害事件まで起こしている。

 その一つ一つは小さなものだが、管轄が警察ではなくアルガスなのは主犯格の男がバスクらしいということからだった。後の二人はノーマルだと言うが、どれも確定事項ではない。


「早く捕まればいいのに」


 パソコンのモニターに映る三人の写真を睨みつけて、朱羽は冷蔵庫の上に置いた鏡を覗き込んだ。起き抜けで作業していたせいで、髪がまとまりなく広がっている。


「伸びたなぁ」


 そういえば暫く美容室に行っていない。

 気晴らしに少し切ろうかなと思って、同じ町内会のイケメン美容師に電話しようとスマホを開くと、数時間前に届いていた一件のメールに気付いた。DMなどは入らないようにしている、仕事用のアドレスだ。


 送り主は久志ひさしだった。

 事務所にある『さすまた』を新しいものに交換するために、今から向かうという一方的な内容だ。


「ちょっと。今からって……さすまた?」


 それが既に風景と化していることに気付いて、朱羽は部屋の隅を振り返った。一年以上前に久志からだと言って届けられたそれが、本棚に立てかけられたまま鎮座している。


「これから来るの?」


 北陸からヘリで来るとしたら、もう着いてもおかしくない時間だ。

 予想もしていなかった事態に、慌ててさすまたに駆け寄る。嫌味な姑よろしく、人差し指を曲線に這わせると、案の定白い埃が山を作った。


 護身用だと言われていたが、一度も使ったことがなければ触った記憶も薄い。とりあえずいらないタオルで埃を拭き上げると、早々にチャイムが鳴った。


「使い方は今言った通りだからね。取説置いておかなくて大丈夫?」

「ちゃんと頭に入ったんで、問題ないですよ」


 説明を半分も聞いていなかったけれど、使う日が来るとも思えない。


「分かった。本部にも何本か置いてきたから、綾斗に渡しておくね。必要になったら向こうに行くといいよ。『さすまたくん2号』が、朱羽ちゃんを守ってくれるよ」


 知らぬうちに名前が付いているどころか、シリーズものになっている。


「最近、調子はどう? 頭痛はまだある?」

「たまに。けど、前に比べたら落ち着いていますよ」

「なら良かった。またいいアイディアが浮かんだら、持ってくるよ」


 体調を気遣う久志に、朱羽は「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。

 たまに起きる朱羽の頭痛に責任を感じているらしいが、彼のせいではないのにと申し訳ない気持ちになってしまう。


「じゃあ、また来るね」


 相変わらずテンション高めにやってきた久志は、夕方には戻らなければと要件だけを済ませ、あっという間に事務所を離れた。


「そんなに忙しいなら来てくれなくても良かったのに」


 朱羽は呟きながら、新しいさすまたを本棚の定位置へ戻した。

 アルガス技術部のレベルは高いと思うけれど、たまにおかしな開発品が出ることが玉に瑕だ。

 どっと疲労を感じて、朱羽は美容室を諦めつつ外へ出た。常備しているカモミールティが切れかけている事に気付いて、散歩がてらストックを買おうと思ったからだ。

 行き掛けに美容室を覗くと、流石人気店だなと言わんばかりに客が席を埋めている。


「やっぱり今日は駄目だわ」


 もし空いていたらと淡い期待を抱いたが、入れる余裕はなさそうだ。


 事務所と同じ町内会には『自称・朱羽の親衛隊』だと自負する男子が何人も居て、美容師の彼もお茶屋の丸熊もメンバーの一人だった。

 女子校育ちで男子が苦手だった朱羽も、そんな彼等たちの影響で少しずつ慣れてきている。


 今日がこのまま穏やかに終わればいいと思った。しかし何かある日というものはイベントが重なるもので、お茶を買って気晴らしに大通りへ出たところでまさかの人物と遭遇した。


