91 10分後の未来に

 お盆を過ぎた八月の晴天。雲の欠片が散らばった青空が山の稜線りょうせんまで広がっている。


 野外ステージの後方で待機するヘリに搭乗して、もう10分は過ぎただろうか。

 操縦席に背を向けて座る綾斗あやとは余裕の表情で、ステージから流れてくるジャスティの歌と歓声に耳を傾けていた。

 エンジンは掛かっているがプロペラはまだ動いていない。パイロットのコージが外で京子や彰人あきひとと綿密な打ち合わせをしているところだ。


「ちょっと落ち着きなさいよ」


 時計を何度も確認する修司を、美弦みつるが横から睨みつけた。彼女にも緊張した様子はない。エアコンのかかった機内で汗だくの修司とは正反対だ。


 腕の怪我が治り、本番前に飛んだのはたった一回のタンデム飛行だった。

 簡単な座学講習と、ホールでの模擬訓練を経てあっという間にヘリに乗せられた。


「この間跳んだ時は、爽快だって言ってはしゃいでたじゃない」

「それは綾斗さんが居てくれたからだろ?」


 不思議なもので、背中に綾斗ベテランが居るだけで恐怖が吹き飛んでしまったのだ。

 それなのに彼は今、目の前で別のパラシュートを付けている。


「あぁ……やっぱり綾斗さん、今日もタンデムして下さい」

「今日の主役は修司くんだろ? 新人キーダーが初めてソロで降下するって彰人さんが銘打ったからね。前も言ったけど、着地失敗しそうになったら地面に向かって力を撃てば直撃はしないし、外の二人が下で補助してくれるから大船に乗ったつもりで」


 自分の力なんて全く信用できないし、空中で冷静にその判断ができるとは到底思えなかった。京子や彰人を信用していないわけではないが、どうしても絶対壊れない舟に乗った気にはなれない。


 絶望感が下りてきて、彰人の悪戯な顔が脳裏に浮かんでくる。窓の外の本人へ目をやると、ふんわりとした笑顔で手を振ってきて、何故か美弦が両手を振り返した。


「大分楽しそうじゃねぇか。お前は怖くないのかよ」


 美弦は「何で怖いのよ」と意味不明な返しをしてくる。


「こんなの遊園地のアトラクションみたいなものでしょ?」

「美弦は最初から平気だったからね」


 綾斗の言葉に「余裕です」と美弦は胸を張った。彼女とはどうやら住む次元が違うらしい。

 こっそり調べた情報では自衛隊ですら特殊部隊のする事だというのに、ろくな訓練もないまま単独で空に放り出すなんて、やはりアルガスにとってキーダーは駒なのかと改めて実感してしまう。

 大舎卿だいしゃきょうが写ったビールのポスターも、きっとこんな理不尽な仕事だったに違いない。


「けど、最初なんだから緊張するのは仕方ないわ。さっき近藤さんに会ったんだけど、終わったら美味しい肉食べさせてあげるって言われたわよ?」

「肉かぁ。あの人が連れてってくれるなんて、凄ぇ店なんだろうな」

「ま、アイドルの子たちと同席でって話は断ったけどね」


 あんな事があった後なのに、近藤とは何故か友好的になっている。きっとそれは彼の思うままにはならないというアルガス側の確固とした意思と、ジャスティのお陰だろう。


「だから、頑張りなさいよ?」


 突然美弦が優しい言葉を掛けてくれた時が、まさに定刻だった。

 バタリと扉が閉まる音に顔を上げると、操縦席に乗り込んだコージが綾斗とサインを送り合っている。


 遠くに聞こえていた軽快な音楽が回転を始めたプロペラ音に消え、振動とエンジン音からの閉塞感へいそくかんに全身が殺気立った。


 窓の外で手を振る京子と彰人。今からでも交代して欲しいと念を送るが、二人は両腕を大振りにするばかりだ。


 清々しい顔で「テイクオフ」の合図をする綾斗の声を待って、機体が揺らりと地面を離れた。

 シートベルトとパラシュートをぎっちりと握っていると、視界の隅で何かが動く。


 即席のヘリポートをぐるりと巡らせたバリケードテープぎりぎりの位置で、譲が大きく手を振っていた。その姿はあっという間に小さくなり、地上が遠のいていく。

 高度五百メートルの空はいつものフライトより少し低く、富士山をバックにした壮観な風景が広がっていた。


 こんな場所でヘリの扉を開こうだなんて馬鹿げているとしか思えない。

 もう全てをネガティブにしか捉えることができず、顔面蒼白がんめんそうはく状態だったのだろう。「大丈夫?」と流石の美弦も心配そうに修司を覗き込んできた。

 精一杯に見栄を張って首を横に傾けると、


「スカイダイビングみたいに高くないから、一瞬で終わるわよ」


 スカイダイビングとは違うが、一瞬でないことは実証済じっしょうずみだ。

 今から全てが終わるまで、10分は掛かるだろうか。ここから逃避とうひしたいと思うが、逃げ出せる場所もまたヘリの外だ。

 受け入れざるを得ない現実にやっと口から出た言葉は「もう駄目だ」である。


 「全く」と見兼ねた美弦が溜息ためいきらして、じろりと修司を横目ににらむ。


「無事に下に降りれたら、ほっぺにキスしてあげてもいいわよ」

「えっ?」


 耳を疑う発言を直前の記憶から拾い上げて、修司は「マジで?」と眉を上げる。


「ちょっ……ううん、やっぱりやめた。嘘。冗談よ、本気にしないで!」

「いいや、聞いたからな。絶対だぞ?」


 ほおを赤らめて、面食らった美弦の横顔に、自分でも驚く程に頭がスッキリしてきた。

 相変わらず単純だと笑う。少しでもキーダーになったことを後悔したら速攻やめろと言った、平野の言葉がよみがえってきた矢先の事だった。


 十分後の自分が生きていたら、やっぱりキーダーで良かったと思えるはずだ。辛いことも多そうだけれど、こんな選択もアリだと思える。


 とりあえず後のことは、ほっぺにキスしてもらってから考えることにしよう。

                                   




エピソード2-END

エピソード3へ続く



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