「ウィル──?」


 ついさっきまで読んでいた資料に載っていた写真と同じ顔が、目の前を通り過ぎた。窃盗団のメンバーで、主犯格の男だ。

 三人組は全員日本人なのに、それぞれカタカナのコードネームが付いている。


 彼がバスクだと言われているが、気配は殺しているようだ。仲間の二人が側にいないことは幸運なのかもしれない。

 上官たちの顔が頭にチラついたが、朱羽は迷う隙を挟まずに彼を追い掛けてその腕を掴んだ。


「キーダーよ」


 切れ長の鋭い視線が朱羽を睨む。


田母神たもがみ京子か?」


 その時が訪れることを、相手も予感していたのだろうか。どこで得た情報かは知らないが、ウィルは確信を持ったようにその名前を突きつけて来る。


「えっ……そ、そうよ」


 彼の間違った認識を逆手にとって、朱羽は咄嗟に嘘をついた。

 途端に気配を現したウィルが、全身をくねらせて拘束を解く。駈け出そうとする彼を追い掛けて、朱羽は力を放った。


「待ちなさい!」


 もしもを想定して身に着けている武器は、実際に使うことなど考えてもみなかった。

 朱羽は趙馬刀ちょうばとうを腰から抜いて、体勢を崩した彼に飛び掛かる。

 バスクとの衝突を街中でやるのははばかられるが、彼を逃がすわけにはいかなかった。ただ途端にできたギャラリーが、恐怖ではなく好奇心を丸出しにしてスマホを構えてきたことに、少しだけ後悔する。


 けれど後には引けず、迎撃するウィルと戦闘状態に入る。

 力の差はあったが、彼を捕まえるのに時間は掛からなかった。



   ☆

「で、これを私がやったってことにさせたいの?」


 電話で駆け付けた私服姿の京子が、呆れ顔でウィルを覗いた。


「お手柄でしょ?」

「手柄なんて言うなら、自分がやりましたって言えばいいのに。ウィルを拘束したなんて言ったら、オジサン達大喜びだよ?」


 趙馬刀のベルトで後ろ手に縛られたウィルは、道路際の電柱に括りつけられていた。長めに伸びた前髪の隙間から、何か言いたげな瞳が二人を見据えている。


「だって。私はまだあの事務所に居たいのよ」

「まぁ、ありがたく頂いとくけど。朱羽もちゃんと訓練してたんだね」

「一応ね。そうだ京子、アレ持ってる?」

「アレって?」


 ウィルに銀環をしなければならない。バスクを捕まえたら、まずは力を抑制させることが最優先事項だが、今日の朱羽は生憎それを持ち合わせてはいなかった。

 そんな緊張の緩んだ瞬間を待ちわびたように、ウィルの視線が朱羽を狙う。

 途端に跳ね上がった気配に驚愕するのと同時に、衝撃が朱羽の腹部を襲った。


「あっ……」


 拘束されたまま攻撃を飛ばしたウィルに京子は驚いて、即座に反撃する。宙を走った光が肩を貫いて、彼はぐったりと頭を落とした。


「ちょっと朱羽、コイツに銀環付けてなかったの?」


 うずくまる朱羽とウィルの足元に血が流れて、ギャラリーに悲鳴が上がる。


「今、お願いしようと思ったトコ……」

「遅いよ!」


 力なく上げたウィルの視線が勝ち誇ったように笑った。京子は「終わりだよ」と睨み、その手首に銀環を縛り付ける。


 救急車を待たずに朱羽がよろめきながら近所の診療所に向かったのは、それでもアルガスにこの事実を知られたくなかったからだ。後の処理を京子と駆け付けた綾斗に丸投げして、事務所の鍵も預けた。


「私を誰だと思ってるのよ」


 心配した二人に返した常套句は、小さくかすれてしまう。

 けれど傷は深かったものの命に別状はなく、親衛隊の一人である診療所の『カズ先生』が快く朱羽を受け入れてくれた。


 入院中、野次馬たちによってネットに拡散された現場の写真を見て、朱羽は「そうだ」と閃く。

 退院してまず向かったのは、当初行こうと思っていた美容室だった。


「えっ、ホントにいいの?」


 髪をバッサリ切って欲しいと頼むと、イケメン美容師で親衛隊メンバーのホリがくっきり二重の大きな目を丸くした。

 もうずっと長いまま切ることができなかったのは、アルガスへ来たばかりの頃マサに『可愛い』と褒められたからだ。


「はい。そろそろ、いいかなと思って」


 写真に写る自分の後ろ姿が、京子とそっくりだった。

 偽装の精度を上げようと思ったのが半分。あと半分は、少し前を向いてみようという思いを孕んだ気まぐれだ。


「似合いませんか?」

「いや、そんなことない。俺好みにしてあげるよ」


 ホリはいつものナンパ口調でそんなことを言って、バッサリと根元にハサミを入れた。



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